2
天青皇宮の正殿『太和殿』は、数百の蜜蝋燭が放つ黄金色の光に満たされていた。
明日に控えた皇太子任命式を祝う前夜祭。天井まで届く朱塗りの柱には瑞獣の彫刻が施され、床に敷き詰められた瑠璃色の絨毯の上を、豪奢な絹を纏った貴族や官僚たちが行き交っている。
鼓膜を打つのは、宮廷楽団が奏でる編鐘の重厚な音色と、琴の弾むような調べ。そして、脂の乗った豚の丸焼きの匂いと、年代物の紹興酒の芳醇な香りが、むせ返るような熱気となって渦巻いていた。
私は正装である黒の胡服に身を包み、主賓席から斜め後ろに三歩下がった位置で、彫像のように直立していた。
視線の先には、豪奢な白と金の礼服に身を包んだ、十五歳なる玲玉殿下の背中がある。
「殿下、明日の立太子、誠におめでとうございます。殿下が陛下のごとく、偉大なる『平和の君』としてご成長されることを、臣一同、心よりお祈り申し上げております」
恭しく盃を捧げるのは、恰幅の良い文官の長だ。その言葉は美しく飾られているが、伏せられた瞳の奥には明らかな焦燥と疑念が張り付いている。
玲玉は玉座に浅く腰掛けたまま、白磁のような頬にふんわりとした笑みを浮かべた。
「ありがとう。でも、僕は父上みたいに賢くないから、これからも皆に助けてもらわないとね」
屈託のない、あまりにも無防備な言葉。
文官の眉間が一瞬だけピクリと引き攣るのを、私は見逃さなかった。(この危急の時代に、まだ誰かにすがるつもりか)。声に出されない苛立ちが、周囲の官僚たちの間にさざ波のように広がっていく。
叔父である鎮国公・煌雷の軍事的圧力が高まる中、宮中の人間が次期皇帝に求めているのは「敵を打ち砕く強さ」だ。しかし、目の前に座る少年は、ただただ美しいだけのお人形のような存在だった。
だが、その「美しさ」だけは、何者にも代えがたい絶対的な魔力を持っていた。
「ああ……殿下がお笑いになったわ」
「伏せられた睫毛の影すら美しい。今はまだお可愛らしいけれど、あと数年もすれば、どれほど色香のあるお顔立ちになられることか……」
柱の陰で、扇の口元を隠した若い女官たちが熱を帯びた溜息を漏らしている。十五歳という、少年から青年へと移り変わる境界に立つ玲玉の姿は、彼女たちの目には「いずれ国中の女を狂わせる至宝」として映っている。政治の暗雲などどこ吹く風で、彼女たちは数年後の彼の成熟を甘く期待し、色めき立っていた。
(誰も、本当の意味で殿下を見てはいない)
私は静かに息を吸い込み、柄に添えた左手の指先を微かに動かした。
政治の道具として軽んじる者と、美しい装飾品として愛でる者。彼らは玲玉が、他者の悪意に耐えきれずにあえてあのような態度をとっているという真実に気づこうともしない。私だけが、この孤独な玉座の隣で彼の影であり続けるのだと、今年で齢十七の私は己に言い聞かせていた。
その時、太和殿の重厚な扉が開き、楽団の演奏がふつりと止んだ。
場にいた全員が、弾かれたように床に跪き、頭を垂れる。
「陛下のおなーりー!」
宦官の高い声が響き渡る中、現皇帝・白 慈恵が静かに歩みを進めてきた。
玲玉に似た柔和な顔立ちだが、その目元には国を背負ってきた深い皺が刻まれ、黒髪には白いものが混じっている。武力ではなく理によって国を治めてきた男の、静かだが岩のように揺るぎない覇気が、その場を制圧していた。
「面を上げよ。今宵は祝いの席だ、無礼講で構わぬ」
慈恵帝の温かくも威厳のある声に、再び宴の熱気が戻る。
皇帝はゆっくりと玲玉の元へ歩み寄り、その前に立った。玲玉が立ち上がり、子供のような笑みを向ける。
「父上、政務は終わったのですか?」
「ああ。明日は其方にとっても、私にとっても大舞台だからな。無理をしてでも時間を作った」
皇帝は少し骨張った手で、玲玉の肩を優しく叩いた。
その視線には、父親としての深い慈愛と、そして「平和主義」を貫くがゆえに国を二分しつつある現状への、隠しきれない憂いが混じっていた。自らへの不満が高まっていることを、この聡明な皇帝が気づいていないはずがない。それでも彼は、剣を抜かないという修羅の道を選んでいる。
「玲玉。明日から其方は、名実ともにこの天青を背負うことになる。……私が敷いた平和の道は、決して平坦なものではない。心細く思う夜もあるだろう。だが、それでも」
「大丈夫です、父上」
玲玉が、皇帝の言葉を遮るように柔らかく微笑んだ。
「僕には、父上が残してくれた優しい国があります。それに、どんな時でも必ず、僕を守ってくれる人がいますから」
玲玉の視線が、皇帝越しに私へと向けられた。
紫水晶の瞳が、純粋な信頼で私を真っ直ぐに射抜く。私は表情筋を殺したまま直立を保った。
皇帝は玲玉の視線を追い、ゆっくりと私の方へ向き直った。
「……柳 凛華」
「はっ」
私は即座に膝を折り、冷たい床に手をついた。
「其方の父である柳大将軍は、私の最強の『剣』であった。彼が北の蛮族を退けてくれたからこそ、私はこの国に平和の種を蒔くことができたのだ」
皇帝の靴の先が、私の目の前で止まる。かすかに、古文書の墨と、使い込まれた香の匂いがした。
「だが、剣は折れた。これからの時代に必要なのは、他者を傷つける刃ではない。大切なものを守り抜くための、決して砕けぬ『盾』だ」
静かな、しかし確かな重みを持った声が、頭上から降り注ぐ。
「凛華。明日より、玲玉は正式に皇太子となる。それに伴い、其方を正式に皇太子専属の近衛武官に命ずる。……私の息子を、これからもよろしく頼む。何があっても、彼を護り抜いてやってくれ」
「——御意にございます。我が命に代えましても、殿下の御身をお守りいたします」
深く敬礼しながら、私は誓いの言葉を口にした。
「うむ。頼もしい限りだ」
皇帝は満足そうに頷き、再び玲玉へ向き直って何かを語りかけた。
宴の喧騒が再び二人を包み込む。
私は立ち上がり、元の位置へと戻った。
ふと、背筋に冷たいものが走った。
視線を巡らせると、遠く離れた柱の陰から、叔父である鎮国公・煌雷が、氷のような目で皇帝と玲玉の背中を見つめているのに気づいた。彼が手にしていた瑠璃色の杯が、ギリッと音を立てて嫌な光を反射する。
(……気のせいだ。ここは、皇帝陛下の足元。何も起きるはずがない)
私はその悪寒を無理やり腹の底に押し込み、再び鉄の従者としての呼吸に戻った。
この黄金色に輝く平和な夜が、永遠に崩れ去ることになるとは知らずに。
* * *
宴の熱狂が嘘のように、深夜の天青皇宮は不気味なほどの静寂に包まれていた。
正殿から漂ってくるのは、床にこぼれた年代物の紹興酒の酸い匂いと、脂の冷え固まった残飯の臭気。めでたさに悪酔いした官僚たちはあちこちの回廊でいびきをかいて眠りこけ、彼らを自室へ運ぶべき宦官たちの姿すらまばらだ。本来なら数歩おきに立っているはずの夜警の武官たちも、今夜ばかりは祝酒を賜り、詰め所で深い眠りに落ちていた。
私は玲玉殿下の寝所に隣接する控えの間で、胡服の帯を解くこともなく、壁に背を預けて浅い眠りについていた。
父から教え込まれた「戦士の眠り」だ。意識の表層だけを休ませ、聴覚は常に周囲の異常を探っている。
「……凛華」
ふと、衣擦れの音よりも小さな囁きが、耳朶を打った。
私はバネのように跳ね起き、暗闇の中で瞬時に右手の鉄扇を握りしめる。
「凛華……起きてる……?」
障子戸の向こうから聞こえたのは、玲玉の、ひどく震える声だった。
私は急いで戸を開け、寝所へと滑り込む。月明かりだけが差し込む薄暗い部屋の中で、白い寝巻き姿の玲玉が、裸足のまま床に立ち尽くしていた。
「殿下、いかがなされました。このような夜更けに……」
「わからない。でも……すごく、嫌な音がしたんだ」
玲玉は自らの細い両腕を抱きしめ、白磁のような顔を青ざめさせていた。
「胸の奥で、何かが千切れるような……すごく嫌な音がした。父上の部屋から聞こえた気がするんだ。凛華、父上のところへ行こう。お願いだ」
虫の知らせ、というものだろうか。普段なら「こんな夜更けに.......ただの悪夢ですよ」とたしなめて寝台へ戻すところだが、玲玉の紫水晶の瞳が、尋常ではない恐怖に見開かれているのを見て、私の直感もまた警鐘を鳴らした。
思えば、夜警の数が皇太子立式前夜の宴会直後とはいえ、いくらなんでも少なすぎる。虫の音すら聞こえない。
「……承知いたしました。私の後ろから、決して離れないでください」
私は腰の直剣の具合を確かめ、玲玉の手を引いて廊下へと出た。
廊下の空気は、夕方よりもずっと冷え切っていた。踏み出す足袋の裏から、石畳の氷のような冷たさが伝わってくる。
玲玉は無言のまま、私の袖を子供のように強く握りしめていた。その指先の異常な冷たさに、私の胸の奥がざわつく。
皇帝の寝所である『乾清宮』へと続く渡り廊下を進むにつれ、空気の質が変わっていくのを感じた。
白檀の香りが消え、代わりに粘り気のある、ひどく生臭い匂いが鼻腔を突き刺す。
(血の、匂い……それも、大量の)
「待ってください、殿下」
乾清宮の庭に足を踏み入れた瞬間、私は玲玉を背後へ押しやった。
月明かりに照らされた白砂の庭には、皇帝を護衛するはずの近衛兵たちが、折り重なるように倒れていた。首筋や胸口から流れ出た黒黒とした液体が、白砂をどす黒く染め上げている。
「あ……」
私の背中に隠れるようにしていた玲玉の喉の奥から、ひゅっと空気が引き攣るような音が漏れた。私の袖を掴む彼の指先がガタガタと震え、爪が食い込んで上質な絹の布地が裂ける音がする。
皇帝の寝所。豪奢な黒檀の二枚扉は、乱暴に半ば開け放たれていた。
廊下にまで流れ出してきているのは、いつも父帝の部屋を満たしていた穏やかな白檀の香りではない。鼻腔の奥にへばりつくような、濃厚な鉄錆の匂いと、生温かい臓物の臭気だった。
私は己の呼吸音すら殺し、柄に手をかけたまま扉の隙間から室内を覗き込んだ。玲玉も、私の背中に身を押し付けながら、焦点の定まらない瞳でその惨劇の舞台を見つめていた。
室内には、数人の黒装束の暗殺者たち。そして、返り血で斑点だらけになった紫の外套を羽織る大柄な男が立っていた。
鎮国公、白 煌雷。
さらにその斜め後ろには、先日離宮で刃を交えた若き狼——雷覇が、近衛兵の死体を足蹴にしながら、自らの剣にこびりついた血糊を緋色の絨毯で拭っていた。
「なぜだ……煌雷……」
床の血溜まりの中に倒れ伏しているのは、現皇帝である白 慈恵だった。
明日の皇太子任命式を心待ちにし、この国の安寧を誰よりも願っていた思慮深い皇帝。その胸部には、煌雷の握る重厚な幅広の剣が、深々と突き刺さっていた。
「なぜ、だと? 愚問だな、兄上」
煌雷は氷点下のように冷酷な声で吐き捨て、剣の柄をさらに奥へと押し込んだ。
ズブッ、と骨を砕き肉を断ち切る生々しい音が響き、皇帝の口から大量の血と気泡がごぼりと溢れ出る。
「貴方が『平和』という名の泥水で国を腐らせたからだ。対話という美辞麗句で戦から目を背け、辺境で流れる血を無いものとして隠蔽した。……貴方が見殺しにした者たちの血の重みが、今、この剣となって貴方を貫いているのだ」
その言葉に、背後に立つ雷覇の口角が、凄惨な歓喜の形に歪み上がったのが見えた。親の仇である王都の象徴が、今まさに自分の主君の足元で無様に血を吐いている光景に、彼は酔いしれていた。
「天青の国には、貴方のような軟弱な君主は不要なのだよ」
「玲……玉……」
皇帝は焦点の合わない目で虚空を彷徨い、震える血まみれの手を伸ばした。最愛の息子の名を呼び、その無事を確かめようとするかのように。
煌雷は冷たく鼻で嗤うと、その伸ばされた腕に、鋼鉄で補強された軍靴を振り下ろした。
メチャッ。
嫌な湿った音と共に、皇帝の腕の骨が完全に砕け散った。
「あ、の……人形のような、小僧……なら……」
煌雷は、足元で痙攣する兄を見下ろしたまま、ひどく事務的なトーンで告げた。
「すぐに後を追わせてやる。あの世で、親子仲良く花でも愛でるがいい」
煌雷が剣を乱暴に引き抜いた瞬間、皇帝の身体がビクンと大きく跳ね——そして、糸の切れた操り人形のように、二度と動かなくなった。
「ち、父上……? う……あ……ああああッ!!」
私の背後で、玲玉の胸の奥から絞り出された絶叫が爆発した。
「しまった」と思うより早く、私は振り返り、玲玉の口を力任せに塞いでその細い身体を床に押さえつけた。
しかし、遅かった。彼の悲痛な叫びは、静まり返った夜の皇宮に、あまりにも鮮明に響き渡ってしまった。
「……誰だ」
煌雷のゆっくりとした、だが絶対的な死の気配を纏った声が響く。
血に濡れた刃が、こちらを向いた。獣のようなその猛禽の眼光が、開け放たれた扉の隙間——暗闇に伏せる私たちを、正確に捉えていた。
「ほう。探す手間が省けたな」
煌雷の低い笑い声。
「閣下、あれは……!」
雷覇が目を細め、扉の向こうにいる玲玉と私の姿を認識した瞬間、その顔に嗜虐的な笑みが張り付いた。
「温室の小鳥と、おままごとの護衛ですね。……俺に行かせてください。あの女の首は、俺が刎ねます」
雷覇が血振るいをした剣を構え直し、舌なめずりをする。
「殺せ。皇族の血は一滴も残すな」
煌雷の冷酷な命令が下った瞬間、雷覇と、室内にいた数人の黒装束の刺客たちが、一斉に扉へ向かって跳躍した。殺意の塊が、物理的な圧力となって私たちの喉元へと迫り来る。
「……殿下、走って!!」
私は玲玉の腕を乱暴に引き起こし、自らの直剣を抜き放ちながら、血と炎の夜へと駆け出した。
私は玲玉の腕を掴み、全速力で回廊を逆走した。
直後、背後の木戸が凄まじい音を立てて砕け散り、私たちがほんの数秒前まで息を潜めていた空間が、無数の凶刃によって蹂躙される。
ガシャン、ガシャンという、重装歩兵の甲冑がぶつかり合う音が津波のように押し寄せてきた。
「父上が……父上が!!」
玲玉は半狂乱になり、足がもつれて何度も石畳に倒れ込みそうになる。私は彼の細い腕の骨が軋むほどの力で無理やり引き上げ、ただひたすらに前へ、暗闇へと彼を引っ張り続けた。
パキィンッ!
乾いた破裂音が夜の静寂を切り裂いた。回廊の屋根に、火矢が突き刺さったのだ。
一本、また一本と、無数の流星のような火矢が皇宮のあちこちに降り注ぐ。瞬く間に古い木材が燃え上がり、轟音を立てて炎の壁が形成され始めた。視界が暴力的なオレンジ色に染まり、喉の粘膜を焼き焦がすような熱風と、むせ返る黒煙が廊下を飲み込んでいく。
「殿下、頭を低く!」
前方の曲がり角から、ぬっと黒い影が飛び出してきた。
刺客の長剣が、私たちの首を薙ぐ軌道で迫る。私は息を吸う間もなく、右手の直剣でその重い一撃を下から跳ね上げた。
力で押し返すのではない。雷覇の殺気に呑まれた昨日の反省が、極限状態の肉体を突き動かしていた。刃を滑らせて相手の重心を崩し、そのガラ空きになった首筋へ、左手に逆手で隠し持っていた短剣を根元まで深々と突き立てる。
ズチュッ、と肉と気管を断ち切る生々しい感触が手首を抜け、生温かい血の飛沫が私の頬と首筋にねっとりと張り付いた。
「ひっ……!」
声にならない悲鳴。返り血を浴び、無表情のまま死体を蹴り飛ばした私の横顔を見て、玲玉が恐怖に顔を引き攣らせた。
無理もない。彼が今まで見てきた私は、美しい庭で共に鯉に餌をやる、穏やかな従者だった。人の命を躊躇いもなく奪い、血肉を踏み越える修羅のような姿など、見せたことはなかったのだから。
(私を恐れても構わない。軽蔑されてもいい。この命に代えても、貴方だけは……!)
「止まらないでください! 煙を吸いますよ!」
炎の輻射熱で額の汗が瞬時に沸騰し、煙で肺が千切れそうに痛い。
私は玲玉を背に庇いながら、次々と襲い来る刺客の刃を弾き、いなし、斬り捨てた。だが、腕の筋肉は早くも悲鳴を上げ、剣の重さが鉛のように感じられ始めていた。
「凛華様! 殿下!!」
厨房へと続く、煙の立ち込める細い裏通路に飛び込んだ私たちを呼ぶ声があった。
玲玉の乳母である、春燕だった。彼女は煤にまみれ、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、皇宮の裏口へと通じる隠し扉をこじ開けて待っていたのだ。
「春燕……!」
「殿下、ああ、ご無事でよかった……! 早く、こちらへ!」
春燕は玲玉をきつく抱きしめると、彼が羽織っていた皇族の証である、豪奢な白と金の単衣を素早く脱がせた。そして、自らの地味な衣の上に、その闇夜でもひときわ目立つ単衣を羽織ったのだ。
「春燕、何を……!?」
玲玉が呆然とする中、春燕は震える手で自分の髪紐をほどき、玲玉の背丈に見えるよう、少し身を屈めた。
「敵の狙いは殿下です。この衣を着ていれば、暗がりと煙の中では、私を殿下と見間違えるはず。私が反対の回廊へ走り、奴らを引き付けます」
「駄目だ! そんなことをしたら、お前は殺されてしまう!」
「私はもとより、殿下の盾となるために生きて参りました」
春燕は玲玉の頬を両手で包み込み、優しく、けれどきっぱりと微笑んだ。
その手は、昨夜、私の傷だらけの手のひらに軟膏を塗り込み、強張った髪を梳いてくれた、あの温かい手だった。
(春燕様……っ)
私の胸の奥で、激しい痛みが弾けた。
昨夜、私を「ただの女の子」として抱きしめ、白檀の香りで包んでくれたあの唯一の母のような存在が、今、死地に赴こうとしている。
『行かないで』と、私の内なる少女が絶叫していた。彼女の手を引いて、三人で逃げたいと。
だが、私は奥歯が砕けるほど噛み締め、その言葉を血と一緒に腹の底へ飲み込んだ。私は将軍の娘。殿下を生かすための、感情を持たない『鉄の盾』でなければならないのだ。
「どうか、生きてください。誠に僭越ながら、殿下のことは皇后様亡き後、私の実の子のように思っておりました。……こんな理不尽な悪意に、殿下の美しい魂を殺させないでくださいませ」
背後から、追手たちの荒々しい足音と「あっちだ! 血痕が続いているぞ!」という怒号が迫ってくる。
「さあ、凛華様! 殿下をお願いいたします!!」
春燕は私に向かって、ただ一度だけ、全てを託すように深く頷いた。
そして、玲玉の単衣を翻し、燃え盛る火の粉が舞う回廊の奥へと、自ら囮となって駆け出していった。
「あそこだ! 白い衣……皇太子が逃げたぞ!!」という敵の怒号が、春燕の背中を追って遠ざかっていく。
「春燕!! 行くな、戻れ!! 春燕ぁぁぁッ!!」
玲玉は泣き叫び、彼女の後を追おうと火の海へ身を翻した。
「なりませんッ!!」
私は背後から彼に飛びつき、その細い身体を力任せに床へと押さえつけ、口を固く塞いだ。
玲玉は狂乱したように手足をばたつかせ、私の腕を引っ掻き、血の滲む力で噛みついてくる。痛い。だが、それ以上に、彼の大粒の涙が私の手の甲を濡らす熱さが、私の心をズタズタに引き裂いていた。
「放して! 凛華、放してよ! 春燕が死んじゃう!」
「ええ、死ぬでしょう! 彼女は貴方を生かすために、自らの命を投げ打ったのです!」
私は彼の耳元で、あえて最も残酷な言葉を怒鳴りつけた。自らの心を殺すために。
「彼女の死を無駄にするおつもりですか!! 貴方がここで死ねば、陛下の想いも、春燕の覚悟も、すべて灰になるのですよ!!」
その言葉に、玲玉の激しい抵抗がピタリと止まった。
彼は大きく見開いた瞳からとめどなく涙を流し、そして、糸が切れた操り人形のように全身の力を無くした。彼の心の中で、今まで信じていた「誰も死なない優しい世界」が、修復不可能な音を立てて完全に崩壊していくのが分かった。
「……走ります。私から、絶対に手を離さないでください」
私はへたり込む彼を無理やり引きずり起こし、隠し通路の冷たい暗闇へと飛び込んだ。
泥にまみれた細い水路を抜け、皇宮の外壁を越える。
外の空気は、肺が凍りつくほどに冷たく、鋭かった。
振り返ると、かつて私たちが平和な日々を過ごした天青皇宮が、巨大な火柱となって夜空を毒々しい赤色に染め上げている。
優しい父の微笑みも。
池で餌をねだった緋鯉も。
私の髪を梳いてくれた、甘い白檀の匂いも。
そのすべてが、あの無慈悲な炎の業火に飲み込まれ、二度と手の届かない灰へと変わっていく。
玲玉は私の手を握ったまま、燃え盛る己の故郷を、光の一切消えた虚ろな瞳で見つめていた。
その手は、先ほどの温もりが嘘のように氷のように冷たく、ひきつけを起こしたように小刻みに震えている。
私は、己の顔にこびりついた血を拭うこともせず、彼の冷え切った手を両手で包み込み、決して離すまいと強く握りしめた。
ここから先は、地獄だ。
誰も守ってくれない。誰も優しくしてくれない。泥水をすすり、獣のように追われながら這いずる、果てしない絶望の日々が待っている。
それでも私は、この美しい玉が完全に砕けてしまわないよう、私が泥にまみれた盾となって、彼を守り抜く。
轟音を立てて崩れ落ちる皇宮の塔を背に、私は夜の闇に向かって、呪いのような誓いを立てていた。




