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天青の覇王と剣の乙女  作者: *しおり*
青年期

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23/24

番外編1

天青皇宮の奥深く。


高く取られた天窓から、初夏の柔らかな陽光がとばり帳越しに降り注ぎ、瑠璃色の石床に淡い光の波紋を描き出していた。火盆で焚き染められた最高級の白檀の香りが、部屋の空気をとろけるように甘く、気怠くよどませている。


午睡の時間。

十三歳になる玲玉殿下は、黒檀の机に向かって書物を広げていたが、その白磁のような頬はすでに微睡みに負けそうになり、こくり、こくりと規則正しく揺れていた。


いまだ少年の華奢な丸みを残す横顔は、見ているだけで守りたくなるような無防備な美しさを放っている。私は、殿下から斜め後ろ三歩下がった定位置で、足の幅を拳一つ分に開き、両手を背後で組んだ完璧な「休め」の姿勢で直立していた。


大将軍の娘として、私は殿下をお守りする鉄の盾だ。

たとえこの皇宮がどれほど平和な陽だまりに包まれていようとも、私の筋肉は常に目に見えない刺客への警戒を解かず、呼吸の音すら一定の周期に張り詰めさせている。


「……ふふ。凛華は、今日も立派な石像ね」


不意に、重厚な扉が音もなく開き、柔らかな声が室内の静寂を撫でた。


振り返ると、殿下の乳母である春燕様が、黒漆の盆を手に微笑みながら立っていた。彼女が足を踏み入れた瞬間、白檀の香りに混じって、洗い立ての木綿のような清潔な匂いと、微かに鼻腔をくすぐる「甘い蜜」の香りが漂ってくる。


「春燕様。お静かに。殿下は今、歴史の書物を……」


「あら、難しいお顔で舟を漕いでいらっしゃるけれど?」


春燕様がくすくすと笑うと、その声に気づいた玲玉殿下が、ハッと弾かれたように顔を上げた。


「ち、違うよ春燕! 僕は起きてる。第四代皇帝の治世について、深く思案していただけで……」

「はいはい、お勉強熱心な殿下には、頭の疲れを取る特効薬をお持ちしましたよ。内緒で厨房から頂いてきたのです」


春燕様が机の上に置いたのは、翡翠の小皿に盛られた、透き通るような点心だった。氷のように涼しげな水晶のくずに、とろりとした黄金色の白蜜がたっぷりと掛けられている。


窓からの光を反射してキラキラと輝くそれは、見ているだけで口の中に甘い唾液が滲み出してくるような、極上の菓子だった。


「わあ……! ありがとう、春燕!」玲玉殿下の紫水晶の瞳が、パッと花が咲いたように輝く。

彼は象牙の箸を手に取ると、嬉しそうにその一つを頬張った。


「んんっ……冷たくて、すごく甘い。美味しいよ」

「ふふ、お気に召して何よりです。……さあ、凛華もどうぞ」


春燕様が、もう一つの小皿を私の前へと差し出した。


とろけるような白蜜の甘い香りが、私の鼻先をかすめる。

私の喉の奥で、無意識にゴクリと小さな音が鳴りかけた。


十五歳の、甘いものを欲する年相応の身体の反射だ。

だが、私は直剣の柄に添えた左手にギュッと力を込め、表情筋を完全に殺したまま、首を横に振った。


「……お心遣い感謝いたします。ですが、私は任務中にございます。殿下の御前で、かつ勤務中に私的な食物を口にするなど、武官の規律に反します」


大将軍である父の「女に甘んじて甘い香りを嗅げば、盾はすぐに錆びつく」という怒声が、耳の奥で楔のように鳴り響く。私は、自分の内側で首をもたげようとするただの少女の欲求を、冷たい鉄の理性で無理やりに押さえつけた。


「まあ、堅苦しいこと。柳の旦那様は見ていらっしゃらないのだから、この部屋の中くらい、少しは肩の力を抜けばいいのに」


春燕様が困ったように眉を下げる。


「なりませぬ。私は盾です。いかなる時も……」

「ねえ、凛華」


私の言葉を遮ったのは、玲玉殿下だった。


彼は、小皿に載った二つ目の水晶点心を箸で摘み上げると、ゆっくりと立ち上がり、私の目の前まで歩み寄ってきた。


「で、殿下……?」

「任務中だから、食べられないんだよね。……じゃあ、僕が『主君』として命令したら、どうする?」


「え……」


玲玉殿下は、悪戯を企む子供のように紫水晶の瞳を細め、にんまりと笑った。


「天青皇国、次期皇帝としての直命す。近衛隊長・柳凛華。……今すぐ、口を開けなさい」

「なっ……で、殿下! そのような職権乱用は……んむっ!?」


私が抗議のために口を開いた、まさにそのコンマ一秒の隙だった。玲玉殿下の箸が、私の口の中へ、冷たい白蜜の点心をポイッと放り込んだのだ。


「あ……んんっ」口を閉ざすより早く、舌の上に、暴力的なまでの甘さが広がる。

ひんやりとした葛の滑らかな舌触りと、花の蜜を極限まで濃縮したような白蜜の芳醇なコク。


過酷な訓練と粗食に慣れきっていた私の脳髄に、その甘さは雷のように突き抜けた。


「……っ」


私は思わず目を丸くし、咀嚼することも忘れて、ただその甘露が口の中で溶けていくのを呆然と味わっていた。

肩の強張りが、嘘のようにスッと抜け落ちる。常に眉間へ寄せていた険しい皺が解け、私の両頬が、無意識のうちにほんのりと熱を帯びて桜色に染まっていくのが自分でも分かった。


美味しい。

ただただ、どうしようもなく美味しくて、幸福な味だった。


「あははっ! 凛華、すごく変な顔!」玲玉殿下が、腹を抱えて無邪気な笑い声を上げた。


「やっぱり凛華も女の子だね。甘いものを食べてる時の方が、ずっと素敵だよ」

「で、殿下……っ、からかわないでください……!」


私は口元を両手で覆い、顔から火が出るほどの羞恥に身をよじった。


護衛としての完璧な仮面が、たった一口の菓子と、この少年の無邪気な笑顔の前に、いとも容易く粉砕されてしまったのだ。


「ふふふ。本当に、お二人を見ていると飽きませんね」


春燕様が、まるで本物の姉弟を見るような、底なしに温かく、慈愛に満ちた瞳で私たちを見守っている。

窓の外からは、穏やかな風に揺れる柳の葉擦れの音と、名も知らぬ小鳥のさえずりが聞こえてくる。


口の中に残る、白蜜の甘い余韻。私は、からかって笑い続ける殿下を少しだけ睨みつけながらも……その実、この白檀の香りに満ちた、果てしなく温かく、柔らかな時間が、永遠に続けばいいと願わずにはいられなかった。

私がこの平穏を守り抜くのだ。この無邪気な笑顔も、春燕様の優しい匂いも、すべてを。


だが、この時の私はまだ知る由もなかった。この甘く満ち足りた午後が、やがて来る炎と血の夜によって、二度と手の届かない灰へと変わってしまうことを。そして、この『白蜜の味』が、血の味しかしない地獄の底で、私たちが人間として生きるための、最も痛切で、美しい記憶の楔となることを――。

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