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第3話 喰えるもの

三日が経った。


飢えは、日に日に強くなった。


大学の講義に出ても、教授の声は耳に入らない。代わりに聞こえるのは、周りの学生たちの心臓の音だ。百人以上が詰め込まれた大教室は、俺にとって、焼肉屋の店内で空腹のまま座らされているようなものだった。


隣の席の女子が、シャーペンの芯で指を少し切った。


その、ほんのわずかな血の匂いに、俺は思わず席を立って教室を飛び出した。


トイレの個室で、三十分ほど震えていた。


『ミナト。顔色が悪い』


「……誰のせいだと思ってんだ」


『私のせいだ。すまない』


ヨルは、意外なほど素直に謝った。


この三日で、わかったことがいくつかある。


ヨルは、俺の右腕を自由に変形させられる。指を伸ばしたり、硬くしたり、刃のように尖らせたりできる。ただし、俺が許可しない限りは勝手にやらない。そういう約束をした。


ヨルは、俺の目や耳を通して世界を見ている。そして、何にでも興味を持つ。コンビニのおにぎりのフィルムの剥がし方。電車の吊り革。テレビのバラエティ番組で、なぜ人間は笑うのか。


『あの男は、なぜ頭を叩かれて笑われているんだ? 痛そうだ』


「ツッコミっていうんだよ。お約束だ」


『お約束』


「そういうもんだって、みんなが分かってることだ」


『人間は、分かっていることで笑うのか。不思議だ』


化け物のくせに、子どもみたいなやつだった。


そして何より――ヨルは、本当に人間を喰いたがっているわけではないらしい、ということ。


『私は、腹が減っているだけだ。人間を喰いたいのではない。ただ、人間がいちばん美味そうに見える』


「それを喰いたいって言うんだよ」


『そうなのか。……では、私は喰いたくない、と言っておく。お前が嫌がるなら』


その言葉に、どれだけ意味があるのかはわからない。


だが、少なくとも俺たちは、同じ方向を向いていた。


喰いたくない。でも、腹が減っている。


その矛盾だけが、どんどん膨らんでいく。



◆



その日の夜、事件は起きた。


「お兄ちゃん、指切っちゃった。絆創膏どこだっけ」


台所から、小春の声がした。


包丁で、指先を少し切ったらしい。小春が人差し指をくわえながら、居間に顔を出す。


指の隙間から、一筋、赤い血が垂れていた。


その瞬間。


世界から、音が消えた。


小春の指先の、赤い一滴だけが、くっきりと浮かび上がって見えた。


甘い。


甘い、甘い、甘い匂い。


今まで嗅いだ、どんな匂いよりも。


気づいた時には、俺は立ち上がっていた。


小春の手首を、掴んでいた。


右手で。


「お兄ちゃん……?」


小春が、きょとんと俺を見上げている。


俺の右手は、小春の細い手首を、骨がきしむほど強く握りしめていた。


その指先が、黒く染まり始めていた。


爪が、伸びていく。鋭く、鉤のように。


喰え。


頭の奥で、誰かが言った。


ヨルの声ではなかった。


もっと低くて、もっと昏くて、もっと――俺自身に近い声。


喰え。お前は腹が減っている。目の前にあるのは、世界でいちばん美味いものだ。


喰え。


「――お兄ちゃん、痛い」


小春の声が、震えた。


その一言で、我に返った。


『ミナト!』


ヨルの叫び声と同時に、俺は右手を振りほどいた。


自分の手から、自分の右腕を引き剥がすように。


「お兄ちゃん!?」


小春の声を背中に聞きながら、俺は玄関を飛び出していた。


靴も履かずに。



◆



どこをどう走ったのか、覚えていない。


気づけば、俺は川沿いの土手に座り込んでいた。


荒い息を吐きながら、自分の右手を見る。


黒く変色していた指先は、元の肌色に戻っていた。でも、指の形にくっきりと残る感触が消えない。小春の、細い手首の感触が。


「……っ、う、ぇ」


吐いた。


胃の中のものを全部吐いた。カレーも、昼に食べたコンビニ弁当も、全部。


それでも、あの飢えは消えなかった。


『……すまない、ミナト』


ヨルの声が、ひどく小さかった。


『あれは、私ではない。私は止めようとした。でも、あれは――』


「わかってる」


わかってる。あれはヨルじゃない。


あれは、俺だ。


化け物の腕を得たことで、俺の中に生まれた――いや、もしかしたら最初から俺の中にいた、何か。


妹を、喰おうとした。


十年間、守ってきた妹を。


ああ、そうか。


俺はもう、化け物なんだ。


「……ヨル」


『なんだ』


「お前、俺の右腕を、元通り切り離せるか」


ヨルは、答えなかった。


「もし俺が、お前を切り離したら。お前はどうなる。俺はどうなる」


『……私は死ぬ。お前の腕はなくなる。それだけだ』


「それで、この飢えは消えるのか」


『消えるかもしれない。消えないかもしれない。わからない』


わからない、か。


俺は空を見上げた。都会の空に、星は見えない。


川の向こうの高架を、終電間際の電車が通り過ぎていく。


どうしようか、と思った。


ヨルを切り離して、右腕のない人生を生きるか。それとも、このまま――


その時だった。


悲鳴が聞こえた。


子どもの、悲鳴。



◆



土手の下、河川敷の橋桁の陰。


小学生くらいの男の子が、尻もちをついていた。塾帰りなのか、大きなリュックを背負っている。


その前に、蝕がいた。


あの白い化け物とは違う。もっと小さい。大型犬くらいの大きさで、灰色の皮膚はひび割れ、無数の細い脚が生えていて、ムカデと蜘蛛を混ぜたような姿をしていた。


蝕が、キチキチと顎を鳴らしながら、男の子に近づいていく。


体が、勝手に動いていた。


土手を駆け下りながら、頭のどこかで冷静な自分が言う。


何をしてるんだ。お前に何ができる。武器もない。特災に連絡しろ。逃げろ。


うるさい。


目の前で子どもが喰われそうになってるんだ。


俺は、蝕と男の子の間に滑り込んだ。


「逃げろ!」


男の子が、泣きながら這うように逃げていく。


蝕が、ぎょろりと俺を見た。


頭部に並んだ、八つの小さな目。


キシャアアア、と蝕が吠え、飛びかかってきた。


速い。避けられない。


『ミナト! 右腕を寄越せ!』


ヨルが叫んだ。


考えるより先に、俺は叫び返していた。


「――やれ、ヨル!!」


右腕が、爆ぜた。


そうとしか言いようがなかった。俺の右腕の皮膚を突き破るように、真っ黒な何かが噴き出した。


それは一瞬で形を変え、一本の、巨大な刃になった。


光を一切反射しない、夜そのものを削り出したような、漆黒の刃。


飛びかかってきた蝕の体を、刃が真っ二つに切り裂いた。


手応えは、豆腐を切るより軽かった。


二つに分かれた蝕の体が、俺の左右を通り過ぎ、地面に落ちる。


灰色の体液が、河川敷の砂利を濡らした。


「…………」


俺は、自分の右腕を見た。


肩から先が、黒い刃になっていた。腕の形すらしていない。ただ、俺の肩から、二メートル近い漆黒の刃が生えている。


刃の根元に、ぱかりと口が開いた。


『うまくいったな、ミナト』


ヨルの声は、少しだけ得意げだった。


『名付けるなら――影刃(えいじん)、とでも呼ぼうか』


刃が、しゅるしゅると縮んで、元の右腕に戻る。


その時、俺は気づいた。


地面に転がった蝕の死骸。その胸のあたりに、拳くらいの大きさの、赤黒い塊が脈打っていた。


蝕の核――「核(さね)」だ。ニュースで聞いたことがある。蝕の心臓のようなもので、これを破壊しない限り、蝕は再生する。


そして。


その核から、たまらなく、いい匂いがした。


小春の血の匂いとは、違う。でも同じくらい、いや、それ以上に強烈に、俺の飢えを揺さぶる匂い。


『ミナト』


ヨルの声が、震えていた。


『……あれは、喰える』


喰える。


蝕を。化け物を。


「……喰ったら、どうなる」


『わからない。だが、私の、私たちの体が、あれを欲しがっている。人間と同じくらい――いや、それ以上に』


俺はゆっくりと、蝕の死骸に近づいた。


脈打つ核を、拾い上げる。


生温かい。どくん、どくん、と手のひらの上で震えている。


正気じゃない。


こんなものを、口に入れるなんて。


でも。


これを喰えば、小春を喰わずに済むかもしれない。


俺は目を閉じて、核にかぶりついた。


――。


言葉を、失った。


口の中で核が弾けた瞬間、全身の細胞が歓喜の声を上げた。乾ききった砂漠に、スコールが降り注いだような。三日間、いや、生まれてから一度も満たされたことのなかった場所に、ようやく何かが流れ込んできたような。


うまい。


生まれてから食べた、どんなものより。


気づけば、核は跡形もなくなっていた。


そして、あれほど俺を苛んでいた飢えが、嘘のように引いていた。


『……満たされた』


ヨルが、呆然と呟いた。


『ミナト。満たされたぞ』


「……ああ」


俺は、その場にへたり込んだ。


涙が出た。


自分でも、なんで泣いているのかわからなかった。


化け物を喰って、うまいと思った自分が情けないのか。


それとも、これで小春を喰わずに済むと、安心したのか。


たぶん、両方だ。


『泣いているのか、ミナト』


「……泣いてねえよ」


『目から水が出ている』


「汗だ」


『そうか。人間は目から汗をかくのか』


「……そうだよ。お約束だ」


『お約束か』


ヨルは、それ以上何も聞かなかった。


俺は袖で顔をぬぐって、立ち上がった。


蝕を喰えば、人を喰わずに済む。


化け物を喰って、人間でいる。


それが、俺に残された、たった一つの道らしかった。


ふと、背後に気配を感じた。


振り返る。


土手の上に、月を背にして、黒いコートの人影が立っていた。


長い黒髪が、夜風になびいている。


一ノ瀬凛が、青白く光る刀の切っ先を、まっすぐ俺に向けていた。


「――やはり、そうだったか」


その声は、氷のように冷たかった。

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