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第4話 監視官・一ノ瀬凛

「待ってください、一ノ瀬さん!」


俺は両手を上げた。


左手と、化け物の右手を。


「話を、話を聞いてください!」


「聞いている」


一ノ瀬さんは、土手をゆっくりと降りてくる。刀の切っ先は、ぴたりと俺の喉元に向けられたまま、一ミリもぶれない。


「病院を出てから、君をずっと監視していた。三日間、君は人を喰わなかった。だから様子を見ていた」


三日間、ずっと。


気づかなかった。


「だが今、君は蝕の核を喰った」


「それは……!」


「蝕の核を喰うのは、蝕だけだ」


一ノ瀬さんの声は、どこまでも平坦だった。


「蝕は共喰いをする。他の蝕の核を喰らい、力を増す。人を喰うのと同じようにな。――灰島湊。君はもう、人間ではない」


人間ではない。


その言葉が、胸に突き刺さった。


さっき、自分でも思ったことだ。俺はもう、化け物なんだって。


でも、他人の口から聞かされると、こんなにも痛いのか。


『ミナト。この女は本気だ』


ヨルが、低い声で警告する。


『逃げるか、戦うか。決めろ』


逃げる? どこに。家に帰れば、小春がいる。


戦う? 特災の対策官と? 勝てたとしても、その先に何がある。


俺は、どちらも選ばなかった。


「……俺は、子どもを助けました」


一ノ瀬さんの足が、わずかに止まる。


「さっきの子、見てましたよね。蝕に襲われてた。俺は、あの子を助けたかった。それだけです」


「それは、獲物を横取りされたくなかっただけかもしれない」


「違う!」


自分でも驚くほど大きな声が出た。


「俺は……三日間、ずっと腹が減ってました。人を見るたびに、美味そうだって思った。さっき、妹を……妹を喰いそうになって、家を飛び出してきたんです」


声が、震える。


「でも、喰わなかった。喰いたくなかった。だから……蝕の核を喰ったら、腹が膨れて……これで、人を喰わずに済むって……」


何を言ってるんだ、俺は。


こんなの、言い訳にもならない。化け物の命乞いだ。


それでも、言わずにはいられなかった。


「俺は、まだ人間です。……人間で、いたいんです」


一ノ瀬さんは、何も言わなかった。


長い沈黙の後、彼女は小さく息を吐いた。


「……君の言葉が本当かどうか、私には判断できない」


そして、刀を構え直した。


「だから、確かめる」


次の瞬間、一ノ瀬さんが消えた。


違う。踏み込んできたんだ。


青白い刃が、俺の右腕めがけて振り下ろされる。


『ミナト!』


ヨルが勝手に動いた。右腕が黒く変じ、刃を受け止める。


ガキィン、と金属同士がぶつかるような音がした。


重い。


細い体のどこにそんな力があるのか、一ノ瀬さんの一撃は、俺を地面に押し潰しそうなほど重かった。


「ぐっ……!」


『この刀、やはり痛い……! ミナト、反撃しろ! このままでは押し切られる!』


「駄目だ!」


俺は叫んだ。


「ヨル、絶対に攻撃するな! 受けるだけだ!」


『なぜだ!?』


「この人を傷つけたら、俺は本当に化け物になる!」


一ノ瀬さんの目が、わずかに見開かれた。


二撃目、三撃目。俺は右腕で受け続けた。刃が黒い腕に食い込むたびに、焼けるような痛みが走る。祓弾と同じ、蝕を祓う力が刀に込められているんだろう。


四撃目で、俺の膝が折れた。


五撃目は、来なかった。


一ノ瀬さんの刀が、俺の首筋の、皮一枚のところで止まっていた。


「……なぜ、反撃しない」


「言ったでしょ。人間でいたいんです」


荒い息を吐きながら、俺は一ノ瀬さんを見上げた。


「それに、一ノ瀬さんは俺を助けてくれた。恩人を傷つけるのは、人間としてどうかと思います」


一ノ瀬さんは、黙って俺を見下ろしていた。


月明かりの中で、その表情は読めなかった。


やがて、彼女は刀を鞘に収めた。


「……立てるか」


「え?」


「立てるかと聞いている」


「あ、はい。たぶん」


よろよろと立ち上がる。


一ノ瀬さんは、コートのポケットから何かを取り出した。


手錠だった。ただし、普通の手錠ではない。青白い光の文様が刻まれた、ごつい金属の輪。


「灰島湊。特異災害対策法第十二条に基づき、君を『特異個体』として拘束する」


「……ですよね」


まあ、そうなるよな。


俺は抵抗せずに、両手を差し出した。


カチャリ、と手錠がかけられる。右手首に触れた部分が、じりじりと熱い。ヨルが、嫌そうに身をよじるのがわかった。


『ミナト、これでいいのか』


いいわけがない。でも、他にどうしようもない。


逃げても、戦っても、たぶん俺はどこかで誰かを傷つける。それなら、捕まったほうがまだマシだ。


……ただ。


「一ノ瀬さん。一つだけ、お願いがあります」


「なんだ」


「妹に、連絡させてください。裸足で家を飛び出してきたんで、たぶん、すごく心配してる」


一ノ瀬さんは、俺の足元を見た。


靴下のまま、泥だらけになった俺の足を。


少しの沈黙の後、彼女は自分のスマホを取り出して、俺の手に握らせた。


「……三分だ」


「ありがとうございます」


小春の番号を、震える指で押す。


ワンコールで繋がった。


『お兄ちゃん!? どこにいるの!? なんで急に――』


「ごめん、小春。ちょっと、急用ができて」


『急用って、裸足で!?』


「うん、まあ……その、なんていうか」


何を言えばいい。


お前を喰いそうになったから逃げた、なんて言えるわけがない。


俺は、ちらりと一ノ瀬さんを見た。


一ノ瀬さんは、何の感情も浮かべずに、こちらを見ていた。


「……面接」


『は?』


「急に、面接が入った。夜の。すごく大事なやつ」


『夜に!? 裸足で!?』


「ベンチャーなんだよ。そういう社風なんだ」


『どんな会社!?』


自分でもひどい嘘だと思う。


でも、小春は電話の向こうでしばらく黙ってから、ふっと息を吐いた。


『……わかった。なんか事情あるんでしょ。聞かないでおく』


「小春……」


『そのかわり、ちゃんと帰ってきてよね。カレー、まだ残ってるから』


鼻の奥がつんとした。


「……ああ。ちゃんと帰る」


『約束だよ』


「約束する」


電話を切る。


スマホを返すと、一ノ瀬さんは無言でそれを受け取った。


「……夜のベンチャー企業、か」


「すみません。他に思いつかなくて」


「下手な嘘だ」


「自覚してます」


一ノ瀬さんは、ほんの少しだけ――本当に、ほんの少しだけ、口の端を緩めた気がした。


気のせいだったかもしれない。


「行くぞ。……それと」


彼女は、背中を向けたまま言った。


「本部に着いたら、靴を用意させる」



◆



特異災害対策局の本部は、霞が関の官庁街の、目立たないビルの地下にあった。


エレベーターで地下深くまで降り、いくつものゲートをくぐり、俺が通されたのは、白い壁に囲まれた殺風景な部屋だった。


中央に、金属製の椅子が一脚。


天井の四隅に、監視カメラ。


壁の一面は、マジックミラーになっているらしい。


取調室、というより、実験室だ。


『嫌な場所だ』


ヨルが、ぼそりと呟く。


『ここには、蝕の匂いがたくさん染みついている。……死んだ蝕の匂いだ』


背筋が寒くなった。


俺は椅子に座らされ、手錠を椅子の肘掛けに固定された。


一ノ瀬さんは、俺を部屋に入れた後、どこかへ行ってしまった。


一人きりの部屋で、どれくらい待っただろう。


やがて、ドアが開いた。


入ってきたのは、二人の男だった。


一人は、白髪の老人。和服の上に、なぜか特災の黒いコートを羽織っている。穏やかな顔つきだが、目だけが鋭い。


もう一人は、四十代くらいの男。きっちりと撫でつけた髪、銀縁の眼鏡、隙のないスーツ。そして、俺を見る目には――はっきりとした、嫌悪があった。


汚物を見るような目。


「これが、例の特異個体か」


眼鏡の男が、吐き捨てるように言った。


「人の言葉を話す蝕など、珍しくもない。即刻、解剖に回すべきです。局長」


解剖。


その単語に、全身の血が凍った。


「まあまあ、鷹宮くん。そう急がずに」


白髪の老人――局長と呼ばれた人が、のんびりとした口調で言った。


そして、俺の前にしゃがみ込み、しわだらけの顔に人懐っこい笑みを浮かべた。


「はじめまして、灰島湊くん。わしは特異災害対策局の局長をしとる、久我という者じゃ」


「……はじめまして」


「さっそくじゃが、一つ聞かせてくれんかの」


久我局長は、俺の目をまっすぐに覗き込んだ。


その瞳の奥に、底の知れない光が宿っていた。


「――君は、人間かね? それとも、蝕かね?」

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