3
天青皇国を囲む険しい山脈の獣道には、容赦のない冷気が澱んでいた。
湿った腐葉土の匂いと、時折吹き抜ける氷のような風が、容赦なく体温を奪っていく。頭上を覆う鬱蒼とした枝葉に阻まれ、月明かりすら足元には届かない。
皇宮を脱出して、すでに三日が経過していた。
私の数歩後ろを歩く玲玉殿下は、まるで糸を抜かれた操り人形のように、ただふらふらと私の背中だけを追っていた。
かつて宮中の白砂を踏んでいた純白の絹靴は、鋭い岩や木の根に引き裂かれ、もはや原形をとどめていない。むき出しになった足先からは血が滲み、泥と混ざって黒く変色している。だが、彼は「痛い」とも「歩けない」とも言わなかった。
視線は虚空を彷徨い、紫水晶の瞳からは一切の光が失われている。今まで皇宮で、蝶よ花よと大切に育てられた箱庭の皇子。皇宮を突如として追われ、そして父である皇帝の凄惨な死と、自身の身代わりとなった春燕の記憶が、彼の精神を完全に外界から遮断させてしまったのだろう。
「……殿下、少し休まれてください」
太い木の根元に彼を座らせると、玲玉は抵抗することもなく、ただ崩れ落ちるように腰を下ろした。膝を抱え、うつむいたままピクリとも動かない。
私は周囲に追手の気配がないことを聴覚で確認すると、手早く荷を下ろした。
火は熾せない。煙と匂いは、暗闇の中で追手に居場所を教える狼煙になるからだ。
私は暗がりの中で岩肌の湿り気を手探りで辿り、岩の裂け目から滴る湧き水を見つけ出した。竹の水筒に冷たい水を満たし、道中で仕掛けておいた罠にかかっていた野兎の血抜きを手早く済ませる。生肉を食べることはできないが、血をすするだけでもわずかな飢えと渇きはしのげる。過酷な訓練で叩き込まれた野営の技術が、今になって彼の命を繋ぐ唯一の手段となっていた。
「殿下、お水を」
玲玉の口元に竹の水筒を当てる。彼はビクンと肩を震わせたが、自ら飲もうとはしない。私が少しずつ水筒を傾け、無理やり喉に流し込んでやる。半分以上が顎を伝って泥だらけの衣にこぼれ落ちたが、彼はそれを拭おうともしなかった。
「……美味しくないですか。宮中の甘い薬膳茶とは違いますからね。ですが、飲まなければ死にます」
平坦な従者の声を作って語りかける。返事はない。
彼が凍死しないよう、私は自らの外套を脱ぎ、玲玉の震える肩に分厚く巻き付けた。さらに、彼の氷のように冷え切った両手を、私の両手で包み込んで力強く擦る。私の手には、兎の血と泥がこびりついていたが、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。
「殿下。聞こえていますか。私はここにいます」
沈黙に押しつぶされそうになる彼の心を引き戻すため、私は絶え間なく言葉を紡ぎ続けた。
「明日は、もう少し下ったところに木の実がなる沢があるはずです。酸っぱいですが、食べられますよ。……殿下は以前、私が干し果物を食べているのを見て『よくそんなものが食べられるね』と笑いましたね。明日は、殿下にもその酸っぱさを味わっていただきますからね」
虚空を見つめる玲玉の睫毛が、微かに揺れる。
「泣いても構いません。痛いなら、痛いと叫んでください。……お願いですから、魂まであそこに置いてこないでください」
私の声が、最後は微かな懇願の響きを帯びてしまった。
いつ何時も冷静な従者であるべき私が、感情を露わにしている。だが、この圧倒的な冷気と闇の中で、彼がこのまま静かに息を引き取ってしまうのではないかという恐怖が、私の心臓を鷲掴みにして、感情を抑えられなかった。
父上、貴方は「涙は弱者の証だ」と言いました。
けれど、今のこの方から弱さすら奪ってしまったら、後にはただの美しい死体しか残らないではありませんか。
私は彼の冷たい指先に自らの額を押し当て、祈るように、そして呪いをかけるように囁き続けた。
「生きてください、殿下。貴方の影が、決して死なせはしませんから」
* * *
「……足を見せてください。化膿すれば、命に関わります」
私は玲玉の足元に跪き、引き裂かれた絹靴の残骸を慎重に剥ぎ取った。
現れた素足は、目を背けたくなるほど凄惨な有様だった。木の根や鋭い石で皮膚は裂け、爪の間には黒い泥が深く入り込んでいる。宮中の柔らかな絨毯しかほぼ歩いたことのない白磁の足は、すでに赤黒く腫れ上がり、痛々しい熱を持っていた。
私は竹の水筒から、氷のように冷たい湧き水を布の切れ端に少しだけ含ませる。
「沁みますよ。堪えてください」
竹筒から滴る氷のような水が、布を通じて泥と血にまみれた生の肉に触れた瞬間だった。
「——っ、ぁ……!」
ビクンッ、と玲玉の身体が、雷に打たれたように大きく跳ねた。
虚ろだった紫水晶の瞳に、ひゅっと強烈な焦点が戻る。痛覚という最も原初的で暴力的な感覚が、彼の魂を深海のような暗闇から、この凄惨な現実世界へと無理やり引きずり上げたのだ。
「痛い……っ」
玲玉の口から、掠れた声が漏れた。
それは次期皇帝としての威厳など微塵もない、ただただ痛みにおびえる幼い子供の声だった。
「痛いよ、凛華。足が、痛い……寒いよ……っ」
「動かないでください。泥を落とさねば、傷口から腐り落ちます」
「いやだ、痛い……! なんで、なんでこんな……父上っ、春燕……っ!」
堰を切ったように、玲玉の両目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
彼は自分の膝を掻き抱き、顔を泥だらけの衣に押し付けて、しゃくり上げるように泣きじゃくり始めた。宮中の温室から叩き出され、すべてを理不尽に奪われた十五歳の少年の、あまりにも無様で、惨めな慟哭だった。
(泣けばいい)
私は布を動かす手を止めず、血の滲むような思いで奥歯を噛み締めた。
父は「涙は弱者の証だ」だとよく言った。けれど、痛みを痛みとして感じ、悲しみに声を上げて泣くこと。それこそが、彼がまだ『人間』であるという唯一の証明なのだ。
かつて、私が木刀で打たれた青痣を見て、彼は私の代わりに泣いてくれた。ならば今度は、私が彼の代わりにすべての感情を殺し、冷酷な鉄の盾になろう。彼がこの地獄の中で、人間として泣き叫ぶことができるように。
「……っ、うぅ……あぁぁぁっ……!」
暗い森の中に、彼の泣き声だけがいつまでも響いていた。私はただ黙って、彼が泣き疲れて気を失うまで、その痛々しい傷口に冷たい布を当て続けていた。
夜が深まるにつれ、森の温度はさらに急激に下がり始めた。
吐く息は白く凍りつき、葉に落ちた夜露が霜へと変わっていく。
大木の根元で身を丸めている玲玉の身体から、ガタガタと歯の根が合わない音が聞こえてきた。
私が巻いてやった外套だけでは、この山の冷気は防ぎきれない。失血と疲労、そして過呼吸になるほど泣き叫んだことで、彼の体力は完全に底をついていた。
「……殿下」
私が覗き込むと、玲玉は目を固く閉じたまま、小刻みに痙攣するように震えていた。顔面は土気色になり、唇は紫色に変色している。
(このままでは、凍死する)
私は躊躇うことなく彼の隣に座り込み、その冷え切った身体を自分の腕の中へ強く引き寄せた。
「……ぁ……」
玲玉は無意識のうちに、私の体温を貪るようにすがりついてきた。
細い両腕が私の背中に回り、泥だらけの指先が胡服の背をきつく握りしめる。氷塊のように冷たい彼の頬が、私の首筋にすり寄せられた。
「凛華、行かないで……」
熱に浮かされたような、弱々しい譫言が耳元で震える。
「ひとりに、しないで……僕を置いて、行かないで……っ」
「行きません」
私は彼の震える背中に両腕を回し、少しでも自らの体温が移るように、己の身を削るような力強さで抱きしめ返した。
首筋にすり寄せられる彼の頬は氷のように冷たいのに、そこから伝い落ちる涙だけが、火傷しそうなほど熱かった。
彼の髪からは、まだ皇宮が燃え落ちた時の、焦げた木材と血の匂いが微かに漂っている。
私の胸の中にいるのは、かつて天青の至宝と謳われた美しい次期皇帝ではない。すべてを失い、死の恐怖に怯え、私の温もりだけを命綱としてすがりついてくる、ただの哀れな子供だ。
(ああ、重い……)
腕の中の彼の身体はひどく細く、頼りない。だというのに、今の私が抱え込んでいるこの少年の命は、天青皇国の未来そのものだ。その途方もない重圧が、私の背骨をミシミシと軋ませる。
冷たい夜風が吹き抜ける中、私は自分よりも背の低いその身体を外套ごとすっぽりと抱きかかえながら、私たちを飲み込もうとする暗闇の森をただ静かに睨みつけていた。
どれほどの困難を掻い潜ろうとも、私が必ず、貴方をもう一度あの玉座へ連れて行く。
それは祈りなどではない。この絶望の底で私が私自身にかけた、重く暗い呪いだった。
冷たい夜風が吹き抜ける中、私は自分よりも背の低いその身体をすっぽりと抱きかかえながら、暗闇の森をただ静かに睨みつけていた。
首筋に落ちる彼の熱い涙の感触が、ふいに私の意識を、いつの間にか深い泥の底のような過去へと引きずり込んでいた。
——泣くな! 涙は弱者の証だ!
鼓膜を劈くような父の怒声と、容赦なく振り下ろされる木刀の風切り音。
私が十一歳の頃の記憶だ。大将軍であった父の訓練は、実戦さながらの殺気を帯びていた。受け流し損ねた木刀が私の肩を打ち据え、小さな身体は無様に練兵場の泥土へと転がった。全身の骨が軋み、肺から酸素が絞り出される。
『立て! お前は次期皇帝の盾となるべき者だ。その程度の痛みで顔を歪めるな!』
口の中に広がったのは、泥のじゃりっとした感触と、舌を噛んだことで滲み出した鉄錆の味だった。
痛かった。苦しかった。普通の少女のように声を上げて泣きたかった。けれど、私に「弱さ」は許されていなかった。私は歯を食いしばり、必死に涙腺を焼き切るような思いで涙をこらえ、震える足で再び木刀を構え直した。
その日の夕暮れ。父のしごきが終わり、私は皇宮の裏庭、人目のつかない大きな柳の木の陰で膝を抱えていた。
全身の青痣が熱を持ち、張り詰めていた気が緩んだ途端、どうしても涙がこぼれ落ちた。父の言いつけを守れなかった自分が情けなくて、声殺してしゃくり上げていた。
『……凛華? 泣いているの?』
ふと、頭上から降ってきたのは、鈴を転がすような幼い声だった。
顔を上げると、そこには九歳になった玲玉が立っていた。
玲玉は物心つく前に実の母を亡くしている。皇帝である父君は彼を深く愛していたが、玉座にある者として常に政務に追われ、幼い息子を膝に抱いてやる時間は少なかった。凛花も物心つく前に母親を亡くしており、父の厳しい修行に耐える日々、幼いながらにその気持ちが彼とは共感できる部分があると思っていた。
だからこそ、彼は乳母である春燕を母のように慕い、そして少し年上で、常に護衛として側に立ち続ける私のことを、頼りになる「姉」のように慕ってくれていた。
『殿下……。申し訳ありません、見苦しいところを』
『怪我をしたの? 痛いの?』
玲玉は躊躇うことなく泥だらけの私の隣にしゃがみ込むと、最高級の白絹で仕立てられた自身の袖口を伸ばし、私の汚れた頬を拭い始めた。
『殿下、なりませぬ! 御衣が泥で汚れてしまいます』
『いいよ。……僕には、凛華みたいに剣を振る力はないから。でも、凛華が痛いなら、僕が半分持っておくよ』
その紫水晶の瞳には、一切の打算も、憐憫すらなかった。ただ純粋に、大切な姉が泣いていることが悲しいという、真っ直ぐな慕情だけがあった。
夕暮れの陽だまりの匂い。沈香の甘い香り。そして、彼の体温が移った絹の柔らかさ。
誰よりも強くあらねばならないと自分に呪いをかけていた私の心は、その時、このひどく不器用で優しい彼の存在によって、確かに救われていたのだろう。
「……ん……っ」
腕の中で玲玉が身じろぎしたことで、記憶の陽だまりは唐突に断ち切られた。
私の五感を満たしているのは、甘い沈香の香りではない。腐葉土と湿った苔の匂い、そして生々しい血の匂いだ。
肌を刺すのは温かな夕陽ではなく、骨の髄まで凍りつかせるような山奥の冷気。
そして私の胸にすがりついているのは、無邪気に笑う美しい皇子ではなく、すべてを奪われ、恐怖と寒さに震える抜け殻のような少年だった。
「……大丈夫です。私が、ここにおります」
私は、彼の泥だらけの髪にそっと自分の頬を寄せた。
かつて私の涙を拭ってくれた優しい手は、今は氷のように冷え切り、私の背中の衣を死に物狂いで掴んでいる。母代わりだった春燕も、優しい父君も、もうこの世にはいない。彼に残されたのは、もはや私という身一つだけだった。
大将軍の娘としての鉄の誓いだけではない。
姉として、母として、この世界でただ一人残された彼の家族として。
私は、決してこの火を消させはしない。
夕暮れの陽だまりの匂い。沈香の甘い香り。そして、彼の体温が移った絹の柔らかさ。
誰よりも強くあらねばならないと自分に呪いをかけていた私の心は、その時、この果てしなく優しい彼の存在によって、確かに救われていたのだ。
——だからこそ、私は彼を守り抜かねばならない。
私のために涙を流してくれた、あの美しい魂だけは、どんな泥水に沈もうとも絶対に穢させはしないと。
吹き荒れる夜風が森の木々を不気味に揺らす中、私はただ静かに、この腕の中の命を夜明けまで温め続けた。




