↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/6

第2話 影の中の同居人

結論から言うと、俺は看護師さんを喰わなかった。


当たり前だ。当たり前なんだが、「当たり前だ」と自分に言い聞かせなければならなかった事実が、何より恐ろしかった。


俺は布団を頭までかぶり、看護師さんが医師を呼びに出ていくまで、ひたすら息を止めていた。


『なぜ喰わない?』


影が、不思議そうに聞いてくる。


「喰うわけないだろ……っ! 人間だぞ!」


布団の中で、小声で怒鳴る。


『お前も人間だ。人間は、人間を喰わないのか?』


「喰わない!」


『では、何を喰う?』


「米とか、パンとか、肉とか野菜とか!」


『肉。人間の肉ではない肉か』


「牛とか豚とか鶏だよ!」


『なるほど』


影は、本当に「なるほど」と思っているらしい間を置いた。


『だが、私はそれでは腹が膨れない気がする』


「……気がする?」


『試したことがない。私は生まれたばかりだから』


生まれたばかり。


その言葉に、俺は布団から顔を出した。


影の右腕は、ベッドの上でゆらゆらと揺れていた。こうして見ると、確かに子どもが首を傾げているようにも見える。


「お前……あの白い化け物の、一部なんだろ」


『白い化け物』


「俺の腕を喰ったやつだよ。あいつが自分で自分を喰いちぎって、その肉が俺の腕に入ってきた。……覚えてないのか」


影はしばらく沈黙した。


『覚えていない。私が覚えているのは、寒かったことと、暗かったことと――それから、お前の血があたたかかったことだけだ』


あたたかい。


意識を失う直前に聞いた、あの声。


『私は、あれの一部だったのかもしれない。だが今は違う。今の私は、お前の右腕だ』


淡々とした声だった。そこに嘘があるのかどうか、俺には判断できなかった。


そもそも化け物が嘘をつくのかどうかも、知らない。



◆



医師の診察は、拍子抜けするほどあっさり終わった。


外傷なし。骨折なし。血液検査も異常なし。


「出血はすべて、亡くなった男性のものだったようですね。ショックで気を失ったんでしょう。……怖い思いをされましたね」


医師は気の毒そうに言った。


違う。あの血は俺のだ。でも、それを言えば何が起きるか、さすがにわかる。


俺は曖昧に頷いた。


隣のおじさんが――スーツの男性が、亡くなったことも、その時に知った。


俺が見た時には、もう手遅れだったんだろう。それでも、胸の奥がずしりと重くなった。


『なぜ、お前が落ち込む? 知らない人間だろう』


頭の中で、影が聞いてくる。


うるさい、と心の中で返すと、影はそれきり黙った。



午後になって、病室に客が来た。


「特異災害対策局、一等対策官の一ノ瀬だ」


黒いパンツスーツ。後ろで一つに束ねた長い黒髪。切れ長の目。


昨夜、路地に飛び込んできたあの女性だった。


明るいところで見ると、驚くほど若い。俺と同じくらいか、一つ二つ上くらいだろう。整った顔立ちだが、表情というものがほとんどない。


「昨夜の件で、いくつか確認したい。体調は」


「あ、はい。大丈夫です。……あの、昨日は、助けていただいて、ありがとうございました」


頭を下げると、一ノ瀬さんは少しだけ眉を動かした。


「礼はいい。民間人を守るのは仕事だ。それに、一人は守れなかった」


淡々とした口調。でも、最後の一言だけ、わずかに声が低くなった気がした。


彼女はベッドの脇のパイプ椅子に腰かけ、手帳を開いた。


「単刀直入に聞く。灰島湊。君の右腕は、喰われたはずだ」


心臓が跳ねた。


「……え?」


「私は見た。あの蝕が君の右腕を肘から喰いちぎるところを」


一ノ瀬さんの目が、まっすぐ俺の右腕に向けられる。


布団の上に置いた右手。その指先が、俺の意思とは関係なく、ぴくりと動いた。


『この女、危険だ』


影の声が、頭の中で警告する。


『昨夜、私たちの……あれの体を切った刀を持っている。あれは痛かった』


わかってる、黙ってろ、と心の中で返す。


俺は、精一杯の間抜け面を作った。


「えっと……見間違い、じゃないですか? 暗かったですし。ほら、この通り、ちゃんとくっついてますし」


右手をひらひら振ってみせる。


一ノ瀬さんは、まばたきもせずに俺を見つめていた。


十秒。二十秒。


背中を冷たい汗が伝う。


「……あの蝕は、自分の体の一部を切り離して逃げた。切り離された肉片は、現場から発見されていない」


「そう、なんですか」


「何か、見なかったか」


「いえ……すみません。気を失ってたんで」


一ノ瀬さんはさらに十秒ほど俺を見つめてから、ぱたんと手帳を閉じた。


「そうか」


それだけ言って、立ち上がる。


……え、それだけ?


拍子抜けしていると、一ノ瀬さんは名刺を一枚、ベッドの脇のテーブルに置いた。


「何かあったら連絡しろ」


そして、病室のドアに手をかけてから、振り返らずに付け加えた。


「――何か、あったらな」


ドアが閉まる。


俺は、肺の中の空気を全部吐き出した。


『バレていたな』


「……バレてたな」


あれは、完全に疑っている目だった。今は証拠がないから引いただけだ。


名刺には「特異災害対策局 対策一課 一等対策官 一ノ瀬凛」とあった。


凛。名前まで冷たそうだ。



◆



その日の夕方、俺は退院した。


病院の玄関を出ると、制服姿の少女が全力で駆け寄ってきた。


「お兄ちゃん!!」


体当たりのように抱きつかれて、俺はよろめいた。


「こ、小春。学校は」


「早退したに決まってるでしょ!? 警察から電話あって、お兄ちゃんが蝕に襲われて病院に運ばれたって聞いて、わたし、わたし……っ」


小春の声が震えていた。


灰島小春、十六歳。高校一年生。


俺の、たった一人の家族。


しっかり者で、口うるさくて、俺よりよっぽど大人びている妹が、俺の胸に顔をうずめて泣いていた。


十年前、両親が死んだと聞かされた時も、小春はこうやって俺にしがみついて泣いた。まだ六歳だった。


あの時、俺は決めたんだ。


こいつを、もう二度と一人にしないって。


「……ごめんな。心配かけた」


右手で、小春の頭をなでようとして――


止まった。


この右手は、もう俺のものじゃない。


化け物の手だ。


「お兄ちゃん?」


「あ、いや。……帰ろうか。腹減ったし」


俺は左手で、小春の頭をぽんぽんと叩いた。


小春は鼻をすすりながら、こくりと頷いた。



◆



家に帰ると、小春がカレーを温め直してくれた。


昨日、俺のために作っておいてくれたカレーだ。


いつもの味。じゃがいもが大きくて、ちょっと甘口の、灰島家のカレー。


一口食べて――味がしなかった。


いや、味はする。辛さも甘さも、舌はちゃんと感じている。なのに、まったく「食べた」という気がしない。砂を噛んでいるみたいに、腹の底に何も落ちていかない。


『やはり、それでは駄目なようだ』


影が、残念そうに呟く。


胃袋は満たされていくのに、もっと深いところにある何かが、ずっと空っぽのままだった。


そして、その「空っぽ」が、目の前の小春のほうへ、じわじわと引き寄せられていく。


とく、とく、と。


妹の心臓の音が、聞こえる。


「お兄ちゃん、おいしくない? 昨日のだから、ちょっと煮詰まっちゃったかな」


「……いや、うまいよ。うまい」


俺は、カレーを流し込むように食べた。三杯おかわりした。小春は「食欲あってよかった」と笑っていた。


全然、腹は膨れなかった。



その夜。


小春が寝静まった後、俺は狭い風呂場に閉じこもった。


鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらない。どこにでもいる、冴えない就活生の顔だ。


「……おい」


右腕に話しかける。


影がにゅるりと起き上がった。風呂場の電球の下で、真っ黒な腕が蛇のように揺れる。


『なんだ』


「お前、名前は」


『名前?』


「ないのか」


『ない。必要なのか?』


「必要だよ。『おい』とか『お前』とかじゃ不便だろ」


本当は、それだけじゃなかった。


名前のないものは、怖い。正体がわからないまま、自分の体の中に居座られているのが怖い。だから、せめて呼び名くらいはつけておきたかった。


影は少し考えるように揺れてから、言った。


『では、お前がつけろ』


「俺が?」


『お前の腕だ。お前がつけるのが筋だろう』


筋、なんて言葉をどこで覚えたのか。……ああ、俺の頭の中からか。


俺は少し考えた。


黒くて、影の中にいて、夜にしか本当の姿を見せない化け物の腕。


「……ヨル」


『ヨル』


「夜みたいに真っ黒だから。安直で悪いけど」


『ヨル。ヨル』


影は、確かめるように何度か繰り返した。


そして、ぱかりと割れた口の端が、ほんの少しだけ持ち上がった気がした。


『悪くない。気に入った』


「そりゃどうも」


『では、ミナト。改めてよろしく頼む』


ヨルは、黒い腕の先を、握手を求めるように差し出してきた。


自分の右腕と握手する。冗談みたいな光景だ。


俺は少し迷ってから、左手でその黒い手を握った。


冷たいかと思ったら、意外なほどあたたかかった。


『それで、ミナト』


「なんだよ」


『腹が減った』


……それが一番の問題だった。


「我慢しろ」


『している。もう丸一日している。お前もだろう』


図星だった。


カレー三杯を詰め込んだ腹の底で、得体の知れない飢えが、獣のように唸り続けていた。


時間が経つごとに、強くなっていく。


さっき、小春の部屋の前を通った時。


襖一枚向こうから聞こえる寝息に、俺は足を止めていた。


三十秒くらい、ずっと。


自分が何を考えていたのか、思い出したくない。


「……ヨル。お前、人間以外のもので、腹が膨れるものはないのか」


『わからない。だが――』


ヨルは、少しだけ言い淀んだ。


『このまま何も喰わなければ、いずれお前の理性より、飢えのほうが強くなる。それだけは、わかる』


鏡の中の俺の目が、ほんの一瞬、赤く光った気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。