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天青の覇王と剣の乙女  作者: *しおり*
少年期

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2/24

1.5

皇太子任命式まで、あと八日。

帝都の空は、その日も白み始めたばかりで、空気は肺を刺すように冷たかった。


「……九百九十七。九百九十八。九百九十九……千ッ!!」


鋭い呼気とともに、私は木刀を振り下ろした。

空気を叩き割る鈍音が、静まり返った練兵場に木霊する。額から滴り落ちた汗が、冷たい石畳の上で黒い染みを作っては、すぐに凍りついていく。


昨日の夕刻、離宮の庭で煌雷こうらいの懐刀・雷覇ライハと対峙した時の記憶が、私の脳髄にこびりついて離れなかった。

あの、泥と血肉を啜ってきた者特有の、圧倒的な『殺気』。刃を交える前から私の筋肉を硬直させ、剣先を淀ませたあの恐怖が、私の未熟さを残酷なまでに突きつけていた。


(足りない。これでは、殿下をお守りできない……ッ)


私は荒い息を吐きながら、血豆の潰れた手のひらで木刀の柄を握り直し、再び上段へと構えた。


「……少し、肩に力が入りすぎているな」


ふと、背後から掛けられたしわがれた声に、私は弾かれたように振り返り、柄に手をかけた。

そこに立っていたのは、白髪交じりの顎髭を蓄え、使い込まれた皮鎧を纏った初老の男だった。右目には、かつての戦場で負った深い刀傷の痕が走っている。


老将軍……」


私は構えを解き、真っ直ぐに姿勢を正して一礼した。

魏将軍は、かつて私の父・柳大将軍の右腕として数々の戦場を駆け抜けた古参の武将であり、父の死後も、王都の近衛隊を束ねながら私を陰に陽に見守ってくれている数少ない「味方」の一人だった。


「早朝から千本の素振りか。相変わらず、己を痛めつけることにかけては天下一品だな、凛華」

魏将軍は、私の手のひらから滲む血を見て、微かに眉間を顰めた。


「昨日の離宮での一件、私の耳にも入っておる。鎮国公の若き番犬に、随分と肝を冷やされたそうだな」

「……お恥ずかしい限りです。私の剣は、実戦の殺気の前では無力でした。だからこそ、一日も早く身体に本能を叩き込まねばならないのです」


私が口元を引き結んで答えると、魏将軍は重い溜息を吐き、静かに首を振った。


「凛華よ。お前は、亡き大将軍の重圧を、一人で背負う必要はないのだぞ」

「重圧などとは……」

「嘘をつくな。お前のその剣は、国のためでも、己のためでもない。ただ『柳家の娘として、皇太子を守らねばならない』という、亡き父の呪縛……亡霊に振り回されているだけに見える」


図星を突かれ、私の奥歯がギリッと鳴った。

魏将軍は、一歩私に歩み寄り、その分厚い手で私の肩を叩いた。


「あの玲玉殿下は、優しすぎる。お前もそれは分かっているはずだ。あの花を愛でる無防備な君主を、刀の刃のように張り詰めたお前が、己を削りながら守り続ける……。それは、互いにとって不幸なことではないか?」


『不幸』。

その言葉が、凍てつく空気の中で重く響いた。


「殿下は、血を見ることを何より嫌われる。そしてお前は、血を流してでも殿下を守ろうとしている。その歪みは、いずれ必ず大きな破綻を生む。……凛華、お前は女だ。将軍家の名に縛られず、一人の人間として生きる道もあるのだぞ」


魏将軍の瞳には、かつての戦友の娘に対する、偽りない深い愛情と憂いが宿っていた。

彼の手の温もりが、冷え切った私の肩に伝わってくる。その言葉に甘え、剣を置いてしまえば、どれほど楽だろうか。


だが。


「……お心遣い、感謝いたします。ですが、将軍」


私は、肩に置かれた魏将軍の手を、そっと、しかし確固たる意志を持って外した。


「私は殿下の盾です。それ以外の生き方は、知りません」


私の声は、自分でも驚くほど冷たく、乾いていた。

「殿下が血を嫌われるのなら、私が代わりにすべての血を被ります。殿下の優しさが国を危うくするというのなら、私がすべての敵の刃を弾き返します。……それが、私の生きる意味です」


頑なに拒絶する私の目を見て、魏将軍は哀しげに目を伏せ、それ以上何も言わずに練兵場を去っていった。

遠ざかる足音を聞きながら、私は再び木刀を握りしめる。

孤独だった。父の遺訓という見えない鎖に全身を縛り付けられ、私はただ一人、暗闇の中で空振りの剣を振り回しているような感覚。

それでも、私はこの呪いを手放すわけにはいかないのだ。


同日、昼下がり。

皇宮の奥深くにある図書室は、朝の冷気が嘘のように、むせ返るような暖気と古い紙の匂いに満ちていた。

天井近くの窓から差し込む陽光が、空気中を舞う埃を黄金色に照らし出している。


「——ですから、殿下。この第四代皇帝の治世における最大の失敗は、異民族に対する『過度な融和』にあります。歴史がそれを証明しているではありませんか!」


書見台の奥から、ヒステリックな声が響いた。

宮中一の知識人であり、玲玉の帝王学の担当である老教師・モウ学士だ。彼は神経質そうに薄い唇を震わせ、分厚い歴史書を細い指でバンバンと叩いている。


その向かい側。大きな黒檀の机に座らされている玲玉は、どこか居心地の悪そうな顔で、手元の筆の尻をいじっていた。

私は彼から三歩斜め後ろに立ち、柱の影と同化するようにしてその様子を見守っている。


「……でも、孟先生。第四代皇帝は、武力で彼らを制圧するよりも、交易路を開いて互いに富を分け合う道を選んだ。結果として、一時的に国庫は減ったけれど、その後の十年間は血が流れなかったじゃないか」

玲玉が、自信なさげに、しかし自分なりの意見を口にする。


「一時的な平和など、国家の運営においては無意味です! 現にその後、富を蓄えた異民族は牙を剥き、国境を侵した。だからこそ、武力による『威圧』を背景に持たない外交は、砂上の楼閣に過ぎないのです!」

孟学士の語気が強まる。


「鎮国公閣下……煌雷様を御覧なさい。あの圧倒的な武があるからこそ、今の北方の平和は保たれている。次期皇帝となられる殿下が、いつまでもそのような『お花畑』のような理想論を口にされていては、臣下は不安で夜も眠れませんぞ!」


煌雷の名前が出た瞬間、玲玉の肩がビクッと跳ねた。

彼は言い返す言葉を見つけられず、伏し目がちに唇を噛み締める。その指先が、助けを求めるように微かに震えながら、背後に立つ私の方をチラリと見た。


(殿下……)


その視線に込められた、子供のような甘えと、誰かに庇ってほしいという無言のSOS。

私の胸の奥が、チリッと痛んだ。

朝の魏将軍の言葉が蘇る。

『あの優しすぎる殿下を、お前が守り続けるのは、互いにとって不幸ではないか』


私は目を伏せ、唇を固く引き結んだ。

私がここで孟学士に口答えをして、殿下を庇うのは簡単だ。だが、それでは彼はいつまで経っても、自らの足で立つ「王」にはなれない。

私はあくまで物理的な「盾」であって、彼の政治的な「牙」にはなれないのだ。


「……申し訳ありません、孟先生。僕が、未熟でした」


玲玉は結局、私からの助け舟がないことを悟ると、すっかり縮こまって頭を下げた。

孟学士は大きな溜息をつき、「今日の講義はここまでといたします。ご自身の甘さを、よくお考えください」と吐き捨てるように言って、図書室を出ていった。


重い扉が閉まる音が、静寂の図書室に響く。

玲玉は机に突っ伏し、長く、弱々しい息を吐き出した。


「……怒られちゃった」


彼は顔を半分だけ机から上げ、私を見上げた。

その紫水晶の瞳は、潤んでいて、どうしようもなく庇護欲をそそる。女官たちであれば、すぐに駆け寄って「殿下は悪くありません」と慰めるところだろう。


「殿下。孟学士の言葉は厳しいですが、一理あります。国を背負うということは、時に非情な決断を下す覚悟が必要なのです」

私は自らを律し、あえて冷たい武官としての声で言った。


「……凛華も、そう思う?」

「はい」

「僕が血を流すことを嫌って、戦いを避けるのは……やっぱり、王の器じゃないのかな」


玲玉の指が、机の上に置かれた歴史書の表紙を力なく撫でる。

「僕はただ、誰も死なない世界が作りたいだけなのに。父上みたいに、みんなが笑っていられる国にしたいのに……どうして、それじゃ駄目なんだろう」


彼の言葉は、あまりにも純粋で、そして絶望的に無力だった。

泥だらけの小鳥のために泣き、下働きの少年の背中を撫でる、彼の底知れぬ優しさ。それは万民を救い得る「仁」の心だが、それだけでは、煌雷や雷覇のような「悪意」と「殺意」から国を守ることはできない。


私は、机に突っ伏す彼の細い背中を見つめた。

この華奢な背中が、間もなく天青皇国という巨大な帝国の重圧をすべて背負うことになるのだ。

その重さに、彼は耐えられるのだろうか。


(いいえ。耐えられずとも、私が支えなければならない)


私は、無意識のうちに柄を握る手に力を込めた。

彼に牙がないのなら、彼が血を忌み嫌うのなら、私が代わってすべての敵を斬り伏せる。彼が清らかなままでいられるよう、私が何度でも血の池に身を沈めればいい。

呪いでも、不幸でも構わない。

それが、私の選んだ道だ。


「……大丈夫ですよ、殿下」


私は一歩彼に歩み寄り、その項垂れた頭の上から、静かに言葉を落とした。

「殿下が非情になれずとも、問題ありません。殿下の行く手を阻む敵は、すべてこの凛華が斬り捨てます。ですから、殿下はそのまま……優しい殿下のままでいてください」


私の言葉に、玲玉はゆっくりと顔を上げ、すがるような瞳で私を見た。

「凛華……」


「皇太子任命式まで、あと八日。どのような不安があろうとも、私が必ず、殿下をあの玉座へとお連れいたします」


私は深く頭を下げた。

図書室の窓から差し込む光が、私の影を長く引き伸ばし、玲玉を包み込むように覆い隠していた。


この時、私はまだ知らなかったのだ。

私が「彼を守る」という強迫観念に囚われ、彼の弱さを肯定し続けることが、結果として彼を自立から遠ざけ、あの悲劇を招く一因になっていたということを。


皇宮の影で密かに研がれている、簒奪者の血塗られた刃の存在に、私たちはまだ、気づくことができずにいた。



* * *




皇太子任命式を目前に控えた、ある曇天の午後のことだった。


「殿下、これ以上外廷の奥へ進まれるのは感心しません。護衛の目も届きにくくなりますし……水仕事の泥で、殿下のお召し物が汚れてしまいます」

「平気だよ、凛華。孟先生の講義で『為政者は常に民の裏の暮らしを知らねばならない』と教わったばかりじゃないか。僕は、父上が造り上げたこの国の、着飾っていない日常も見ておきたいんだ」


玲玉の紫水晶の瞳には、純粋な知的好奇心と、父の「平和な治世」に対する無邪気な信頼だけが輝いている。

私は小さく息を吐き、彼の背中を追うしかなかった。


皇宮の奥深く、豪奢な白亜の宮殿から幾つもの門をくぐり抜けた先に、私たち近衛兵や下働きたちが暮らす「外廷がいてい」の区画がある。

そこは、高貴な香木の匂いも、優雅な琴の音も届かない。漂うのは、煮染められたような汗の匂いと、粗悪な灰汁あく石鹸の饐えた臭い。そして、早朝から深夜まで絶えることのない、水仕事や薪割りの無骨な生活音だけだ。


入り組んだ路地を抜けると、外廷の最も外れにある共同井戸の広場に出た。

そこでは数人の女たちが、冷たい井戸水で大量の布を洗っていた。辺境から送り返されてきた、軍の兵士たちの分厚い外套や馬布だ。

彼女たちは王都の華やかな民に比べれば質素な身なりだが、飢えているわけではない。皆、黙々と、機械のように手を動かしている。


特に私の目を引いたのは、一番端で重い外套を揉み洗いしている一人の若い女だった。

年齢は私より少し上だろうか。水に浸かっている両手は、見るに堪えないほど赤く腫れ上がり、ひび割れた皮膚から血が滲んでいた。


「……冷たくないのかな」

玲玉が足を止めて呟く。

「あれは、下級兵士の遺族などが担う労役です。決して華やかな仕事ではありませんが、国から手当も出ますし、生活は保障されています」


私が淡々と告げると、玲玉は少し安心したように息をついた。

「遺族か……。でも、ここ十年間、国は平和だ。軍で命を落とす者も少なくなって、彼女たちの仕事も少しは楽になっているといいのだけど」


その時だった。

洗っていた重い外套を持ち上げようとした女の手から、布がバシャリと冷水の中へ落ちた。凍傷でひび割れた指先から、赤い血の雫が水面へと散っていく。


「っ……あ……」

女が痛みに顔を歪め、己の指を庇うようにうずくまった。

その瞬間、私の制止も聞かず、玲玉が彼女のもとへ駆け出していた。


「大丈夫ですか!?」

突然現れた上等な衣の少年に、女は怯えたように後ずさった。

玲玉は泥水で自らの裾が汚れるのも構わず、懐から純白の絹の喪巾ハンカチを取り出し、彼女の血の滲む指先を優しく包み込んだ。


「ひどい傷だ。無理をしないで、休んだ方がいい」

「あ……貴方様は……も、申し訳ございません! 卑しい身の血で、貴方様の御手や衣を……」


女は慌てて額を擦り付けようとしたが、玲玉はそれを優しく制した。そして、至近距離で女の顔を見て、ふと小首を傾げた。


「貴方は……なぜ、そんなに悲しい目をしているのですか?」

玲玉の問いかけは、あまりにも真っ直ぐで、無邪気だった。

「生活が苦しいのですか? 父上の作ったこの平和な国で、どうして貴方の瞳は、そんなにも絶望しているのですか」


その言葉に、女の肩がビクリと跳ねた。

彼女は、玲玉に包まれた自分の赤い手を見つめ、やがて空洞のような瞳を玲玉へ向けた。


「……平和」

女の乾いた唇から、掠れた声が漏れた。

「ええ。皇帝陛下の『平和』のおかげで、王都には争いも飢えもございません。……だからこそ、私の弟は『いなかったこと』にされたのです」


「え……?」

「私の弟は、李淵リエンと申しました。十年前、北方の黒鉄関へ配属され……そのまま、帰ってきませんでした」


女の目が、遠い北の雪空を幻視するように細められた。

「役人からは、『国境での些細な小競り合いで運悪く命を落とした。国は和睦を結び、平和は保たれた。見舞金を出そう』とだけ告げられました。遺骨もありませんでした」


女は、洗っていた分厚い軍の外套を、震える手で指差した。

「……些細な小競り合い、と役人は言いました。和睦は結ばれた、と。……ですが殿下。あの北の国境から王都へ送り返されてくるこの外套には、十年経った今でも、どれだけ洗っても落ちないほどの、夥しい血と泥がこびりついているのです」


玲玉が、息を呑んだ。


「王都の皆は、平和だと笑っています。外交で国は守られたと。……ですが私たちは、この冷たい水の中で血を洗い落とすたびに思い知るのです。王都の平和は、血を流している者たちの存在を見ないふりにすることで成り立っているのだと。……弟の死は、この美しい国にとって、最初から存在しなかったただの『汚れ』に過ぎないのだと」


女の声は、涙すら枯れ果てた冷たい灰のようだった。

彼女は、玲玉の手からそっと自分の手を引き抜いた。


「お分かりいただけましたでしょうか。……私たちは、平和という名の美しい織物の裏側に縫い付けられた、見捨てられた糸屑なのです。悲しいのではありません。ただ……空しいのです」


静寂が、井戸の広場に降り積もった。

風が吹き抜け、玲玉の薄い外套を揺らす。

彼は、自らの手の中に残された、血で赤く染まった絹の喪巾を見つめたまま、微動だにできなかった。


「……見捨てられた……汚れ……」

玲玉の口から、震える声が漏れた。


幼い頃から信じて疑わなかった、「争いを避ける父の優しさ」。

だがその実態は、辺境で流れる血を隠蔽し、戦う者たちから名誉すらも奪い取ることで成立している「欺瞞の平和」だったのだ。


玲玉は、血に染まった喪巾を強く握りしめ、激しく首を振った。

「そんな……父上が、見殺しにして隠しているなんて……! 何かの間違いだ。父上は、誰の命も犠牲にしない国を作ると……!」

玲玉の声は、崩れそうになる自分の「箱庭」を必死に繋ぎ止めようとする悲痛な響きを帯びていた。


だが、女はただ力なく微笑み、再び水桶へと向き直った。バシャリ、と冷たい水で外套を洗う単調な音が響く。


「……殿下。冷え込みます、お戻りになられませ」

私は、呆然と立ち尽くす玲玉の肩にそっと外套を掛け、彼を強引にその場から引き離した。


皇宮へと戻る道すがら、玲玉はずっと黙り込んでいた。

彼の心に生じた、決して消えない巨大な亀裂。それは数日後の皇太子任命式で、彼の運命を根底から覆す種として、静かに、しかし確実に根を張り始めていた。




* * *




大将軍の娘であり、次期皇帝の専属護衛である私が、なぜ皇宮の奥深く、このような下級兵士や下働きと同じむさ苦しい外邸で寝起きしているのか。

答えは単純だ。父である柳大将軍が、それを私に強要したからである。


『お前は殿下を守る鉄の盾だ。女に甘んじて絹の寝床で眠り、甘い香りを嗅げば、盾はすぐに錆びつく。泥と汗の匂いの中で、常に刃としての殺気を忘れるな』


それが父の教えだった。

だから私は、内廷に与えられた豪奢な自室には寄り付かず、この外廷の隙間風の吹く兵舎の片隅で、ただ一人、男たちと同じように生活し、剣を抱いて眠る日々を送っていた。


その日の夜も、私は冷たい井戸水で己の剣着の血と泥を洗い落としていた。

昼間、玲玉殿下と共に出向いた広場で、兵士の遺族である女から投げつけられた「平和の欺瞞」という残酷な真実。その動揺を振り払うかのように、私は痛むほどに布を擦り合わせていた。


「——凛華。またそんな冷たい水で、素手で洗っているの」


不意に、背後から柔らかく、温かな声がかけられた。

振り返ると、手燭を持った一人のふくよかな女性が立っていた。玲玉殿下の乳母であり、幼い頃から彼を我が子のように育ててきた女性、春燕シュンエンだった。


「……春燕様。夜分に外廷を歩かれるのは危険です」

私が慌てて立ち上がり、濡れた手を隠すように背中に回すと、春燕は困ったように微笑み、私の手首を優しく、しかし強引に掴んで引き寄せた。


「ほら、手が氷のように冷たくなっているじゃないの。……私の部屋にいらっしゃい。温かい生姜湯を淹れてあるわ」


春燕の部屋は、外廷と内廷の境界線にある、乳母や高位の女官に与えられた小さな長屋の一室だった。

部屋に入ると、兵舎の饐えた臭いとは違う、ほのかに甘い白檀びゃくだんと、洗い立ての木綿の匂いが私を包み込んだ。それは、私が幼い頃に死別した実の母の記憶と、どこか重なる匂いだった。


「ほら、座って。……また、手に血豆を作って」


私が固い木の椅子に縮こまって座ると、春燕は私の背後に回り、手慣れた様子で私の傷だらけの手のひらに、独特の匂いのする軟膏を塗り込み始めた。

その指の腹は柔らかく、ひび割れた私の皮膚にじんわりと熱を伝えてくる。


「……父上が見れば、激怒するでしょうね」

私は、自分の手が手当されているのを見つめながら、自嘲気味に呟いた。

「将軍の娘が、かすり傷ごときで薬を塗るなど。涙と痛みは弱者の証だと、そう教わってきましたから」


「柳の旦那様は、厳しすぎます」

春燕は静かに嘆息し、軟膏の壺を置いた。

「男として育てられたからといって、貴女の身体が鋼に変わるわけではないのに」


そして、春燕の柔らかい手が、私の頭に触れた。

「失礼するわよ、凛華」


春燕は、私が武官として常にきつく結い上げている髪紐を、スッと解いた。

重力に従って、私の黒髪が肩から背中へと一気に滝のように流れ落ちる。それだけで、全身を締め付けていた目に見えない鎧が、カチャリと音を立てて外れたような錯覚を覚えた。


春燕は、美しい細工の施された柘植つげの櫛を手に取り、私の髪を根元からゆっくりと、丁寧に梳き始めた。


「……春燕様、私は……」

「何も言わなくていいのよ」


私の強張った背中を宥めるように、春燕の櫛が何度も、何度も髪を滑り落ちていく。

その心地よい刺激と、背後から伝わってくる彼女の体温に、私は無意識のうちに目を閉じ、小さく息を吐き出していた。


「殿下は、お優しい方でしょう」

春燕が、ふふっと小さく笑いながら言った。

「あの子はね、幼い頃、貴女が木刀で打たれて青痣を作っているのを見るたびに、私の部屋にやって来ては『凛華が痛い思いをしているのに、僕は何もできない』と、貴女の代わりに泣いていたのよ」


「殿下が、私の代わりに……?」

私は初めて聞く事実に、目を見開いた。


「ええ。あの子は、貴女が自分を守るために女としての幸せを捨てていることを、誰よりも分かっているわ。……だからこそ、貴女はあの子にとって、ただの護衛ではないの。特別な、たった一人の女の子なのよ」


春燕は櫛を置き、背後から私の両肩をそっと抱きしめた。


「凛華。……将軍の娘である前に、殿下の盾である前に、貴女も普通の女の子なのですよ」


その言葉が、耳の奥で、そして胸の一番柔らかい場所で、甘く反響した。


『涙は弱者の証だ』

そう言い聞かせ、四六時中張り詰めてきた私の心に、春燕の体温が、春の雪解けのようにじわじわと染み込んでいく。


「……私は」

私の喉の奥から、震える声が漏れた。

「私は、ただ……誰も傷つかないように、殿下を守りたいだけなのです。でも、私の剣は……まだ、弱くて」


「弱くていいの。痛い時は痛いと、悲しい時は悲しいと言っていいのよ。……少なくとも、私のこの部屋の中だけではね」


春燕の腕の中で、私は強く唇を噛み締めた。

涙を流すことだけは、父の呪いが許さなかった。だが、その夜、私は春燕の香りに包まれながら、長い間忘れていた「ただの少女」としての深い安堵の海へと沈んでいったのだ。


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