10 エピローグ
薄暗い払暁の光が、瑠璃色の窓硝子を透過して、天青皇国の奥宮の冷たい石床に幾何学的な文様を描き出していた。
静まり返った部屋の空気を満たしているのは、火盆で焚き染められた最高級の沈香の甘く重い香りと、微かに開いた窓の隙間から入り込む、朝露の湿った匂い。
どこか遠くの広場で、今日の儀式の始まりを告げる銅鑼の音が、腹の底を震わせるような重低音となって反響している。
私は、巨大な姿見の前に座り、自らの姿をただじっと見つめていた。
「皇后様、冠をお持ちいたしました」
女官の微かに震える声が、背後から掛けられる。
絹が擦れ合う微かな音と共に私の頭上に掲げられたのは、純金と翡翠で精緻に設えられた、目を焼くほどに豪奢な『鳳凰の冠』だった。
私の身体を包んでいるのは、かつての殺風景な黒い胡服ではない。
何重にも重ねられた薄絹の上に、天青の空の色と深い真紅を織り交ぜた、息を呑むほどに豪奢な大礼服。かつて、剣の柄を握るために無数のタコを作っていた私の手は、今は透けるような絹の袖口に隠され、爪の先には薄紅が差されている。
「……退がれ。そこからは私がやる」
不意に、重厚な扉が開く音と共に、聞き慣れた、けれど今は誰よりも絶対的な威厳を持った男の声が響いた。
室内にいた十数人の女官たちが、弾かれたように床に平伏し、衣擦れの音すら殺して潮が引くように部屋を退出していく。
鏡越しに、彼と視線が絡んだ。
漆黒を基調としながらも、金糸で天青の巨大な竜が縫い取られた、皇帝の大礼服。
かつては私の背中にすっぽりと隠れてしまっていたはずの華奢な少年は、今や見上げるほどに広く逞しい肩幅を持ち、その身から放たれる覇王としての冷徹な威圧感は、部屋の空気を一瞬にして支配していた。
玲玉は、私の背後へ音もなく歩み寄ると、女官が残していった翡翠の冠を自らの大きな手で持ち上げた。
彼の放つ、微かな麝香と体温が混じった大人の男の匂いが、私の鼻腔をくすぐる。
「……とても綺麗だ。凛華」
低い声が耳朶を打ち、玲玉の剣ダコのある長い指先が、私の結い上げられた黒髪の束に触れた。
彼は、恐ろしいほどの重量を持つ鳳凰の冠を、私の頭上へとゆっくりと、そして極めて慎重に載せた。ズシッ、という冷たい金属の重みが、私の首の骨に伸しかかる。
「……重いでしょう、陛下」
私は、鏡の中の彼を見つめながら、ぽつりとこぼした。
「四年前の皇宮で、貴方は仰いました。『あの分厚い冠を被ると首が痛くなるから嫌いなんだ。凛華が代わりに被ってくれたらいいのに』と。……あの頃の殿下は、この玉座の重さを、心底嫌がっておられましたね」
私の言葉に、玲玉は冠の装飾を整えていた手を止め、ふっと微かに、自嘲するような、けれどどこか愛おしむような息を吐き出した。
「そうだね。昔の僕は、ただの温室の小鳥だった。……誰も血を流さないお花畑の理想を信じて、自分の手は絶対に汚そうとしない、無責任で弱い子供だったんだ」
玲玉の指先が、私のうなじをそっと撫でる。
ビクッと肩が跳ねるのを、彼は逃さないように自らの胸に私の背中を引き寄せた。
「でも、今は違う」
玲玉の紫水晶の瞳が、鏡の中で、氷のような冷徹さと、どす黒い情熱を交差させて私を射抜いた。
「僕は、君から盾という呪いを奪い、ただの女として僕の隣に閉じ込めるためだけに……数万の血を啜り、この重い冠を自らの意志で奪い取った。……もう二度と、君に『代わりに被ってくれ』なんて情けないことは言わないよ」
玲玉の熱い唇が、私の耳たぶを甘く噛む。
「君はただ、僕の用意したこの国で、僕の毒を一緒に飲みながら、永遠に愛されていればいいんだ」
腹の底が、熱く粟立つ。
女としての柔らかな部分を強制的に引きずり出されるような、彼の逃げ場のない愛の包囲網。私は、膝の上で組んだ両手をギュッと握りしめ、必死に顔の熱を悟られまいと息を飲み込んだ。
「……さあ、行こう。僕たちの、新しい国の始まりだ」
玲玉が私の手を取り、立たせる。
私は、彼に引かれるまま、かつてないほどの重みを持った大礼服の裾を引きずりながら、決戦の場――いや、戴冠の儀が待つ大広間へと歩みを進めた。
* * *
ゴォォォォン……ッ!!
巨大な編鐘の重厚な音色が、白亜の回廊に幾重にも反響し、腹の底を激しく震わせる。
大広間へと続く巨大な扉が開かれた瞬間、視界を白く焼き尽くすほどの眩い陽光と、数千の人間が放つすさまじい熱気が、一気に私たちを包み込んだ。
「天青皇国、第十六代皇帝陛下! 並びに、皇后陛下のおなーりー!!」
高官の張り裂けんばかりの声が響き渡ると同時。
広大な大理石の床に整列していた、天青の旧体制の貴族たち、武官たち、そしてシャフルードの砂漠から付き従ってきた異形の者たちが、一斉に、波がうねるように深く平伏した。
鼓膜を打つのは、衣擦れのすさまじい音と、張り詰めた静寂。
玲玉は、私の手を引いたまま、赤い絨毯の敷かれた中央の道を、堂々たる足取りで進んでいく。
彼の横顔は、一切の感情を排した絶対的な覇王のそれだった。かつて花を愛で、小鳥の死に泣いていた少年の柔弱さは微塵もない。泥と血の底から這い上がり、知略と恐怖で大国を内側から食い破った、誰よりも美しく、冷徹な王の姿。
私は、息を潜めて平伏する者たちの顔を、視界の端で捉えていた。
列の最前列で床に額をこすりつけている大蔵省の海連は、滝のような脂汗を流し、新しき王の威圧感にガタガタと肩を震わせている。
その少し後方では、シャフルードの裏社会を取り仕切っていた隻腕のザウルが、儀礼用の窮屈な服を着崩しながらも、鉄の義手で口元を隠し、どこか誇らしげな、悪虐な笑みを浮かべて私たちの歩みを見つめていた。
そして、武官の列の先頭。
魏老将軍は、深く平伏したまま、その右目の傷痕の周囲を涙でぐしゃぐしゃに濡らし、老いた肩を激しく震わせて嗚咽を噛み殺していた。
かつての主君の遺児が、地獄を乗り越えて真の王として帰還したこと。そして、呪縛に囚われていた大将軍の娘が、最も美しい姿でその隣を歩いていることへの、感極まった落涙。
私は、胸の奥が熱く締め付けられるのを感じながら、自然と背筋をさらに高く伸ばした。
やがて、私たちは最奥の、高く設えられた祭壇――黒曜石の玉座の前へと辿り着いた。
玲玉は、玉座の前に立ち、ゆっくりと振り返って、平伏する数千の諸侯を見下ろした。
そして、彼が動いた。
かつての私であれば。
彼が振り返った瞬間、私は音もなくその斜め後ろ、三歩下がった『影』の位置――彼を背後から守る盾の定位置へと、自動的に身を引いていただろう。
それが、四年間、私の皮膚に染み付いた護衛としての存在意義であり、決して越えてはならない絶対の境界線だった。
私は、無意識のうちに左足を半歩、後ろへ引こうとした。
だが。
「……」
玲玉の大きな手が、私の指をギリッと痛いほどに強く握り締め、その微かな後退を、物理的かつ絶対的な力で阻止した。
彼は、私の顔を見ようとはしなかった。
ただ、繋いだ手を自らの身体のすぐ横へと強く引き寄せ、私を、玉座の真横――自分と完全に肩を並べる位置に、力ずくで立たせたのだ。
(……殿下)
私の喉の奥で、声にならない吐息が漏れる。
『もう君一人に、泥水を啜らせはしない。だから君はもう、僕のために剣を抜かなくていい』
あの安宿で彼が誓った言葉。
彼は本当に、私を背後の影から引きずり出し、光の当たるこの世界の頂点へと、力ずくで引き上げたのだ。
「面を上げよ」
玲玉の、氷のように澄み切った声が大広間に響き渡る。
数千の諸侯が一斉に顔を上げ、玉座に並び立つ私たちを見上げた。
「今日より、私が天青皇国第十六代皇帝として、この玉座に座る」
玲玉の紫水晶の瞳が、広間全体を冷酷に、そして圧倒的なカリスマで撫で斬る。
「恐怖で縛られた鉄の牢獄の時代は、終わった。だが、かつてのような、力なき平和の泥水に回帰するつもりもない」
玲玉は、繋いだ私の手を、諸侯の目の前でゆっくりと高く掲げた。
「私の隣に立つこの皇后は、私と共に地獄を這いずり、私のために修羅に堕ちてくれた、天青の真の剣だ。……我らは、二度と理不尽に奪われない。私の国を脅かす者には、容赦のない毒と刃をもって、その喉笛を噛み千切る」
それは、温室の皇子でもなく、単なる暴君でもない。
人間の弱さも醜さもすべてを飲み込み、盤面を完全に支配する、真の覇王としての冷徹な宣戦布告だった。
「……新しき皇帝陛下、万歳!! 皇后陛下、万歳!!」
魏老将軍の血を吐くような咆哮を皮切りに、大広間は、建物を揺るがすような数千の歓声と熱狂の渦に完全に飲み込まれた。
地鳴りのような拍手と、涙を流して叫ぶ兵士たちの声。
私は、繋がれた手から伝わる玲玉の熱い鼓動を感じながら、視界が白く滲むのを必死に堪えていた。
もう、斜め後ろ三歩の暗闇には戻れない。
私は、彼の隣で、彼の毒を共に飲み、この重い冠を生涯被り続けるのだ。
* * *
天青皇国、第十六代皇帝の治世。
かつて血と泥に塗れた暗黒の時代は、若き覇王とその傍らに立つ黒衣の皇后によって完全に払拭され、歴史上最も豊かで、力強い平和の時代として語り継がれることとなった。
――それから、十数年の歳月が流れた。
初夏の柔らかな陽光が、天青皇宮の広大な庭園に降り注いでいる。
どこからか、宮廷楽団が奏でる双簧管の、壮大で優美な旋律が風に乗って流れてきた。かつての退廃的な響きではない。人々の営みと、これからの未来という壮大な物語を祝福し、力強く背中を押すような、深く温かな音色だ。
「ち、父上! 見てください、母上に教わった型です!」
芝生の上で、弾むような高い声が響く。
そこには、かつての玲玉に生き写しの、しかし日に焼けた健康的な肌を持つ八歳の皇太子が、小さな木刀を一生懸命に構えている姿があった。その額には汗が光り、紫水晶の瞳には、かつての玲玉が持っていなかった「自分の力で立ち上がろうとする」真っ直ぐな熱が宿っている。
「お兄様、足の重心が高すぎますわ。それではすぐに弾き飛ばされてしまいます」
その横で、藤椅子に座って分厚い歴史書を膝に広げているのは、私と同じ艶やかな黒髪を持った六歳の皇女だった。彼女は母である私に似て少し小生意気なところがあるが、その瞳の奥には、父親譲りの底なしの優しさと知性がすでに宿り始めている。
「くっ……今度こそ! やぁっ!」
「ふふ、二人ともその辺にしておきなさい。おやつの白蜜菓子がぬるくなってしまうよ」
庭園の入り口から、公務の合間を縫ってやってきた玲玉が、目を細めて歩み寄ってきた。
三十路を迎え、その覇王としての威厳と大人の男としての色気は、もはや円熟の域に達している。だが、子供たちに向けるその笑顔だけは、あの村で阿星たちと笑い合っていた時のように、どこまでも無防備で穏やかな父親の顔だった。
「陛下、お疲れ様です。……あまり甘やかしてはなりませんよ。次代の国を背負うのですから、剣も学問も、基礎の反復が何より肝要なのですから」
私が藤椅子から立ち上がり、たしなめるように言うと、玲玉は苦笑しながら私の隣へと並び立った。
私は今、殺風景な胡服ではなく、動きやすさを残しながらも皇后としての品格を備えた、深い青色の絹衣を纏っている。左肩の傷跡は、今も消えずに残っているが、それを恥じることはとうになくなっていた。
「基礎を教え込み、彼らが自らの言葉で考えを言語化できるように導く。……君のその教育法のおかげで、うちの子供たちは僕の幼い頃とは大違いの、たくましい次世代に育っているよ」
玲玉は、子供たちが遠くで乳母たちとお菓子に夢中になっているのを確認すると、ごく自然な動作で、私の腰にスッと力強い腕を回してきた。
引き寄せられた分厚い胸板から、長年嗅ぎ慣れた沈香の香りと、彼特有の熱が伝わってくる。
「……で、殿下、ではなく陛下。白昼堂々、庭園でこのような……女官たちが見ております」
「見させておけばいい。僕が自分の妻を愛おしんで、誰に文句を言われる筋合いがあるんだい?」
玲玉は意に介する様子もなく、私のうなじの生え際に、音を立てて熱い口付けを落とした。十数年経っても、四人の子供の親になっても、この男の私に対する底知れぬ独占欲と甘い包囲網は、一向に解かれる気配がない。
「……それにしても、不思議だね。凛華」
玲玉は、私の肩に顎を乗せ、眩しそうに庭園の光景を見つめた。
「あんな地獄の底で、泥と血を啜って生き延びた僕たちが……今、こうして、誰も理不尽に命を奪われない庭で、自分たちの子供の成長を笑って見ていられるなんて」
その声には、覇王としての重圧を下ろした、一人の人間としての深い感慨が滲んでいた。
私から自らに課した「盾」という呪いを剥ぎ取り、彼自身も「温室の小鳥」だった弱さを捨て去り、共犯者として世界を裏返したあの日々。
私たちは、子供たちを温室のような無菌室で育てるつもりはない。
かといって、かつての私たちのように、理不尽な暴力と泥水の中で戦わせるつもりもない。
痛みを知り、他者の弱さに寄り添える「仁の心」と、それを現実の盤面で守り抜くための「力と知略」。その両方を、親として彼らにゆっくりと、確かに手渡していくのだ。
「……不思議ではありませんよ、玲玉様」
私は、私の腰を抱く彼の手――無数の剣ダコとペンダコが刻まれた、その大きくて温かい大人の男の手に、自らの手を重ねた。十指を絡め合わせ、決して離れないように強く握り返す。
「貴方が諦めず、すべてを懸けてこの世界を作り直してくださったからです。……そして私が、貴方の隣で、すべての悪意を切り裂いてきたからです」
「ふふ、違いない。君は本当に、世界で一番頼もしくて、可愛い僕の皇后だ」
玲玉の腕の力がさらに強くなり、彼は私の額に、誓いのような深く優しい口付けを落とした。
双簧管の壮大な旋律が、初夏の青空へと高く、高く吸い込まれていく。
微風が私たちの髪を揺らし、庭の向こうから「母上! 父上!」と無邪気に手を振る子供たちの笑い声が響いた。
血と泥に塗れた長い長い夜は、完全に明けたのだ。
私は、隣で微笑む私のただ一人の王を見つめ返し、彼が与えてくれたこの甘く幸福な永遠の包囲網の中で、満ち足りた吐息をそっと夜明けの空へと溶かしていった。




