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天青の覇王と剣の乙女  作者: *しおり*
青年期

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19/24

7

皇帝の間。

交差する四つの殺意が、玉座の間の冷たい空気を限界まで圧縮し、沸騰させていた。



「死ねェッ、大将軍の模造品が!!」

煌雷の咆哮と共に振り下ろされた身の丈ほどもある大剣が、私の網膜を暴力的な速度で覆い尽くす。

かつての私なら、その圧倒的な質量を前に「盾」として真っ向から受け止め、両腕の骨ごと粉砕されていただろう。だが、私はすでにその呪いを捨て去っている。


私は大理石の床を滑るように後退し、大剣が床を砕く轟音と共に舞い上がった石の破片を、軍靴の先でさらに激しく煌雷の顔面めがけて蹴り上げた。


「チィィッ!! 薄汚い真似を!」

「私は泥水を啜って生き延びた狂犬ですから!」


目潰しの砂礫を鬱陶しげに腕で払う煌雷。その一瞬の死角に潜り込み、私は父の直剣を下から喉元へと突き上げる。

ガキィィンッ!! 煌雷が咄嗟に引いた大剣の分厚い腹に刃が弾かれ、火花が散った。強烈な反発力に腕が痺れるが、私は体勢を崩すことなく、左手に隠し持ったパリング・ダガーで彼の膝裏の装甲の隙間を狙い、泥臭い連撃を叩き込み続ける。


一方、私の背後から聞こえてくるのは、怒号すらない、異常なまでに静謐で高速な金属音の連続だった。


「……」

ガイの双剣が、音もなく空気を削ぎ、玲玉の頸動脈、眼球、心臓へと機械のような正確さで迫る。

対する玲玉は、大きく後ろへ下がることはせず、最小限の歩法だけでその必殺の刃の網の目をすり抜けていた。彼の紫水晶の瞳は、瞬きすら忘れたかのように見開かれ、骸の筋肉の微細な収縮を完全に『視て』いる。


(……一撃、二撃……次は右の返し!)

玲玉の思考が、極限の集中の中で冷たく冴え渡る。

夜な夜な手のひらから血を流し、凛華の剣の軌道を脳裏に焼き付けてきた彼にとって、感情を持たない暗殺者の「合理的すぎる動き」は、むしろ計算しやすい数式のようなものだった。


「……捕まえた」

玲玉の声が、骸の耳元で囁かれた。

骸の右の刃が玲玉の胸口を捉えようとした瞬間。玲玉はあえて身体を捻り、漆黒の衣の下に仕込んでいた分厚い革の腕当てで、その刃を深く『噛み込ませた』のだ。


「なっ……」

武器を拘束され、骸の動きがコンマ一秒だけ停止する。

その刹那、玲玉の右手に逆手で握られていたダガーが、骸の太腿の腱を正確に、そして無慈悲に貫いていた。


だが、十年前の地獄を生き抜いた暗殺者は、その程度の激痛では止まらなかった。

骸は顔色一つ変えず、肉を深く抉られる痛みを完全に無視し、残された左手の剣で玲玉の首を刎ね飛ばそうと刃を翻す。相打ちすら辞さない、狂信的で機械的な殺意。


しかし――その左腕は、玲玉の首に届く数寸手前で、ピタリと空中で不自然に静止した。


「……、が……っ!?」

骸の濁った左眼が見開かれる。腱を断たれた右脚から、どす黒い痺れが爆発的な速度で全身を駆け巡り、呼吸器と筋肉の自由を完全に奪い去ったのだ。


「痛みを恐れない駒は、動きが単調で読みやすい。……だから、あえて『痛覚を無視しても動けなくなる』仕掛けを用意させてもらったよ」

玲玉が冷酷にダガーの刃を捻り抜くと、その切っ先には、不気味な紫色の液体がこびりついていた。


「シャフルードの裏社会で使われる、砂漠の猛毒サソリから抽出した即効性の麻痺毒だ。……正々堂々とした天青の武人なら決して使わない、卑怯で泥臭い手口だよ」


感情を失っていたはずの暗殺者の喉から、初めてくぐもった苦悶の呻きが漏れた。

毒が全身の神経を焼き切り、骸は血飛沫を上げて大理石の床に崩れ落ちる。圧倒的な殺意と忠誠を持った最後の懐刀は、裏社会の闇を統べた影王の『外道な知略』の前に、指先一つ動かすことすらできず、完全に沈黙した。


「……骸まで沈めるか、若造が!!」

自らの最後の懐刀が戦闘不能に陥ったのを視界の端で捉え、煌雷の顔に凄まじい怒りの血管が浮かび上がった。

「小賢しい知略で俺の足元を崩し! 誇り高き剣を捨てて泥を這うか! 平和の泥水に浸かっていた貴様らが、国を守るためにすべてを捨てたこの俺の『武』を、越えられるはずがない!!」


煌雷の全身から、これまでとは桁違いの、どす黒い怨念のような闘気が噴き出した。

彼は私を力任せに弾き飛ばすと、玉座の間の巨大な黒曜石の柱を背にし、両手で大剣を大上段に構え直した。それは、死を悟った猛獣が最後に放つ、すべてを両断し、道連れにする渾身の絶技の構え。


「塵一つ残さず、消え失せろォォッ!!」

玉座の間を揺るがす地鳴りのような踏み込み。空間そのものを圧縮するような、回避不能の横薙ぎの暴風が、私と玲玉をまとめて粉砕すべく襲い来る。


ここで、玲玉がただの指示役であることをやめ、私を庇うように一歩、煌雷の正面へと踏み出した。


「叔父上。貴方が李淵リエンという部下を失い、国を守るために『鉄と血』の要塞を作ろうとした覚悟は、否定しない」

玲玉の、哀しみすら帯びた静かな声が、圧倒的な殺気の嵐を切り裂いて響いた。

「だが……貴方が守りたかった国は、本当にこんな、誰も笑わない血塗られた牢獄だったのか?」


「……ッ!!」


「李淵が命を賭して守りたかったのは、飢えた兵が共食いをし、民が絶望に泣く、こんな帝都だったのか!!」


煌雷の巨体が、過去の雪原に葬ったはずの亡霊の名を突きつけられ、微かに強張る。その心の隙を逃さず、玲玉はさらに、決定的な一撃となる『真実』を容赦なく叩きつけた。


「あの日、貴方が北の辺境で見捨てた李淵の妹が……平和という名の欺瞞の裏側で、どんな絶望の瞳をして弟の血がこびりついた軍服を洗っていたか! 貴方は知ろうともしなかった!」


「な……なぜ、貴様がその女を……ッ!?」

煌雷の猛禽のような瞳が、驚愕に大きく見開かれる。


「貴方が見下していた泥水の中で、僕はこの目で見たんだ! 貴方の『鉄と血』の覇道は、国を守るためなんかじゃない。ただ李淵を死なせた己の無力感と罪悪感から逃げるための、身勝手な狂気だ!!」


「黙れェェェッ!!」

己の正義の根幹を底辺の民の真実によって完全に打ち砕かれ、図星を突かれた煌雷の理性が、完全に決壊した。

大剣の軌道が、怒りによってほんの数ミリだけ大振りになり、力任せの強引なものへと歪む。


その、コンマ一秒の刹那。

玲玉は右手の袖口から、シャフルードの娼館で隠し持っていた暗器――強烈な目潰しの閃光粉を、煌雷の顔面めがけて全力で叩きつけた。


パァァァンッ!!

という破裂音と共に、強烈な閃光と刺激性の粉末が煌雷の視界を真っ白に染め上げた。

武を極めた煌雷にとって、小手先の目潰しなど致命傷にはならない。だが、玲玉の言葉によって精神を激しく揺さぶられていた彼の意識と視界を、その粉は『ほんのコンマ一秒』だけ、完全に奪い去り、大剣の軌道を停止させた。


「――もらった!!」

玲玉が自らの身体を張って作り出した、その絶対的で完璧な一瞬の『死角』。

私は、痛む左肩の限界すら置き去りにして、全速力で床を蹴った。


空気を裂く風切り音。

私の身体は、停止した煌雷の凶刃の下――死の境界線を完全にすり抜け、彼の広大な胸板の真ん中へと到達していた。


防御はない。回避も考えない。

ただ、彼の玉座への道を切り拓くための、純粋で絶対的な『殺意』という名の一直線の刃。


「……あ、」


煌雷の視界が戻った時。

私の握る直剣の切っ先は、すでに彼の分厚い胸当てを砕き、その心臓を背中まで正確に貫き通していた。


時間が、止まったように感じられた。

ズブッ、と肉と骨を断ち切る生々しい感触が、私の右手を伝って全身に響く。


「ガ、はッ……」

煌雷の口から、大量の血が溢れ出した。彼の手から力が抜け、身の丈ほどもある大剣が、ガランッと虚しい音を立てて大理石の床に転がった。


膝をつき、自らの血だまりの中に崩れ落ちていく煌雷。

彼は、薄れゆく意識の中で、目の前に立つ二人の若き姿を見上げていた。


自分が殺し、その「平和の知略」を軟弱だと全否定した兄。だが目の前の甥は、その兄の知略を『殺意』という極限まで研ぎ澄ませ、兵糧攻めと暗器という、なりふり構わぬ完璧な盤面を作り上げていた。

自分がへし折り、ただの飾り物だと嗤った大将軍の盾。だが目の前の少女は、その綺麗な盾を自ら捨て去り、最も泥臭く、最も致命的な『最強の剣』へと覚醒していた。


「……そう、か」

煌雷の口元に、自嘲するような、あるいはどこか安堵したような、微かな笑みが浮かんだ。

「兄上の……優しき知略と……大将軍の、剣。……それが、融合したと、いうのか……」


自らの信じた「鉄と血の覇道」が、二人のかつての子ども達による完全なる連携の前に敗れ去ったことを悟り。

鎮国公・煌雷は、ゆっくりと目を閉じ、二度と動かなくなった。


玉座の間に、重い静寂が降り積もる。

私は、血に濡れた直剣をゆっくりと引き抜いた。


「……ハァ……、ハァ……」


荒い呼吸が、静まり返った空間に空しく響く。

左肩の傷はとうに限界を迎え、指先は氷のように冷え切っていた。だが、その激痛とは裏腹に、私の頭の芯は奇妙なほどに白く、麻痺したように凪いでいた。


(終わった……?)


私は、剣から滴り落ちる血を見つめ、ゆっくりと顔を上げた。

視界に広がるのは、黒曜石の柱が立ち並ぶ、広大で荘厳な玉座の間。

物心ついた頃から、父に連れられて何度も足を運び、近衛として何千時間も直立して警護に当たった、私の故郷の中枢。


だが、私の五感が捉えているのは、懐かしい「帰還」の安堵ではなかった。

かつてこの空間を満たしていた、あの優雅で甘い白檀びゃくだんの香りは、微塵もしない。鼻腔を犯すのは、シャフルードの裏路地や、惨劇の夜に嗅いだのと同じ、濃厚な鉄錆と臓物の臭気だけだ。

砕けた大理石の床。無惨に転がる死体の山。


(ここは、私の知っている皇宮ではない)


私たちが血と泥を啜って帰ってきた場所は、温かな故郷などではなく、ただの「新しい戦場」の跡地でしかなかった。五年間、この日のためにすべてを捨ててきたというのに、胸に込み上げてくるのは達成感ではなく、ひどく空虚な、足元が崩れ落ちるような浮遊感だった。


カツッ、カツッ……。

背後から、静かな足音が近づいてくる。

玲玉だった。彼は血だまりを避けることもなく私の隣に立ち、そして、私の血に濡れて強張った右手を、自らの両手で包み込んだ。


「……終わったよ、凛華。君が、僕の行く手を阻む最大の敵を、斬り伏せてくれた」


彼の紫水晶の瞳が、私を真っ直ぐに見つめている。

私は、彼の手の温もりに触れても、まだ自分の直剣を手放すことができなかった。鯉口を握る指先に、無意識にギリッと力がこもる。


「……いいえ。まだ、終わっておりません」


私の乾ききった声が、玉座の間に落ちた。

玲玉の目が、微かに見開かれる。


「……殿下。貴方は安宿で、『僕が裏社会を支配すれば、君はもう剣を抜かなくていい』と仰いました。……ですが、それは違います」


私は、目の前の血に塗れた玉座を、冷たい瞳で見据えた。

「この国は、四年間も煌雷の恐怖に支配されてきました。貴方が玉座に座れば、旧体制の残党、不満を持つ貴族、そして他国の刺客が、必ずその首を狙ってきます。……武力なき正義がどれほど脆いか、私たちは村で痛いほど学んだはずです」


私はゆっくりと玲玉に向き直り、血で汚れた顔のまま、一度も崩したことのない『従者』としての完璧な姿勢で頭を下げた。


「私は、貴方の共犯者です。貴方がこの血塗られた玉座で、誰も理不尽に奪われない国を作るというのなら……私はこれからも、貴方の陰に潜み、迫り来る悪意をすべて喉笛から掻き切る『剣』であり続けます」


私の頑なな宣言。

それは、彼が私から脱がせようとしていた「鎧」を、私自身の手で再び、より強固に縛り直す言葉だった。一人の女の子として愛される未来よりも、彼を生かすための血塗られた道具であることを選んだ、私の不器用すぎる執着。


長い沈黙が落ちた。

玲玉は、私を包み込んでいた手からふっと力を抜き……やがて、喉の奥で、ひどく苦笑するような、諦めと深い愛おしさが混じった吐息を漏らした。


「……本当に。君という人は、どこまでも強情で、馬鹿な剣だ」


叱責されるかと思った。だが、玲玉の指先は私を拒絶するのではなく、私の顔にこびりついた血糊を、呆れたように、けれどどこまでも優しく拭い去った。


「分かった。……君がまだその剣を手放せないというなら、無理に奪い取ることはしない」

玲玉の紫水晶の瞳が、至近距離で私を射抜く。そこには、以前のような「僕が守るから」という焦燥感はない。大国の玉座を奪い返した、絶対的な余裕と、底知れぬ情欲が静かに燃えていた。


「その代わり、覚悟しておくことだ」

玲玉は、血で汚れた私の額に、自らの額をこつんと押し当てた。

「これからは、逃げ場のない皇宮の奥深くで……君が自分からその重い鎧を脱ぎ捨てて、ただの一人の女として僕に溺れるまで、何年でも、何十年でも、僕は君を甘く包囲し続けるからね」


「なっ……で、殿下……っ」


心臓が、先ほどの死闘とは全く違う警鐘をけたたましく鳴らした。

彼の低く甘い声と、逃れようのない男の熱。虚無感で麻痺していたはずの私の身体の奥底が、一人の女として、粟立つように微かに疼いてしまう。


「……もう殿下じゃない。『陛下』だろ? 凛華。」


玲玉が、私の耳元で悪戯っぽく囁いた、その時だった。


「おおおおぉぉぉぉッ!!」

玉座の間の巨大な扉の向こうから、魏老将軍とザウルたち、数万の反乱軍が歓声を上げながら雪崩れ込んでくる地鳴りのような足音が聞こえた。



開け放たれた巨大な黒曜石の扉から、地鳴りのような足音と怒号が玉座の間へと雪崩れ込んできた。


土埃と、鉄が擦れ合う無骨な匂い。

先頭を切って踏み込んできたのは、血と煤にまみれた長戟ちょうげきを握りしめた老将軍と、その後ろに続く数万の反乱軍、そしてザウルが率いるシャフルードの異形の軍勢だった。

殺気に満ちて飛び込んできた彼らの足は、しかし、広大な空間の中央でピタリと止まった。


雲の切れ間から差し込む、一条の眩い朝陽。

その光が真っ直ぐに照らし出していたのは、大理石の床に広がる底なしの血だまりと、その中心で物言わぬ巨大な肉塊と化した簒奪者・煌雷の姿だった。


そして、その骸を見下ろすようにして堂々と立つ、漆黒の衣を纏った若き覇王、玲玉。

その斜め後ろには、血に濡れた直剣を下げ、左肩を赤く染めながらも、彫像のように完璧な姿勢で控える私――凛華の姿があった。


「あ……」

魏老将軍の口から、掠れた吐息が漏れた。

歴戦の老将の震える手から、使い込まれた長戟がガランッと音を立てて床に滑り落ちる。彼は、信じられないものを見るように見開かれた右目で、ただ真っ直ぐに玲玉の姿を捉え……やがて、その膝から崩れ落ちるようにして、血の海に深く平伏した。


「おお……真の王が、帰還された……!」


魏老将軍のしわがれた声が、広大な玉座の間に響き渡る。その老いた頬を、とめどない感涙が伝い落ちていた。

四年間、煌雷の狂気に付き合い、誇りを泥にまみれさせながら耐え忍んできた旧体制の武官たちも、次々と武器を捨て、老将軍に倣って涙ながらに平伏していく。ザウルたちシャフルードのならず者たちも、その厳かな空気に当てられ、静かに曲刀を下げて片膝をついた。


玲玉は、自らの前に平伏す数万の兵たちを、どこまでも深く澄み切った紫水晶の瞳で見下ろしていた。


「泣くのはまだ早い、魏将軍」


玲玉の、硝子のように透き通り、しかし決して揺らぐことのない絶対的な威厳を持った声が、静まり返った玉座の間に降り注いだ。


「煌雷の残党を完全に鎮圧し、怯える民に王の交代を知らせろ。……血と恐怖で縛られた牢獄の時代は終わった。この国は、今日から僕が新しく作り直す」


「は、ははぁぁッ!! 玲玉陛下、万歳!! 天青皇国、万歳!!」


魏老将軍の血を吐くような咆哮に呼応し、数万の兵士たちの地鳴りのような歓声が、ついに皇宮の空を震わせた。


私はその圧倒的な熱狂の渦の中で、ただ一人、表情筋を殺したまま静かに直剣の血振るいを行い、鞘へと納めた。

ふと、視線を感じて顔を上げる。

歓声の中で顔を上げた魏老将軍が、真っ直ぐに私を見つめていた。その右目にある深い刀傷の痕が、朝陽を受けて柔らかく緩んでいる。


四年前。凍てつく練兵場で千本の素振りをしていた私に、彼は言った。

『お前は、亡き大将軍の呪縛……亡霊に振り回されているだけだ。将軍家の名に縛られず、一人の人間として生きる道もあるのだぞ』と。

あの時の私は、「私は盾です」と頑なに彼の手を振り払った。玲玉殿下の優しさを守るためなら、自らが呪いを被ってでも「防ぐだけの鉄の盾」であり続けるのだと、己の心を冷たく閉ざしていた。


だが、今の私はどうだ。

泥と血に塗れ、防御を捨てて自ら前に踏み込み、覇王の行く手を阻む敵を容赦なく切り裂く、最も泥臭く、最も致命的な『剣』として、この血の海に立っている。


「……凛華。お前はついに、将軍家の『盾』という亡霊から解放されたのだな」


喧騒の中、読唇術で読み取れるほどの微かな動きで、魏老将軍が目を細めてそう呟いたのが分かった。

肩の荷を下ろしたような、かつての戦友の娘に対する温かな眼差し。


だが、私はその言葉に、静かに、しかしはっきりと首を横に振った。


「いいえ、将軍。私はただ、この方と共に地獄を歩む者となるために、自らの意志で剣を握り直しただけです」


私は、斜め前を向いて立つ玲玉の広く逞しい背中を見つめながら、毅然と答えた。


「……私の戦いは、これからが本番ですから」


私のその頑なで、どこか焦燥を含んだ言葉の真意を悟ったのか。

魏老将軍は、一瞬だけきょとんとした後、(あの玲玉殿下に、すっかり囲い込まれたのだな)と内心で苦笑するように、肩を揺らして深く頷いてみせた。


玉座の間を吹き抜ける風が、血の匂いを僅かに散らし、新しい時代の冷たく清冽な空気を運んでくる。

私たちが泥水を啜って手に入れた、玉座の始まりの朝。私は、新しき王の影として、まだ疼く左肩の痛みを静かに抱きしめながら、これから始まる長い戦いへと、密かに覚悟の楔を打ち直していた。

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