第2話 影の中の同居人
結論から言うと、俺は看護師さんを喰わなかった。
当たり前だ。当たり前なんだが、「当たり前だ」と自分に言い聞かせなければならなかった事実が、何より恐ろしかった。
俺は布団を頭までかぶり、看護師さんが医師を呼びに出ていくまで、ひたすら息を止めていた。
『なぜ喰わない?』
影が、不思議そうに聞いてくる。
「喰うわけないだろ……っ! 人間だぞ!」
布団の中で、小声で怒鳴る。
『お前も人間だ。人間は、人間を喰わないのか?』
「喰わない!」
『では、何を喰う?』
「米とか、パンとか、肉とか野菜とか!」
『肉。人間の肉ではない肉か』
「牛とか豚とか鶏だよ!」
『なるほど』
影は、本当に「なるほど」と思っているらしい間を置いた。
『だが、私はそれでは腹が膨れない気がする』
「……気がする?」
『試したことがない。私は生まれたばかりだから』
生まれたばかり。
その言葉に、俺は布団から顔を出した。
影の右腕は、ベッドの上でゆらゆらと揺れていた。こうして見ると、確かに子どもが首を傾げているようにも見える。
「お前……あの白い化け物の、一部なんだろ」
『白い化け物』
「俺の腕を喰ったやつだよ。あいつが自分で自分を喰いちぎって、その肉が俺の腕に入ってきた。……覚えてないのか」
影はしばらく沈黙した。
『覚えていない。私が覚えているのは、寒かったことと、暗かったことと――それから、お前の血があたたかかったことだけだ』
あたたかい。
意識を失う直前に聞いた、あの声。
『私は、あれの一部だったのかもしれない。だが今は違う。今の私は、お前の右腕だ』
淡々とした声だった。そこに嘘があるのかどうか、俺には判断できなかった。
そもそも化け物が嘘をつくのかどうかも、知らない。
◆
医師の診察は、拍子抜けするほどあっさり終わった。
外傷なし。骨折なし。血液検査も異常なし。
「出血はすべて、亡くなった男性のものだったようですね。ショックで気を失ったんでしょう。……怖い思いをされましたね」
医師は気の毒そうに言った。
違う。あの血は俺のだ。でも、それを言えば何が起きるか、さすがにわかる。
俺は曖昧に頷いた。
隣のおじさんが――スーツの男性が、亡くなったことも、その時に知った。
俺が見た時には、もう手遅れだったんだろう。それでも、胸の奥がずしりと重くなった。
『なぜ、お前が落ち込む? 知らない人間だろう』
頭の中で、影が聞いてくる。
うるさい、と心の中で返すと、影はそれきり黙った。
午後になって、病室に客が来た。
「特異災害対策局、一等対策官の一ノ瀬だ」
黒いパンツスーツ。後ろで一つに束ねた長い黒髪。切れ長の目。
昨夜、路地に飛び込んできたあの女性だった。
明るいところで見ると、驚くほど若い。俺と同じくらいか、一つ二つ上くらいだろう。整った顔立ちだが、表情というものがほとんどない。
「昨夜の件で、いくつか確認したい。体調は」
「あ、はい。大丈夫です。……あの、昨日は、助けていただいて、ありがとうございました」
頭を下げると、一ノ瀬さんは少しだけ眉を動かした。
「礼はいい。民間人を守るのは仕事だ。それに、一人は守れなかった」
淡々とした口調。でも、最後の一言だけ、わずかに声が低くなった気がした。
彼女はベッドの脇のパイプ椅子に腰かけ、手帳を開いた。
「単刀直入に聞く。灰島湊。君の右腕は、喰われたはずだ」
心臓が跳ねた。
「……え?」
「私は見た。あの蝕が君の右腕を肘から喰いちぎるところを」
一ノ瀬さんの目が、まっすぐ俺の右腕に向けられる。
布団の上に置いた右手。その指先が、俺の意思とは関係なく、ぴくりと動いた。
『この女、危険だ』
影の声が、頭の中で警告する。
『昨夜、私たちの……あれの体を切った刀を持っている。あれは痛かった』
わかってる、黙ってろ、と心の中で返す。
俺は、精一杯の間抜け面を作った。
「えっと……見間違い、じゃないですか? 暗かったですし。ほら、この通り、ちゃんとくっついてますし」
右手をひらひら振ってみせる。
一ノ瀬さんは、まばたきもせずに俺を見つめていた。
十秒。二十秒。
背中を冷たい汗が伝う。
「……あの蝕は、自分の体の一部を切り離して逃げた。切り離された肉片は、現場から発見されていない」
「そう、なんですか」
「何か、見なかったか」
「いえ……すみません。気を失ってたんで」
一ノ瀬さんはさらに十秒ほど俺を見つめてから、ぱたんと手帳を閉じた。
「そうか」
それだけ言って、立ち上がる。
……え、それだけ?
拍子抜けしていると、一ノ瀬さんは名刺を一枚、ベッドの脇のテーブルに置いた。
「何かあったら連絡しろ」
そして、病室のドアに手をかけてから、振り返らずに付け加えた。
「――何か、あったらな」
ドアが閉まる。
俺は、肺の中の空気を全部吐き出した。
『バレていたな』
「……バレてたな」
あれは、完全に疑っている目だった。今は証拠がないから引いただけだ。
名刺には「特異災害対策局 対策一課 一等対策官 一ノ瀬凛」とあった。
凛。名前まで冷たそうだ。
◆
その日の夕方、俺は退院した。
病院の玄関を出ると、制服姿の少女が全力で駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん!!」
体当たりのように抱きつかれて、俺はよろめいた。
「こ、小春。学校は」
「早退したに決まってるでしょ!? 警察から電話あって、お兄ちゃんが蝕に襲われて病院に運ばれたって聞いて、わたし、わたし……っ」
小春の声が震えていた。
灰島小春、十六歳。高校一年生。
俺の、たった一人の家族。
しっかり者で、口うるさくて、俺よりよっぽど大人びている妹が、俺の胸に顔をうずめて泣いていた。
十年前、両親が死んだと聞かされた時も、小春はこうやって俺にしがみついて泣いた。まだ六歳だった。
あの時、俺は決めたんだ。
こいつを、もう二度と一人にしないって。
「……ごめんな。心配かけた」
右手で、小春の頭をなでようとして――
止まった。
この右手は、もう俺のものじゃない。
化け物の手だ。
「お兄ちゃん?」
「あ、いや。……帰ろうか。腹減ったし」
俺は左手で、小春の頭をぽんぽんと叩いた。
小春は鼻をすすりながら、こくりと頷いた。
◆
家に帰ると、小春がカレーを温め直してくれた。
昨日、俺のために作っておいてくれたカレーだ。
いつもの味。じゃがいもが大きくて、ちょっと甘口の、灰島家のカレー。
一口食べて――味がしなかった。
いや、味はする。辛さも甘さも、舌はちゃんと感じている。なのに、まったく「食べた」という気がしない。砂を噛んでいるみたいに、腹の底に何も落ちていかない。
『やはり、それでは駄目なようだ』
影が、残念そうに呟く。
胃袋は満たされていくのに、もっと深いところにある何かが、ずっと空っぽのままだった。
そして、その「空っぽ」が、目の前の小春のほうへ、じわじわと引き寄せられていく。
とく、とく、と。
妹の心臓の音が、聞こえる。
「お兄ちゃん、おいしくない? 昨日のだから、ちょっと煮詰まっちゃったかな」
「……いや、うまいよ。うまい」
俺は、カレーを流し込むように食べた。三杯おかわりした。小春は「食欲あってよかった」と笑っていた。
全然、腹は膨れなかった。
その夜。
小春が寝静まった後、俺は狭い風呂場に閉じこもった。
鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらない。どこにでもいる、冴えない就活生の顔だ。
「……おい」
右腕に話しかける。
影がにゅるりと起き上がった。風呂場の電球の下で、真っ黒な腕が蛇のように揺れる。
『なんだ』
「お前、名前は」
『名前?』
「ないのか」
『ない。必要なのか?』
「必要だよ。『おい』とか『お前』とかじゃ不便だろ」
本当は、それだけじゃなかった。
名前のないものは、怖い。正体がわからないまま、自分の体の中に居座られているのが怖い。だから、せめて呼び名くらいはつけておきたかった。
影は少し考えるように揺れてから、言った。
『では、お前がつけろ』
「俺が?」
『お前の腕だ。お前がつけるのが筋だろう』
筋、なんて言葉をどこで覚えたのか。……ああ、俺の頭の中からか。
俺は少し考えた。
黒くて、影の中にいて、夜にしか本当の姿を見せない化け物の腕。
「……ヨル」
『ヨル』
「夜みたいに真っ黒だから。安直で悪いけど」
『ヨル。ヨル』
影は、確かめるように何度か繰り返した。
そして、ぱかりと割れた口の端が、ほんの少しだけ持ち上がった気がした。
『悪くない。気に入った』
「そりゃどうも」
『では、ミナト。改めてよろしく頼む』
ヨルは、黒い腕の先を、握手を求めるように差し出してきた。
自分の右腕と握手する。冗談みたいな光景だ。
俺は少し迷ってから、左手でその黒い手を握った。
冷たいかと思ったら、意外なほどあたたかかった。
『それで、ミナト』
「なんだよ」
『腹が減った』
……それが一番の問題だった。
「我慢しろ」
『している。もう丸一日している。お前もだろう』
図星だった。
カレー三杯を詰め込んだ腹の底で、得体の知れない飢えが、獣のように唸り続けていた。
時間が経つごとに、強くなっていく。
さっき、小春の部屋の前を通った時。
襖一枚向こうから聞こえる寝息に、俺は足を止めていた。
三十秒くらい、ずっと。
自分が何を考えていたのか、思い出したくない。
「……ヨル。お前、人間以外のもので、腹が膨れるものはないのか」
『わからない。だが――』
ヨルは、少しだけ言い淀んだ。
『このまま何も喰わなければ、いずれお前の理性より、飢えのほうが強くなる。それだけは、わかる』
鏡の中の俺の目が、ほんの一瞬、赤く光った気がした。




