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天青の覇王と剣の乙女  作者: *しおり*
青年期

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20/24

8

鎮国公・煌雷の巨体が血の海に沈み、天青皇国を覆っていた重く暗い雨雲が割れてから、数週間の時が流れた。


血と臓物の臭気が充満していた黒曜石の玉座の間は、旧体制の武官たちと寝返った近衛兵たちの手によって清められ、かつての白檀びゃくだんの香りが少しずつ戻り始めていた。

玲玉は約束通り彼の命を奪うことはなかったが、最果ての閑職へと左遷した。裏切り者の彼に安息が訪れることはないだろう。


だが、玉座を取り戻した若き覇王・玲玉を待ち受けていたのは、決して華やかで安泰な治世の始まりではなかった。


「……陛下。恐れながら申し上げます。国庫には、文字通り一厘の銅貨も、一粒の麦も残されておりません」

朝議の席。大蔵省の財務卿・海連カイレンが、青ざめた顔で額の汗を拭いながら進み出た。

「我が軍と民を食わせるための備蓄は、あの経済封鎖によって完全に底をつきました。このままでは、せっかく平和を取り戻した帝都で、今度は餓死者と暴動の嵐が吹き荒れることになります……ッ!」


海連の悲痛な報告に、居並ぶ重臣たちは皆、絶望に顔を伏せた。

玲玉が煌雷を干上がらせるために放った「物流の完全停止」という猛毒。それは、煌雷の軍を内側から崩壊させる最高の知略であったが、同時に、国そのものを仮死状態へと追い込む劇薬でもあった。刃を交えずに勝つ代償として、新しき王は「空っぽの国」を引き継ぐことになったのだ。



だが、玉座に深く腰を沈める玲玉の紫水晶の瞳には、微塵の焦りもなかった。

彼は、絶望する重臣たちを冷ややかに見下ろし、ふっと薄い唇の端を吊り上げた。


「……何を慌てている。空っぽになったのなら、また満たせばいいだけだろう」

玲玉は、玉座の肘掛けに頬杖をつき、傍らに控える男へと視線を向けた。

「そうだね? ザウル」


「へへっ。御意のままに、我が王」

重臣たちが驚愕して振り返った先。そこには、天青の豪奢な朝服などではなく、砂漠の砂と泥にまみれた革鎧を纏い、右腕に黒光りする鉄のフックをつけた異国の男――ザウルが、下卑た笑みを浮かべて立っていた。


「表の道が塞がってたなら、裏から通すのが俺たち裏社会の流儀でしてね。……お偉方、外の広場を見てみな」


ザウルの言葉に導かれ、重臣たちが慌てて玉座の間の巨大な窓へと駆け寄る。

私もまた、玲玉の斜め後ろ三歩下がった定位置から、眼下の光景を見下ろした。


「おお……っ、あれは……!」

海連が、信じられないものを見るように声を震わせる。

皇宮の広大な前庭を埋め尽くしていたのは、シャフルードから国境の山脈を越えてやってきた、何百、何千という巨大な荷馬車の隊列だった。

荷馬車に積まれているのは、はち切れんばかりに詰まった最高級の小麦、岩塩、薬草、そして軍馬の飼料。煌雷の目を欺くために玲玉が四年間かけて構築し、砂漠の地下深くで莫大な富を蓄積し続けてきた『裏の密輸ルート』。

玲玉は今、その巨大な裏の血流を、天青皇国を潤す『正規の国営ルート』として、完全に表の世界へと反転させたのだ。


広場では、信じられない光景が繰り広げられていた。

「おらァ! さっさと馬車を回せ! 腹を空かせたガキ共が待ってんだ、もたもたしてんじゃねえぞ!」

入れ墨だらけの顔をしたシャフルードのならず者たちや、かつての山賊たちが、野卑な怒号を飛ばしながら次々と重い麻袋を運び出している。

その荷物を受け取っているのは、ピタリと揃った軍服を着た、天青皇国の誇り高き正規軍の兵士たちだった。


「貴様ら、乱暴に扱うな! 民への貴重な配給物資だぞ!」

長戟を手にした老将軍が、ならず者たちに厳しい檄を飛ばす。

「へっ、堅物のジジイは相変わらず口うるせえな! だったらそっちの若い衆も手ぇ貸しな! 重くて腕がちぎれそうだぜ!」

ザウルの部下の傭兵が笑いながら麻袋を放り投げると、正規軍の兵士がそれを受け止め、苦笑いしながら荷馬車へと駆け出していく。


それは、まさに『水と油の共闘』だった。

規律と名誉を重んじる天青の正規軍と、金と暴力で泥水を這いずってきた裏社会の小悪党たち。絶対に交わるはずのない二つの勢力が、ただ一人の若き覇王の采配の下で、一つの巨大な歯車として完璧に噛み合い、死に体だった大国に凄まじい熱量で血を巡らせていく。


「……凄い」

私は無意識のうちに、感嘆の吐息を漏らしていた。

暴力でねじ伏せるだけが王ではない。彼が四年間、泥水を啜り、吐き気と自己嫌悪に耐えながら築き上げたあのシャフルードの闇が、今こうして、祖国の民を救うための眩い光となっている。


「驚くのはこれからだよ、凛華」

玉座から私を見上げた玲玉が、紫水晶の瞳を優しく細めた。

「力で奪うのではなく、経済と情報で他国を支配する。……僕の本当の戦いは、ここから始まるんだ」


重臣たちは、無から有を、死から生を錬成してのけた新しき王の圧倒的な知略の前に、もはや完全に言葉を失い、深い畏敬と共に平伏するしかなかった。


* * *


帝都に少しずつ活気と平和が戻り始めるにつれ、近衛隊長に任命された私の日常も、劇的な変化を迎えていた。


煌雷の残党はザウルの情報網と魏老将軍の武力によって瞬く間に掃討され、皇宮の警備体制は盤石なものとなった。暗殺の危機は激減し、私が「剣」として物理的に刃を抜き、誰かの喉笛を掻き切る機会は、ほとんどなくなってしまったのだ。

それは護衛としては喜ばしいことのはずなのに、私の心には、手持ち無沙汰な焦燥感がじわりと広がっていた。


(私は、殿下の……陛下の覇道を切り開く剣。だが、斬るべき敵がいなくなれば、私はただの無骨な血まみれの女でしかないのではないか……?)


そんな私の不安をよそに、玲玉は公務の合間を縫って、あの決戦の夜に宣言した恐ろしい約束――『君が自分からその重い鎧を脱ぎ捨てて、ただの一人の女として僕に溺れるまで、何年でも甘く包囲し続ける』という言葉を、容赦なく実行に移し始めていた。


夜。広大な皇帝の執務室。

山のように積まれた決済書類に向かっていた玲玉が、不意に羽ペンを置き、背後三歩の距離で直立している私を振り返った。


「凛華。こっちへおいで」

「……陛下。私は護衛の任にあります。お背中をお守りしなければ……」

「この部屋には僕と君しかいない。それに、君の左肩の傷の具合を見たいんだ。おいで」


有無を言わさぬ、甘くも逆らえない王の響き。

私がためらいながら一歩近づくと、玲玉は私の腕を引き寄せ、自らの座る玉座のような豪奢な椅子の肘掛けに、半ば強引に私を座らせた。

「へ、陛下ッ!? なりません、このような真似……!」

「シーッ。動くと傷に響くよ」


玲玉の大きく、男らしい手が、私の胡服の襟元をそっと広げた。

雷覇の大剣に抉られた左肩の傷は、裏社会の強い薬のおかげで塞がりつつあったが、今も生々しい傷跡として残っている。玲玉の長い指先が、その傷跡を慰めるように、ひどく愛おしそうになぞった。


「……君のこの傷を見るたびに、僕は思い知らされるよ。僕がどれだけ無力で、君に痛みを強いてきたかを」

「違います。これは、私が陛下の剣としてお役に立てたという誇りの証です」

「なら、これからはその誇りごと、僕が君を甘やかす番だ」


玲玉の顔が近づく。

彼の放つ、沈香の深く甘い香りと、大人の男としての熱い体温が、私の五感を完全に包み込んだ。

彼の唇が、私の左肩の傷跡に、触れるか触れないかの距離でそっと落ちる。


「……っ」

傷の痛みとは全く違う、背筋が粟立つような甘い痺れが、私の身体の奥底を駆け抜けた。

心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。顔から火が出るほど熱い。私は「鉄の盾」として感情を殺そうと必死に奥歯を噛み締めるが、四年間で逞しく成長した彼から放たれる『男の情欲』は、私の心の防壁をやすやすと溶かしていく。


「君は、戦場ではあんなに恐ろしい死神なのに。……僕がこうして少し触れただけで、そんなに潤んだ目で震えるんだから。本当に、可愛くて仕方がないよ」

耳元で囁かれる、かすれた声。

彼が私を一人の女として扱い、退路を塞ぐようにじわじわと外堀を埋めてくるこの時間は、私にとって、雷覇の凶刃を躱すよりも遥かに恐ろしく、そして抗いがたい甘い拷問だった。


だが、この甘い包囲網の中で私が密かに育んでしまった「一人の女」としての淡い期待は、冷徹な政治の現実によって、無惨にも打ち砕かれることになる。


* * *


煌雷打倒から数週間が経過した、ある朝の朝議の席。

国の復興が軌道に乗り始めたことを確認した後、大蔵省の海連と、魏怜将軍が連れ立って御前に進み出た。


「陛下。帝都の血流も戻り、民も落ち着きを取り戻しつつあります。……なればこそ、早急に国の地盤を磐石なものとするため、お急ぎいただきたい儀がございます」

海連が、恭しく頭を下げる。

「陛下は御年十九。いまだきさきを持たれておりません。この血塗られた四年間を払拭し、民に新たなる平和の象徴をお見せするためにも……名門貴族の中から、美しく、清らかな姫君を『皇后』としてお迎えすべきと存じます」


その言葉が、広い玉座の間に響き渡った瞬間。

玲玉の斜め後ろ、三歩下がった定位置で黒衣の近衛隊長として直立していた私の全身の血液が、サァッと音を立てて冷え切っていくのを感じた。


「海連の申す通りです」

魏怜将軍も深く頷き、言葉を継ぐ。

「陛下の御世はまだ始まったばかり。他国を牽制し、国内の貴族たちを完全に掌握するためにも、身分高き姫君との婚姻は必要不可欠。……なにとぞ、美しく穢れなき姫君を玉座の隣へとお迎えください」


『聡明な、清らかな姫君』。

その言葉が、鋭い刃となって私の胸の奥深くに突き刺さった。


私は、微塵も表情を変えないよう、必死に顔の筋肉を殺した。だが、腰の直剣の柄を握る左手は、関節が白く浮き出るほどに、ギリギリと限界まで力を込めてしまっていた。


(そうだ。その通りだ……)


私の頭の中で、冷たく、絶望的な声が響いた。

殿下は、もうただの逃亡者ではない。天青皇国を統べる、偉大なる覇王となられたのだ。

シャフルードでサーラのような娼婦がすり寄ってきた時は、私は彼の護衛を理由に彼女らを遠ざけることができた。相手が裏社会の女であれば、私にも牙を剥く権利があると思えたからだ。


だが、今は違う。

重臣たちが求めているのは、国のために必要な「正式な皇后」。民を安心させるための、美しく、優しく、血の匂いなど欠片も知らない高貴な姫君なのだ。


私は、自らの手を見下ろした。

無数の剣ダコでいびつに固まり、傷だらけの手。その手は、これまでに何十人、何百人という人間の命を奪い、血の海を渡ってきた。雷覇の喉笛を掻き切り、厳の喉を裂き、煌雷の心臓を貫いた、どす黒い血と泥にまみれた武人の手だ。


(こんな血塗られた人殺しの女が、神聖な玉座の隣に立てるはずがない)


私は所詮、夜の闇で敵を斬り、彼の行く手を塞ぐ障害を排除するだけの道具。

彼が私を一人の女として愛してくれようと、私がこの国の皇后になることなど、彼を政治的な窮地に陥らせ、彼の価値を下げるだけの行為でしかないのだ。


身分と血の穢れ。

越えられない絶対的な壁を前に、私の心は音を立てて崩れ落ちた。

私は、ギリッと奥歯を噛み締め、女としての自分を――彼への狂おしいほどの愛情と嫉妬を、心の最も深い、暗い牢獄の底へと、自らの手で重い鍵をかけて封じ込めた。


私は剣だ。

彼を守り、彼の影として死ぬだけの、感情を持たない鋼の刃なのだ。


重臣たちの進言に対し、玲玉がどのような表情をし、どのような返答をしたのか、私の耳には全く入ってこなかった。

ただ、玉座の間の空気が、ひどく冷たく、息苦しいものに変わったことだけを感じていた。



* * *



その夜。

一日の政務を終えた玲玉の寝所。


分厚い黒曜石の扉が閉まり、部屋の中には私と彼の二人きりとなった。

最高級の絹の寝衣に着替えた玲玉は、寝室の机に置かれた少数の書類にまだ目を通している。部屋を満たしているのは、静かに燃える琥珀色のランプの光と、皇宮特有の深く甘い沈香じんこうの香りだけだ。


私は、部屋の隅で直立したまま、絞り出すように口を開いた。


「……陛下」

私の声は、自分でも驚くほど冷たく、感情の抜け落ちた武官の声だった。


玲玉の視線が書類に向けられたまま、微かに止まる。

「どうしたの、凛華」


「朝議での海連様たちの進言、もっともなことかと存じます」

私は、自らの心臓に短剣をゆっくりと突き立てるような思いで、その言葉を紡いだ。詰め襟の胡服の中で、冷や汗が背筋を伝い落ちる。


「陛下は、この国を統べる王となられました。早急に、血の匂いのしない、清らかで美しい姫君をお迎えください。……それが、国を安定させるための最善の道です」


玲玉の持つ羽ペンの先から、インクの滴がポトリと羊皮紙に落ちて黒い染みを作った。

だが、私は目を伏せ、一息に言葉を続けた。


「……皇后様がお見えになれば、私が寝所の中に留まることは許されません。明日より、私は寝所の外、回廊の影にて警護に当たります。……今宵が、最後のお傍での護衛となります」


それは、私が必死に保とうとした「剣としての誇り」の最後の防波堤だった。

同時に、大好きな彼が、私の全く知らない美しく清らかな女性に微笑みかけ、その身体を抱くようになる未来を想像するだけで、腹の底が焼け焦げるように痛む――嫉妬で狂いそうな私の心の、痛切な裏返しでもあった。

私が自ら身を引かなければ、いつかその姫君をこの剣で斬り殺してしまうかもしれない。それほどまでに、私は彼に醜く執着してしまっていたのだ。


沈黙。

パチン、とランプの油が爆ぜる音が、異常に大きく響いた。


「……」

玲玉は、書類から顔を上げず、手にしていた羽ペンを、コツンと机の上に置いた。

静かな、けれど決定的な拒絶の音。


彼は、ゆっくりと立ち上がった。

そして、足音一つ立てずに、私の目の前まで歩み寄ってくる。


見上げるほどに高く、厚い胸板を持った大人の男の圧が、私を覆い尽くす。

思わず一歩後ずさろうとした私の腕を、玲玉の大きく熱い手がギリッと力強く掴んだ。


「……で、でんか……っ」

私の声が上擦る。


玲玉は無言のまま、私の腕を乱暴に引き寄せ、そのまま私の背中を背後の分厚い石壁へとドンッと押し付けた。

逃げ場を完全に塞ぐ、威圧的な包囲。背中に伝わる石壁の冷たさとは対極に、至近距離で私を見下ろす玲玉の身体からは、むせ返るような雄の熱気が放たれている。

その紫水晶の瞳には、かつてないほどの冷酷な怒りと、すべてを焼き尽くしそうな途方もない情欲が、どす黒い炎となって渦巻いていた。


「……君は本当に、どこまでも強情で、馬鹿な剣だ」

玲玉の低く掠れた声が、私の鼓膜を容赦なく震わせた。

「僕が四年間、砂漠の泥水を啜り、裏社会で毒を盛り、人間の醜い欲望を這いずり回って、この血塗られた玉座を奪い返したのは……何のためだと思っている?」


「そ、それは……理不尽に奪われない、平和な国を……っ」

「違う!!」


玲玉の激昂が、部屋の空気をビリッと震わせた。

「どこかの知らない、綺麗な姫君を隣に座らせるためなんかじゃない。……国なんてどうでもいい。僕の世界のすべては、君だけだ」


玲玉の空いた片手が、私の武官としての象徴である、きつく結い上げられた黒髪の結び目へと伸びた。

「あっ……」

抵抗する間もなく、彼の手が髪紐を乱暴に引き抜く。

重力に従って、私の長い黒髪が滝のように肩へ流れ落ち、首筋の肌を無防備に空気に晒した。ふわりと、私特有の微かな石鹸の匂いが沈香の香りに混ざり合う。


「……君から、その分厚い『盾』や『剣』という呪いのような鎧を完全に剥ぎ取って……君を、僕の腕の中に永遠に閉じ込めるためだと言ったはずだ」


玲玉は、恐怖と動揺で固まる私の頬に自らの頬をすり寄せ、耳元で甘く、熱い吐息を落とした。

男の低い声の振動が、直接私の脳髄を痺れさせる。


「血の穢れのない、清らかな姫君なんていらない。……僕がこの四年間飲み込んできた猛毒と泥水を、知らない女になんて、僕の隣は歩けない」


彼の囁きが、私の心の最も脆い部分を真っ直ぐに抉り開けていく。

玲玉の指先が、私の震える唇を優しく、けれど逃がさないようになぞった。


「僕の皇后は、僕と同じように血に塗れ、僕の毒を一緒に飲んでくれる『共犯者』じゃなきゃ嫌だ。……どんな暗闇でも僕の背中を守り抜き、僕のためにその手を汚してくれた、世界で一番恐ろしくて愛おしい狂犬でなきゃ、絶対に嫌だ」

玲玉の瞳が、切痛なまでの愛情を孕んで私を射抜く。

「そうだろ、凛華?」


その言葉を聞いた瞬間。

私が四年間、必死に張り詰めてきた「父の呪い」。

身分の違いや、血の穢れを理由にして、彼への想いから逃げようとしていた「盾の言い訳」。

その強固な鉄の鎧が、内側から音を立てて、完全に砕け散った。


彼が欲していたのは、綺麗な王女ではない。

泥と血にまみれ、決して人には見せられない残酷な顔を持つ「私」そのものを、彼は世界のすべてを燃やしてでも手に入れようとしていたのだ。


「……っ、いや……」

私の喉の奥から、堰を切ったように、震える嗚咽が漏れ出した。

無表情を保っていた目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ落ち、玲玉の親指を濡らしていく。


「いやです……っ」

私は、今まで死に物狂いで隠し続けてきた、見苦しく、独占欲にまみれた『一人の女としての本音』を、ついに泣き叫びながら吐露していた。


「他の誰かが……貴方の隣に立つなんて……貴方に触れるなんて、嫌です……っ! 貴方の痛みも、貴方の優しさも、全部私だけのものなのに……っ。誰にも、渡したくない……!」

私は、玲玉の胸倉の絹衣を、指の関節が白くなるほど強く、強く握りしめた。

「私を……一人で外に出さないでください。どうか、ずっと貴方の傍に……私を、抱いてください……っ」


大将軍の娘としての誇りも、護衛としての矜持も、すべてをかなぐり捨てた、みっともない女の執着。

自分の弱さと醜さを晒し出した私を、玲玉は。


まるで長い長い砂漠の旅を終え、ついに探し求めていた至宝を見つけ出したような、どこまでも深く、満足げな笑みを浮かべて見つめていた。


「……やっと言ったね。凛華」


玲玉の太い腕が、私の背中と腰を抱き寄せ、自らの胸の中に深く抱きしめた。

私の嗚咽を吸い込むように重ねられた熱い唇が、ゆっくりと離れる。視界が涙で滲む中、玲玉の紫水晶の瞳が、薄暗いランプの琥珀色の光を受けて、ひどく甘く、そして逃げ場のない捕食者のような光を宿して私を見下ろしていた。


ふわり、と足元が浮き上がる。

「あっ……」

彼が私の膝裏と背中に腕を回し、いとも容易く私を抱き上げたのだ。かつては私より背が低く、華奢だったはずの少年の面影はどこにもない。硬い筋肉の質量と、揺るぎない体幹。私は抗うことすらできず、彼の腕の中で小さく身を縮めることしかできなかった。


最高級の白檀びゃくだんの香りが、むせ返るように濃く漂う。

数歩の移動。そして、重力に従って、私の背中がふかふかの絹のシーツへと沈み込んだ。皇宮の奥深くに設えられた、豪奢な天蓋付きの寝台。

身を起こそうとするより早く、玲玉の大きな影が私に覆い被さり、両腕で私の退路を完全に塞いだ。


「もう、僕の盾としての言い訳は許さないからね」


鼓膜を直接撫でるような、低く掠れた声。それは甘く響きながらも、私という存在のすべてを掌握しようとする、覇王としての圧倒的な支配力を持っていた。


玲玉の手が、私の首元へと伸びてくる。

四年間、私の皮膚のように全身を覆い、感情を殺すための鎧であった黒い胡服(軍服)。その硬い詰襟のホックと帯が、彼の手によって一つひとつ、確実に外されていく。

私の肌に触れる彼の指先には、分厚く硬い『剣ダコ』があった。夜な夜な、私の目を盗んで血を吐くような素振りを繰り返し、自らの手をいびつに変形させてまで、私をこの安全な鳥籠に閉じ込めるための力を求めた、彼の狂気にも似た愛情の証。

その無骨な指先が布地を滑るたび、私の皮膚の下で、これまで感じたことのない微弱な電流が弾けた。


「……っ、ぁ……」

胡服がはだけ、夜の冷たい空気が素肌を撫でる。

そして、彼の手が、私の最も無防備な場所――後頭部できつく結い上げていた黒髪の紐に掛かった。

スルリと紐が解かれ、重力に従って艶やかな髪が滝のようにシーツへと散らばる。武官としての「私」を形作っていた最後の輪郭が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。


「凛華……」

玲玉の熱い吐息が、露わになった私のうなじを掠めた。

ビクンと肩が跳ねる。彼の唇が、脈打つ頸動脈のすぐ傍に、焼け火箸を押し当てるように深く、重く落とされた。

逃げ場のない男の熱情に、全身の毛穴が一斉に粟立ち、呼吸の仕方を忘れたように胸が上下する。


「で、殿下……あ、陛下……っ」


私は、シーツを掴む自らの指先が情けないほどに小刻みに震えているのを止められなかった。

剣を握り、血と泥にまみれて他者の命を奪ってきた私。女であることを拒絶し続けてきた私にとって、一人の「女」として愛され、この醜い身体を暴かれることは、殺し合いの死線に立つよりも遥かに未知で、恐ろしいことだった。


「私、は……血の穢れが……っ」

雷覇の大剣に抉られ、醜くひきつれた左肩の傷跡。剣ダコで節くれだった不格好な手。

清らかな姫君とは程遠い自分の身体を恥じ、私は無意識に身をよじり、その傷を隠そうと腕を縮めた。


だが、玲玉の大きな手が、私のその震える両手をそっと、しかし絶対的な力で押さえつけた。

「隠さないで」


玲玉は、私の剣ダコだらけの手のひらを自らの唇へと引き寄せ、その硬い皮膚のひだ一つひとつに、狂おしいほどのキスを落としていく。

「この手も、その肩の傷も……全部、僕のために泥水を啜り、僕を生かしてくれた、世界で一番美しくて愛おしい証じゃないか」


「っ……あ……ぁ……」

彼の言葉が、私の張り詰めていた心の奥底に、甘い猛毒のように染み込んでいく。

玲玉の熱い唇は、私の左肩の醜い傷跡を労るように舐め上げ、鎖骨を辿り、私という存在のすべてを全肯定するように這い巡った。


恐怖や羞恥が、少しずつ、形を持たない熱い『何か』へと溶かされていく。

彼は、私が痛みや恐怖を感じないように、王としての絶対的な余裕と、サディスティックなまでの執着を持って、私の強張った筋肉の隅々までをじわじわと解きほぐしていった。


視界が白く霞み、息を吐くたびに自分の体温が異常に上昇していくのが分かる。

理性という名の堤防が決壊し、一人の女としての本能が、彼に完全に呑み込まれようとしていた。


ついに、二人の体温が重なり、境界線が完全に溶け合う瞬間。

玲玉は、私の顔の横でシーツを握りしめていた私の強ばった右手に、自らの左手を重ねた。

長い指が私の指の間へと滑り込み、決して逃がさないように、ギリッと強く十指を組み合わせる。


「痛い時は、僕の名前を呼んで」


至近距離で、アメジストの瞳が私を絡め取る。

その瞳孔の奥に揺らめくのは、四年間ずっと飢え続けてきた、私という存在への純粋で暴力的なまでの渇望だった。


「……君のすべては、僕だけのものだ」


「あ……んっ……」

彼の圧倒的な熱と重量が私を満たした瞬間、私の口から、自分でも信じられないほど甘く、無防備な声が漏れ出した。


視界の端でランプの光が滲む。

繋がれた指先から、彼と私の脈拍が完全に同期し、一つの狂おしい鼓動となって夜の闇を打ち鳴らしていく。


敵の喉笛を音もなく掻き切ってきた恐ろしい黒衣の護衛は、今、彼が与える熱と快楽の波の中で、完全にただの「一人の少女」へと陥落していた。

私の中に眠っていた、私自身すら知らなかった女としての新しい自分が、今、この天蓋の中で確かに目を覚ましていく。


「殿下……玲玉様……っ」


私は、私を愛し尽くすただ一人の王の背中に両腕を回し、その名を泣き叫ぶように呼びながら、どこまでも続く甘い地獄の底へと、自ら喜んで堕ちていった。

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