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天青の覇王と剣の乙女  作者: *しおり*
少年期

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1

踏み込んだ足袋が、霜の降りた石畳を微かに鳴らす。

肺に吸い込んだ夜明けの空気は刃のように冷たく、吐き出す息は白い靄となって視界を掠めた。


手首を返し、閉じた状態の鉄扇で架空の刃を下から跳ね上げる。直後、左手に逆手で握ったパリング・ダガーを虚空に滑らせ、敵の喉元を刈り取る軌道を描いた。


(力で弾くな。殺気を逸らし、死角へ落とせ)


すでにこの世にない父の声が、今も耳の奥にこびりついている。大将軍であった父の幻影を振り払うように、私は大きく息を吐き、乱れた呼吸を整えた。額から顎へ伝い落ちた汗が、胸元の詰め襟に吸い込まれていく。


私の装いは、女官たちが着るような裾の長い豪奢な衣ではない。深い蒼色の絹を基調とした、細身の胡服こふくに近い男装だ。動きやすさを極限まで高めた筒袖に、銀糸で波の紋様が縫い取られている。腰には父の形見である環首の直剣を帯びていた。


「大将軍のひとり娘なのだから、誰よりも強くあらねばならない」


帯を締め直す指先に力を込め、己の心に鉄の楔を打ち込む。木刀と扇を布に包み、私は天青皇宮の回廊へと歩みを進めた。


朝日が差し込み始めた宮中は、すでに活気に満ちていた。高い天窓から降り注ぐ光が、回廊の中央を流れる清らかな人工水路の水面を反射し、白亜の壁に揺らめく波模様を描き出している。水路のせせらぎに混じって、どこからか焚き染められた白檀の甘い香りが漂ってきた。


「柳殿、おはようございます」


すれ違った甲冑姿の近衛兵が、立ち止まって深く頭を下げる。


「おはようございます。夜警、ご苦労様でした」


私は足を止めずに短く頷きを返した。彼らの視線には、かつての英雄の娘への敬意と、同時に女でありながら剣を握る異端の存在への微かな畏れが混じっている。


「あ、凛華様。今朝も鍛錬でいらっしゃいますか?」


水路の縁で花瓶の水を替えていた女官たちが、手を止めてこちらを見上げた。


「ええ。皆も朝早くからご苦労様」


口角をわずかに上げ、柔らかく、けれど一定の距離を保った声で返す。女官の一人が「凛華様のあの凛々しいお姿……とても同じ女性であるとは思いませんわ」と隣の娘とひそひそ囁き合う声が背中に落ちてきたが、私は歩みを止めなかった。

誰もが私に凛然たる将軍の娘を求めている。その期待を裏切ることは、父の誇りを汚すことと同義だった。


「柳殿、少々よろしいか」


回廊の角を曲がったところで、山積みの木簡を抱えた文官、台嶺に呼び止められる。文官の背後では、若いが少し手持ち無沙汰にしている見習い官吏が、たちの会話を気にするように視線を泳がせている。


「何事でしょうか」

「十日後に迫った皇太子任命式のことです。式典の衣装合わせの儀が明日に控えておりますが、殿下は……その、ご自覚をお持ちでしょうか。先日も、講義の最中に庭の雀を眺めておいでだったと、太傅たいふが頭を抱えておりまして」


台嶺は眉間を深く寄せ、困り果てたように吐息を漏らした。

私の胸の奥で、痛みがチリッと走る。


(あの人は、確かにまだ頼りなく幼い部分が多いけれど、決して折れない芯がある。私は必ず良き皇帝になってくれると信じている)


そんな本音を胸の奥底に封じ込め、私は涼やかな表情を崩さずに文官を見据えた。


「ご心配には及びません。殿下は深く思案なされていたのでしょう。明日の衣装合わせには、私から必ずお連れいたします」

「おお、柳殿がそう仰るなら安心です。何卒、よろしくお願いいたしますぞ」


文官は安堵の息をつき、見習い官吏を促して足早に去っていった。


私は再び歩き出し、皇宮の最奥、光が最も集まる陽だまりのような区画へと足を踏み入れる。冷たい空気が徐々に温みを帯び、白檀の香りが一段と濃くなった。


重厚な黒檀の扉の前に立つ。

この向こうに、私が命に代えても守り抜くべき、あのお方が眠っている。


小さく息を吸い込み、私は将軍の娘にして、従者の仮面を顔に張り付けた。そして、鉄扇を帯に差し込むと、静かに扉の取っ手に手を掛けた。



* * *



黒檀の重厚な扉に手を掛けると、真鍮の冷たさが革の手袋越しに伝わってきた。

ゆっくりと押し開くと、蝶番が微かに鳴る。そのわずかな音さえも吸い込んでしまうほど、室内には濃厚な静寂が満ちていた。


廊下の冷え切った空気とは対照的に、部屋の中はむせ返るほどに暖かい。火盆で焚き染められた最高級の沈香が、甘く重たい煙となって室内にたなびき、呼吸をするたびに肺の奥底まで染み込んでくる。

高く取られた天窓からは、薄絹のとばりを通して柔らかな朝の光が降り注ぎ、空気中を舞う細かな埃が金色の砂のようにきらきらと輝いていた。


私は音を立てずに絨毯を踏みしめ、天蓋付きの寝台へと歩み寄った。

分厚い絹の掛け布団の盛り上がりが、規則正しく微かに上下している。枕元に控えていた若い女官が、私の姿を認めて弾かれたように背筋を伸ばし、音を立てずに深く平伏した。彼女の額に微かに滲む汗が、この部屋の温度の異常さを物語っている。私は目で「下がってよい」とだけ合図を送り、彼女が衣擦れの音さえ殺して退室するのを見届けた。


寝台の帳をそっと引き開ける。


そこには、天青皇国の至宝が眠っていた。

白磁のように透き通る肌、長い睫毛が落とす淡い影、そして、血の気を感じさせない薄い桜色の唇。少し乱れた漆黒の髪が、白い枕に幾筋もの墨の跡のように散らばっている。

十五歳という年齢でありながら、骨格にはいまだ少年の華奢な丸みが残り、剣を握る男としての骨太さや荒々しさは微塵も感じられない。


「……殿下。朝でございます」


私は努めて平坦な、従者としての一定の声帯を震わせた。

反応はない。規則正しい寝息が続くだけだ。


玲玉れいぎょく殿下」


もう一度呼びかけ、掛け布団の端に手をかける。

その時、布団の隙間から覗いていた彼の手首が、ふいにと動いた。

私の無骨な手首を、玲玉の細く白い指が力なく掴む。剣ダコ一つない、絹のようになめらかな指先。それは驚くほど冷たく、私の体温を吸い取るようだった。


「……ん……凛華……?」


まどろみを含んだ、水底から響くような声。

ゆっくりと持ち上がった長い睫毛の下から、朝焼けの空を溶かしたような、淡い紫水晶の瞳が私を映し出した。その焦点はまだ定まっておらず、ぽんやりと宙を彷徨っている。


「はい。凛華でございます。すでにお日柄は高く昇っております。お起きになられませ」

「……まだ、眠い。部屋が、明るすぎるよ……」


玲玉は眩しそうに目を細め、掴んでいた私の腕を引っ張るようにして、再び布団の奥へと顔を埋めようとした。

その無防備な仕草に、私の喉の奥が微かにひきつる。もし私が刺客であれば、彼は今の一瞬で三度は命を落としているだろう。


「なりませぬ。十日後には皇太子任命式が控えております。本日は太傅様の講義に加え、式典用の大礼服の最終仕立てもございます」


私は彼の手を優しく、しかし有無を言わさぬ力で引き剥がし、寝台から上半身を起こさせた。

玲玉は不満げに唇を尖らせながらも、逆らうことはしなかった。彼は自ら衣を正すこともしない。だらりと両腕を下ろしたまま、私のされるがままになっている。


私は手早く寝巻きの紐を解き、用意されていた薄紅色の単衣を彼の肩に掛けた。

そのうなじの細さに、一瞬だけ視線が吸い寄せられる。

指で触れれば簡単に折れてしまいそうな、頼りない首筋。


(この方を、私が守るのだ)


帯を締める手に、自然と力がこもった。

「苦しいよ、凛華」

「申し訳ありません。ですが、隙間風が入りますゆえ」

「……凛華の手は、いつも冷たい鉄の匂いがするね」


玲玉は、私の結び目を整える手元を見下ろしながら、ふにゃりと笑った。その笑顔には何の他意もない。ただ目の前にある事実を、花が綺麗だと口にするのと同じ無邪気さで口にしただけだ。


「私は武官にございます。鉄の匂いは、殿下をお守りする盾の証とご承知おきください」


私は視線を彼の胸元に固定したまま、淡々と返した。

鉄の匂い。血と汗と、錆の匂い。

この白檀の香りに満ちた箱庭のような部屋には、到底似つかわしくない匂い。


「盾……」


玲玉は小さく首を傾げ、窓の外を舞う埃の粒子を目で追い始めた。


「盾じゃないよ。凛華はずっと、僕の影だ」


その言葉が、耳の奥で鋭く反響した。

私の手が一瞬だけ止まり、帯を握る指先の関節が白く浮き出る。


「……左様でございますね。私は、殿下の影でございます」


私は深く頭を下げ、彼の視界から自分の表情を隠した。

胸の奥で、鉛のような重たい感情が渦を巻く。

『影』。

光あるところに必ず存在し、決して離れることはないが、光そのものには決して触れられない存在。彼にとって私は、意思を持たない都合の良い黒衣に過ぎない。

その残酷なまでの無垢さが、私の五体を冷たく縛り付けていた。


身支度を終えると、私は部屋の隅で控えていた女官たちを呼び入れた。

銀の洗面器に張られた湯から、白い湯気が立ち昇る。女官の一人が、震える手で玲玉の顔を濡れ手拭いで拭き清め始めた。彼女の指先が玲玉の頬に触れるたび、その耳朶が真っ赤に染まっていくのがわかる。

玲玉はそれに気づく様子もなく、ただされるがままに目を閉じている。


私はその光景を、部屋の壁際に立ち、微動だにせず見つめていた。

ふと、窓の外から小鳥のさえずりが聞こえてきた。

玲玉の目がゆっくりと開き、その紫水晶の瞳が窓枠の向こうの青空へと向けられる。


不意に、遠い昔の記憶が脳裏をよぎった。

あれは、彼が九歳、私が十一歳の頃だったか。


冷たい雨の降る朝だった。庭の隅で濡れそぼって死んでいた小鳥を見つけ、玲玉は泥水の中に座り込んで、美しい衣を汚しながらボロボロと涙をこぼしていた。

当時の私は、すでに父・柳大将軍による過酷な訓練の只中にあった。木刀で打ち据えられ、全身に青痣を作りながらも、「泣くな。涙は弱者の証だ」という父の怒声に耐え続ける日々。

だからこそ、小鳥の死ごときで声を出して泣く玲玉の姿が、どうしようもなく理解できなかった。


『殿下、泥で御衣が汚れます』


私が無表情に手を差し伸べると、彼はその涙で濡れた顔を上げ、私の傷だらけの手のひらを見た。


『凛華は、悲しくないの?』

『……私は、将軍の娘ですから。このようなことで心は揺らぎません』

『そう。……凛華は、強いんだね』


彼はぽつりとそう呟くと、私の手を取ることはせず、泥に汚れた自らの手で小鳥を掬い上げた。

あの時の、傷つくことを恐れない無防備な瞳。

私とは生きる世界が絶対的に違う、美しくも脆い箱庭の住人。私は長い間、彼のことをそう思っていた。


だが、彼の持つ優しさが、決して「箱庭の無知」などではないと思い知らされた出来事があった。

私たちがもう少し成長してからのことだ。


女官たちにちやほやされる華やかな表舞台から離れた、薄暗い裏庭。

そこには、理不尽な理由で年嵩の役人から鞭打たれ、背中から血を流してうずくまっている下働きの少年がいた。そして驚くべきことに、次期皇帝であるはずの玲玉が、その泥にまみれた少年の傍らに膝をついていたのだ。


『殿下、いけません!』


私は血相を変えて二人の間に割り込み、武官としての正論で厳しく諫めた。


『そのような身分の卑しい者に近づくべきではありません。血の穢れが殿下にうつります。手当てなら他の者に命じますゆえ、どうかお下がりください』


だが、玲玉は私の言葉を遮るように静かに首を振り、そして——自らが羽織っていた最高級の絹の衣を、一切の躊躇なく両手で引き裂いたのだ。


ビリッという、絹の悲鳴のような音が裏庭に響いた。


『で、殿下!? 何を……』


玲玉は裂いた真新しい布を、血まみれになった少年の背中に優しく当て、その痛みを散らすようにそっと撫でた。


『凛華。……彼も、父上の治めるこの天青の民だ』


振り向いた玲玉の紫水晶の瞳には、身分を気にするような驕りも、自己満足の憐れみもなかった。


『僕が着ているこの美しい衣も、元を辿れば彼ら民が泥にまみれて桑を育て、糸を紡いで作ってくれたものだろう? ならば、民が理不尽に血を流している時、己の衣を裂いて血を拭ってあげるのは、上に立つ者の当然の義務だ』


傷ついた小鳥のために泥だらけになった時と同じ、見返りを求めない絶対的な優しさ。

だがそれは、単なる感傷的な脆さではなく、万民へ等しく向けられる底知れぬ「仁の心」だったのだ。

自分の身を削ってでも、他者の痛みに寄り添おうとするその静かな覚悟の前に、私は己の薄っぺらい正論を打ち砕かれ、言葉を失った。


(ああ、この方は……)


この方は、ただ優しいのではない。

誰かの痛みを自分の痛みとして受け止め、背負い込もうとする、底なしの器を持っているのだ。


「……凛華?」


不意に呼ばれた名前に、私は瞬きをして現実へと意識を引き戻した。

窓辺に立つ玲玉が、不思議そうにこちらへ小首を傾げている。その瞳の奥にある澄み切った光は、裏庭で少年の背中を撫でていたあの日のまま、何も変わっていなかった。


洗面を終えた彼は、すでに女官たちに囲まれ、象牙の櫛で髪を梳かれていた。女官のひとりが、櫛を落としかけて慌てて拾い上げる。その鈍い音が、静かな室内に響いた。私は女官へ鋭い視線を送り、無言で注意を促す。女官は青ざめ、深く首をすくめた。


「どうかされましたか、殿下」

「いや。凛華が珍しく、遠くを見ていたから」

「……式典の警護配置について、思考を巡らせておりました。失礼いたしました」

「そう。凛華はいつも、難しいことばかり考えているね」


玲玉はつまらなそうに息を吐き、机の上に用意された朝の菓子——白蜜をかけた水晶のような点心——に細い指を伸ばした。


「式典の衣装、とても重いんだろうな。僕、あの分厚い冠を被ると首が痛くなるから嫌いなんだけど」

「次期皇帝としての重みでございます。お耐えくださいませ」

「凛華が代わりに被ってくれたらいいのに。君の方が、ずっと姿勢がいいし」


点心をかじりながら、甘え切った声で笑う。

その柔らかな笑顔を見るたび、私の胸の奥底で、父の遺訓がギリギリと音を立てて軋む。


(この人は、私がすべてを懸けて守り抜くべき主君だ。 私が責任を持って育て上げる、そう決めたのだ)


「……さあ、参りましょうか、殿下。太傅様がお待ちです」


私は深く、静かに頭を下げた。

朝の陽光に照らされたこの温かな箱庭が、永遠に続くのだと。

この時の私はまだ、何の疑いもなく信じ切っていた。



* * *



午睡ごすいの気怠い空気が、天青皇宮てんせいこうぐうの奥深く、水と緑に囲まれた『飛翠池ひすいいけ』のほとりを包んでいた。


陽射しは真上を過ぎ、水面に乱反射する光がチカチカと視界を焼く。風が吹き抜けるたび、池を囲む柳の枝が擦れ合い、ざわざわと涼しげな音を立てた。むせ返るような青葉の匂いと、池の鯉に与えられるの甘い香りが入り混じっている。


「ほら。あそこの緋鯉、一番大きくて食いしん坊なんだよ」


池の縁にしゃがみ込んだ玲玉が、無邪気な声で麩を投げ入れる。

その背後で、付き従う数人の女官たちが「殿下、お召し物が濡れてしまいます」と困り顔で絹の袖を引いていた。私はそこから三歩下がった位置に立ち、周囲の木立へ油断なく視線を這わせている。


この壮麗な庭園も、水路を張り巡らせた皇宮の構造も、すべては現在の天青国皇帝——玲玉の父である白 慈恵ハク・ジケイが築き上げたものだ。

慈恵帝は、類まれなる内政の才を持つ「平和の君」であった。近隣諸国との争いを外交と交易によって退け、国内の物流を完璧に整備することで、民から飢えを無くした。武器を打つ鉄は農具や水門の部品へと作り変えられ、皇宮は詩と音楽に満たされた。

だが、それは裏を返せば、国の「牙」を自ら抜いたということでもある。軍部の不満は静かに、しかし確実に鬱血するように溜まり続けていると聞く。


「……ん?」


ふと、微風に乗って流れてきた異質な匂いに、私の鼻腔がピクリと反応した。

甘い草花の香りを切り裂くような、微かな獣の脂と、冷たい鉄錆の匂い。

直後、石畳を踏み鳴らす重く規則的な足音が響いてきた。絹の靴が擦れる宮中の音ではない。分厚い革と金具がすれ違う、実戦用の軍靴の響きだ。


女官たちが息を呑み、怯えたように身を寄せ合う。彼女たちの髪飾りがカチャカチャと微かに鳴った。

私は無意識のうちに重心を僅かに落とし、左手を腰の直剣の柄に数ミリだけ近づけた。


「ほう。次期皇帝陛下におかれましては、随分と長閑な午後をお過ごしのようですな」


池に続く石橋の向こうから、一人の男が数人の武官を従えて姿を現した。

長身で、骨太な体躯。豪奢な紫の朝服を着崩しているが、その下には歴戦の戦士だけが持つ鋼のような筋肉が詰まっていることが一目でわかる。切れ長の目には、周囲の温度を数度下げるような冷酷な光が宿っていた。


現皇帝の弟にして、北方の国境守備軍を束ねる最高司令官——鎮国公ちんこくこう、白 煌雷ハク・コウライ


「あ、叔父上!」


玲玉はぱっと顔を輝かせ、手についた麩の粉を払うのもそこそこに立ち上がった。女官たちが慌てて一斉に平伏する中、私だけが直立のまま、軍礼である右手を左胸に当てる姿勢で深く頭を下げる。


「お久しぶりです。北の国境から、わざわざ王都へお越しくださったのですね」


玲玉の紫水晶の瞳には、一切の警戒心がない。久しぶりに肉親に会えた子供のように、柔らかな笑みを浮かべて叔父へと歩み寄る。


私は伏せた視界の端で、距離を測っていた。

(三歩。これ以上、殿下に近づかせるな)


「十日後は、我が国の命運を分ける皇太子任命式。叔父として、駆けつけぬわけには参りません」


煌雷の低い声が、私の腹の底を嫌な震動で揺らした。彼は歩みを止め、玲玉を上からねめつけるように見下ろす。その視線は、愛らしい甥を見るものではない。肥え太った兎の喉笛を値踏みする、鷹のそれだ。


「しばらくはこの天青皇宮に留まり、式典の準備を手伝わせていただきましょう。兄上……皇帝陛下にも、すでにその旨はお伝えしてありますゆえ」

「本当ですか? 嬉しいな。最近、父上は政務で忙しくて全然お顔を見せてくれないから、叔父上がいてくれると心強いです」

「ええ。頼りにしていただいて結構ですよ、殿下。……すべては、この国の未来のためですから」


煌雷の唇の端が、三日月のように歪に釣り上がる。

その瞬間、私の背筋を悪寒が駆け上がった。父・大将軍から叩き込まれた死線を嗅ぎ取る直感が、けたたましく警鐘を鳴らしている。


(この男は、危険だ)


だが、私は一介の従者だ。確たる理由もなく皇族の間に割って入ることは許されない。握り込んだ左手の中で、爪が皮膚に食い込むのを感じながら、私はただ完璧な石像のように息を潜めていた。


「……おお、そういえば」

煌雷の視線が、不意に玲玉の背後に立つ私へと向けられた。


その背後から、一人の若き武将が擦り切れた外套を揺らして進み出た。玲玉殿下と同年代——十五、六歳ほどだろうか。だが、その顔にはすでに幾つかの浅い刀傷が刻まれ、眼光は血の味を知る飢えた狼のようにギラついている。


名を、雷覇ライハといった。

十年ほど前、北方の国境・黒鉄関が蛮族に蹂躙された際、親を殺され孤児となったところを煌雷に拾われ、実子のように天塩にかけて育て上げられた彼の若き懐刀だ。


「……閣下。これが、あの大将軍の遺児ですか」

雷覇は、花を愛でていた玲玉を鼻で嗤い、私を頭から爪先まで憎悪を込めて一瞥した。


「俺の親が北の辺境で蛮族に腑分けされ、この無能な皇宮からの援軍を待ちわびながら死んでいった時も……アンタらはここで、呑気に花を愛でていたんだろうな」


その声には、単なる若さゆえの好戦的な響きではない、この平和な王都そのものに対する骨の髄まで染み込んだ暗く冷たい恨みがこびりついていた。


「柳 凛花……血の匂いが全くしない。温室でひ弱な殿下と『おままごと』の護衛ごっこに興じているだけの、ただの飾り物ですね」


遊び相手。おままごと。

その言葉に込められた明確な侮蔑に、女官たちの肩がびくっと跳ねた。


「……言葉を慎まれよ。私の剣は、殿下をお守りするためにある」


主君を、そして私の誓いを愚弄された怒りで、頭に血が上るのを感じた。私は表情筋を殺したまま、静かに、しかし凄みを込めて言い放った。


「ならば、試させてもらおうか。その剣が、本物かどうかを」


雷覇は口角を歪めると、近くを警備していた近衛兵から修練用の木刀を二振り奪い取り、一本を無造作に私へ放り投げた。

カァン、と石畳に落ちた木刀を、私は一切の躊躇なく拾い上げる。


「凛華! やめるんだ、こんな場所で……!」

玲玉が慌てて止めに入ろうとするが、私は彼を背にかばうようにして前に出た。護衛としての矜持にかけて、ここで退くわけにはいかない。


私は木刀を正眼に構え、雷覇を睨み据えた。

踏み込む。父から叩き込まれた完璧な型。風を切る速度も、相手の急所を捉える軌道も、王都の練兵場では誰にも負けたことがない、誇り高き一撃だった。


「温いなッ!!」


雷覇が木刀を振り下ろした、その瞬間だった。

私の全身の毛穴が、一斉に粟立った。


(な、に……!?)


目の前の空間がぐにゃりと歪むような錯覚。雷覇の体から立ち昇ったのは、死線を知らない私には到底理解できない、圧倒的でドロドロとした『殺気』だった。

最前線の泥と血肉を啜り、親の仇である他国の命を実際に奪い続けてきた者だけが放つ、本物の死の気配。刃を交える前から、首元に冷たい刃を押し当てられたような生理的な恐怖が、私の全身の筋肉を硬直させた。


完璧だったはずの私の剣先が、恐怖でほんの一瞬だけ、淀んだ。

その致命的な隙を、戦場の狼が逃すはずもなかった。


ガァァァンッ!!


雷覇の荒削りだが重い一撃が、私の木刀を乱暴に弾き飛ばす。両腕の感覚が麻痺し、私は体勢を大きく崩した。雷覇は容赦なく踏み込み、その憎悪に満ちた瞳で私の脳天へと切っ先を振り下ろした。

(殺される——)

平和な王都でしか生きていない自分の『危うさ』を、これ以上ないほど残酷に突きつけられた瞬間だった。


「やめろッ!!」


ドンッ、という鈍い音。

私の顔に落ちてくるはずだった痛撃は、来なかった。

恐る恐る目を開けると、私の目の前に、玲玉が両腕を広げて立ち塞がっていた。


彼は、雷覇の凶刃から私を庇うようにして、自らの身を挺して飛び出してきたのだ。雷覇の木刀は、玲玉の額のわずか数ミリ手前で、ピタリと止められていた。


「僕の庭で、争いごとは許さない……! 剣を引け、雷覇!」

玲玉は震える声で、それでも必死に私を背中に隠し、声を張り上げていた。その肩は恐怖で小さく震えているが、私を守ろうとする優しさは、何よりも強く、痛々しかった。


「……チッ。運のいい小鳥だ。王都の壁に守られているうちはな」

雷覇は忌々しげに舌打ちをし、乱暴に木刀を石畳へ投げ捨てた。


「命を拾ったな。……いや、殿下もろとも、命を懸けている『つもり』だったか」

背後で見ていた煌雷が、底冷えのする笑い声を漏らした。

「平和の泥水に浸かりきった王都で、随分と威勢のいいことだ。せいぜい、その細い腕で殿下の御髪みぐしでも梳かして差し上げるのだな」


煌雷はそれだけ言い捨てると、翻った外套から強い獣の匂いを撒き散らしながら、雷覇たちを引き連れて離宮の奥へと去っていった。

遠ざかる重い足音が聞こえなくなるまで、私はへたり込んだまま、自分の震える両手を見つめることしかできなかった。


「大丈夫!? 凛華、怪我はない!?」


玲玉が慌てて膝をつき、私の顔を覗き込んでくる。その瞳には、純粋な優しさと心配だけが溢れていた。

(私が、守らなければならないのに……)

実戦の殺気にあっさりと呑まれた己の無力さが、どうしようもなく惨めで、悔しかった。


「叔父上たち、相変わらず怖い顔をしてるけど……僕のためにわざわざ来てくれるなんて優しいね。凛華も、無事でよかった」


玲玉が、何事もなかったかのようにのんびりとした声で微笑む。

私は立ち上がり、深く息を吐き出して、無理やりに従者としての仮面を縫い留めた。


「……殿下。冷えて参りました。そろそろお戻りになられませ」

「えー、まだ鯉に餌をあげてないのに」


不満げに頬を膨らませる玲玉の背中を促しながら、私は振り返り、煌雷と雷覇が消えた回廊の奥を睨みつけた。

夕暮れが近づき、皇宮を覆う影が、じわじわと濃さを増し始めていた。

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