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分厚いビロードのとばりの隙間から、白々とした朝の光が一条、寝台のシーツへと差し込んでいた。


微かな鳥のさえずりと、どこか遠くで響く皇宮の朝の喧騒。

私は、肌を滑る最高級の絹の感触と、これまでに嗅いだことのないほどの深く甘い沈香じんこう、そして汗が混じり合った匂いの中で、ゆっくりと重い重い瞼を持ち上げた。


(……朝?)


思考がひどく鈍い。左肩の傷の痛みよりも、全身の筋肉が溶け落ちてしまったかのような、気怠くも甘い疲労感が四肢を支配している。


長年の過酷な生活で「誰よりも早く目を覚ます戦士の眠り」が染み付いている私だったが四年間抑え込み続けていた玲玉の途方もない情熱と愛によって、彼女は心身ともに極限まで溶かされ、生まれて初めて「護衛」であることを忘れて深い眠りに落ちてしまっていた。


ふと、腰の辺りに、ずっしりとした重みと圧倒的な熱源を感じた。


視線を下へ向ける。

私の素肌の腰に、太く逞しい男の腕がしっかりと、逃げ道を塞ぐように回されている。その腕を辿って横を向いた瞬間――私の心臓は、文字通り跳ね上がって喉から飛び出しそうになった。


至近距離。鼻先が触れ合うほどの位置で。

玲玉が、紫水晶の瞳を細め、ひどく満ち足りた顔で、私をじっと見つめていたのだ。


「……おはよう、凛華」


朝の掠れた、低く甘い声。

その音の振動が耳膜を震わせた瞬間、昨夜の記憶が、濁流のように私の頭へと流れ込んできた。


『私を……一人で外に出さないでください。どうか、ずっと貴方の傍に……』

大将軍の娘としての誇りをかなぐり捨て、彼の胸ぐらを掴んで泣きじゃくった自分の姿。

私の涙を啜り上げるように重ねられた熱い唇。彼の腕の中に完全に閉じ込められ、盾としての鎧を物理的にも精神的にも一枚残らず剥ぎ取られ、一人の女として彼が与える猛毒に溺れきった、あの底なしに甘く、狂おしい夜の記憶。


「あっ……!」


全身の血液が一気に沸騰したように、首筋から耳の先までがカッと熱を持つのが分かった。

私は弾かれたように身を引き、傍らに乱れていた絹のシーツを両手で力任せに引き寄せると、赤く染まった顔の下半分と、無防備な素肌を必死に隠した。


「で、殿下……っ! あ、ちが……っ、昨夜の、あれは……!」


頭が真っ白になり、気の利いた武官の言い訳すら一つも出てこない。ギリッとシーツを握りしめる私の手は、情けないほど小刻みに震えていた。

そんな私の無様な姿を、玲玉は寝台に肘をついて上体を起こし、まるで極上の朝食を眺めるような愛おしげな瞳で見下ろした。


「もう遅いよ。……あんなに可愛い声で泣いて僕にすがりついてきた君を、今さら『ただの剣』になんて戻してあげるわけがないだろう」

玲玉の大きな手が、私が握りしめているシーツの上から、私の手をそっと包み込む。

「それに、もう殿下じゃない。……『玲玉』って呼んでよ」


彼の熱を帯びた指先が、シーツから覗く私の素肌の肩をなぞる。

それだけで、昨夜彼に刻み込まれた身体の奥底の記憶が粟立ち、私は小さく身を震わせた。完全に、彼に主導権を握り潰されている。


「さあ、起きよう。今日は、君に『新しい鎧』を用意してあるんだ」

玲玉は、シーツに隠れて目を泳がせる私の額に、チュッと軽い口付けを落としてから、しなやかな動作で寝台を降りた。



分厚いビロードのとばりの隙間から、白々とした朝の光が一条、寝台のシーツへと差し込んでいた。


むせ返るような白檀びゃくだんと、大人の男の汗の匂いが混じり合う寝所の空気が、重厚な扉が開く微かな音で揺れる。


「……陛下、お召し物をお持ちいたしました」


伏し目がちに入室してきた女官たちが、恭しく高く掲げて運び込んできたのは、いつもの殺風景な黒の胡服(軍服)ではなかった。

それは、朝陽を受けて眩いほどに輝く、天青皇国の至宝とも言える最高級の絹で仕立てられた女性の礼服だった。


寝台の端で薄絹を羽織っていた私は、そのあまりにも豪奢で暴力的なまでの美しさに息を呑み、思わず身を縮めた。


「で、殿下……いえ、陛下。このような華美な衣は、私には……」

私は、シーツを握りしめる自分の手を見下ろした。昨夜、彼に狂おしいほどの口付けを落とされた手とはいえ、その指の関節はいびつに歪み、無数の剣ダコが刻まれている。

「こんな血の穢れた、人殺しの私が、神聖な赤と金を纏う資格など……」


「凛華」

背後から、彼のがっしりとした腕が私の腰を抱き寄せた。玲玉は私の耳元に唇を寄せ、甘く、けれど絶対的な熱量を持って囁く。


「君が僕のために被ってくれた泥も血も、僕にとってはどんな宝石よりも美しい。……君以外の誰が、この服を着る資格があるっていうんだ」

彼の言葉は、私の心の奥底に残っていた最後の呪いの欠片さえも、熱を帯びた水のように優しく溶かしていく。


着付けは女官たちの手によって行われた。

何枚もの薄絹が重ねられ、重厚な深紅の布地が私の身体を包み込んでいく。衣擦れの心地よい音と、微かな白粉おしろいの匂いが広がる中、私はどうしても落ち着かない気分で視線を彷徨わせていた。


無理もない。玲玉は、私が着付けられている間、部屋を退出するどころか、すぐ傍の長椅子に深く腰を掛け、片時も私から視線を外そうとしなかったのだ。

紫水晶の瞳が、薄絹越しに透ける私の肌や、昨夜彼自身が刻みつけた赤い痕を、まるで獲物を舐め回すような熱を帯びて見つめ続けている。


その威圧感と色気に当てられ、手伝いをする女官たちの指先は小刻みに震え、皆一様に顔を真っ赤にして息を殺していた。私もまた、顔から火が出るほどの羞恥に耐えきれず、鏡台の前で身をよじる。


「へ、陛下……お下がりください。これでは女官たちが萎縮してしまいます……っ」

「嫌だね。……凛華が美しく仕上がっていく姿を、一瞬たりとも見逃したくないんだ」

玲玉は悪びれる様子もなく微笑み、組んだ脚の膝に顎を乗せた。


やがて着付けが終わり、女官たちが私の髪を結い上げようと櫛を手に取った、その時だ。


「……そこからは、僕がやろう」

玲玉が静かに立ち上がり、鏡台の前に座る私の背後へと歩み寄った。女官たちは弾かれたように平伏し、音もなく部屋の隅へと下がる。


玲玉は、鏡台に置かれていた象牙の櫛を手に取ると、私の背中に流れ落ちていた黒髪を、ゆっくりと、丁寧に梳き始めた。

頭皮を撫でる櫛の冷たさと、背後から伝わってくる大きくて温かな体温。


ふと、私の脳裏に、かつて外廷の冷たい部屋で、乳母の春燕が私の髪を梳いてくれた夜の記憶が蘇った。

『将軍の娘である前に、殿下の盾である前に、貴女も普通の女の子なのですよ』

あの時、私を「ただの少女」として包み込んでくれた優しい匂い。今、私の背後にいるこの男は、春燕が命を懸けて守り抜いた少年であり、そして今、私のすべてを肯定し、私の「家族」となってくれた、世界でたった一人の愛する男なのだ。


胸の奥が熱くなり、視界がじんわりと滲む。


「……痛くないかい?」

「はい。……とても、心地よいです」


玲玉の、剣ダコのある無骨な男の指先が、私の髪を優美に掬い上げ、手慣れた様子で複雑な形へと結い上げていく。シャフルードの夜、幾度となく私の髪を弄り、解いては梳いていた彼の指は、私の髪の扱いを誰よりも熟知していた。


そして最後に、彼は鏡台の小箱から取り出した、豪奢な金の簪を、結い上げた黒髪にそっと挿し込んだ。


「……見て、凛華」

玲玉の囁きに促され、私はおずおずと、目の前の鏡に視線を向けた。


「あっ……」

鏡の中に映っていたのは、血と鉄の匂いを纏い、感情を殺していた「鉄の盾」でもなければ、暗闇で敵の喉笛を掻き切る「狂犬」でもなかった。

深紅と金の衣に身を包み、ほんのりと頬を桜色に染め、潤んだ瞳で愛する男を見つめ返す……息を呑むほどに美しく、玲玉の途方もない愛情と熱によって咲き誇った、一人の『女性』の姿がそこにあった。


「これが、僕のたった一人の……美しい女性だ」


鏡越しに視線が絡み合う。

玲玉は、簪の挿された私のうなじにそっと熱い唇を落とすと、鏡の中の私に向かって、この世のすべてを手に入れた覇王の、そして私だけを愛し抜く一人の男としての、最高に甘く、傲慢な微笑みを浮かべたのだった。


* * *


数時間後。天青皇国、大朝議の間。

黄金の装飾が施された高い天井の下には、大蔵省の海連カイレンをはじめとする文官たちや、老将軍ら武官、そして新たに重用されたザウルらシャフルードの幹部たちがズラリと並び、新しき王の入室を待っていた。


「……海連様。本日の朝議にて、いよいよ立后の件を強く推し進めるのですね」

「うむ。国庫の立て直しは進んでいるが、未だ民の心は不安定だ。ここで名門・李家の清らかな姫君を玉座の隣にお迎えし、陛下の治世が血生臭いものではないと天下に示さねばならん。……陛下も、大局を見渡せるお方だ。必ずやご納得いただけるはずだ」


海連たち文官が、自信ありげにひそひそと囁き合う。彼らにとって、王の婚姻とは最大の政治カードだ。

やがて、重厚な黒檀の扉が開くことを告げる、宦官の甲高い声が響き渡った。


「陛下、おなーりー!!」


ざわめきが波を打つように消え、朝議の間にいる全員が、大理石の床に膝をついて深く平伏した。

静寂の中、硬質な靴音が響いてくる。

漆黒の朝服に身を包んだ玲玉が、覇王としての凄絶な威圧感を纏いながら、玉座へと続く赤い絨毯の上を歩み進めてきた。


だが――。

平伏していた海連が、玉座の前に立つ王の御靴を確認しようと微かに視線を上げた瞬間。彼は、自らの目を疑い、ヒュッと喉の奥で息を引き攣らせた。


陛下の斜め後ろ、三歩下がった位置。

そこには常に、血と鉄の匂いを纏った黒衣の近衛隊長――「狂犬」と呼ばれる男装の女剣士が、感情のない顔で控えているはずだった。


だが、今日、玲玉の隣に立っているのは、見知らぬ美女だった。


天青の伝統的な意匠でありながら、動きやすさを損なわない洗練された仕立て。深い群青色の極上の絹に、銀糸で波と竜の紋様が緻密に縫い取られた豪奢な礼服。

常にきつく結い上げられていた黒髪は、柔らかく流れるような美しい結い上げへと整えられ、その髪には、玲玉の瞳の色と同じ、見事な紫水晶アメジストかんざしが光を受けて煌めいている。


鋭く、人を殺すためだけに研ぎ澄まされていた顔立ちは、薄く紅を引かれたことで、本来彼女が持っていた凛とした気高さと、息を呑むような大人の女の艶やかさを完璧なバランスで共存させていた。


「なっ……」

海連だけでなく、並み居る重臣たちの間に、どよめきが雷のように広がっていく。

誰だ。あの威風堂々たる、しかしどこか見覚えのある美しき姫君は。


玲玉は、ざわめく朝議の間を見下ろしながら、玉座へと悠然と腰を下ろした。

そして、隣に立つその女性――私の手を、皆の目の前で堂々と取り、自らの傍らへと引き寄せたのだ。


「海連。昨日の朝議で、貴方たちは僕に『血の穢れのない、清らかな姫君を玉座の隣に』と進言したね」

玲玉の、氷のように透き通り、しかし絶対的な重みを持った声が響いた。


「は、ははっ! さようにございます、陛下。国の安定のためには、一刻も早く……」

「だから、連れてきた」


玲玉は、紫水晶の瞳を冷酷に細め、玉座の間を圧するように宣言した。


「柳 大将軍が息女、柳 凛華。……彼女こそが、我が天青皇国の皇后である」


「……ッ!!」

朝議の間の空気が、文字通り破裂した。


「お、お待ちください、陛下!!」

海連が、顔面を蒼白にして床に額を叩きつけるように叫んだ。

「彼女は……凛華殿は、武門の出とはいえ、この四年間裏社会で幾人もの血をその手に浴びてきた、血塗られた剣にございます! そのような殺し合いに身を投じた者を国母とするなど、民が、貴族たちが納得いたしません!」


文官たちが次々と「さようです!」「血の穢れが!」と声を上げる。

私の背筋が、昨夜の恐怖を思い出して微かに強張った。

(やはり、私は……)

無意識に彼と繋いだ手を引き抜こうとしたが、玲玉の大きな手は、私の指をギリッと痛いほどに強く握り締め、決して逃がさなかった。


「……血の穢れ、だと?」


玲玉の声が、一瞬にして朝議の間の温度を絶対零度まで下げた。

先ほどまでの余裕のある覇王の顔が消え、その瞳に、すべてを焼き尽くすような純粋な『怒り』が燃え上がったのだ。


「その血塗られた剣が、この四年間、誰のために泥水を啜ってきたと思っている」

玲玉が玉座から立ち上がり、海連たち文官を氷の視線で射抜く。


「煌雷の恐怖政治の下で、貴方たちが己の保身のために震え、温かい屋敷でぬくぬくと眠っていた間。……彼女は、僕を生かすためだけに砂漠の熱砂を這いずり回り、数多の刺客の刃をその身で受け止め、血反吐を吐いてきたのだ!!」

「ひっ……!」


玲玉の怒声に、海連たちが怯えて身をすくめる。

「彼女が流した血は、穢れなどではない。この玉座を奪い返し、今貴方たちが立っているこの国を蘇らせるために流された、最も尊き血だ」


玲玉は、繋いだ私の手を自らの胸――心臓の位置へと引き寄せた。


「温室で花を愛でてきただけの姫君に、僕がシャフルードで飲み込んできた猛毒と絶望の重さが理解できるか。……僕の隣に立ち、この血塗られた覇道を共に歩めるのは、僕のために修羅に堕ちてくれた、この女ただ一人だ!」


一切の反論を許さない、圧倒的な論理と、暴力的とも言えるまでの愛の威圧感。

文官たちは完全に言葉を失い、恐怖と畏敬の前に、ただひれ伏すことしかできなくなった。


(玲玉……)

私は、強く握られた手から伝わる彼の鼓動を感じながら、視界がじんわりと熱く滲むのを抑えられなかった。

彼が、私の背負ってきた罪も、血の穢れも、すべてを『王の誇り』として肯定し、この世界の中心で私を全肯定してくれたのだ。


「……へっ、うちの王様は、相変わらずエゲツねえ囲い込みをしやがる」

列の端で、ザウルが鉄の義手で口元を隠し、ニヤニヤと笑いながら肩を揺らしている。


そして。

武官の列の最前列にいた魏老将軍が、ゆっくりと顔を上げた。


その右目の傷痕の周囲には、深く刻まれた皺を伝って、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。

彼は、豪華な礼服に身を包み、王の隣で一人の女性として立つ私の姿を、どこか眩しそうに見つめていた。


(おお……。大将軍よ、あんたの娘は……強ばった鉄の盾ではなく、こんなにも美しく、愛される女になったぞ)


魏老将軍は、嗚咽を噛み殺しながら、誰よりも深く、そして心からの祝福を込めて、大理石の床に額を擦り付けた。

「……新しき皇后陛下、万歳!! 玲玉陛下、万歳!!」


老将軍のその魂の叫びに呼応するように、武官たちが、そしてザウルたち裏社会の者たちが一斉に歓声を上げる。やがてその熱狂は文官たちをも飲み込み、朝議の間は、割れんばかりの祝福の嵐に包まれた。


私は、もう強がることをやめた。

繋がれた彼の手を強く握り返し、私は初めて、彼の隣に立つ者として、そして彼の妻として、堂々と前を向いて、新しき帝国の朝陽を受け止めていた。

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