第1話 五十通目のお祈りメール
「このたびは弊社の採用選考にご応募いただき、誠にありがとうございました。
慎重に選考を重ねました結果、誠に残念ではございますが――」
そこまで読んで、俺はスマホの画面を消した。
続きは読まなくてもわかる。「今回はご期待に添えない結果となりました」。そして最後に「灰島様の今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます」。
通称、お祈りメール。
これで五十通目だ。
「……祈るくらいなら、採ってくれよ」
終電間際の駅のホームで、誰にも聞こえない声で呟く。
灰島湊、二十二歳。都内の、偏差値も知名度も「まあ、普通」の大学の文学部四年生。
十月。周りの同級生はほとんど内定式を終えて、卒業旅行の計画を立てている。俺の持ち駒は、ゼロ。
面接官の顔を思い出す。
『灰島さんの強みは何ですか?』
『はい、粘り強さです』
『具体的には?』
『えっと……妹の弁当を、六年間毎日作っています』
――面接官、笑ってたな。苦笑いのほうで。
でも嘘じゃない。両親が死んでから、俺は妹の小春と二人で生きてきた。祖母の家に身を寄せていた時期もあったけど、その祖母も三年前に亡くなった。今は古いアパートで兄妹二人暮らしだ。
バイトと、家事と、学業。それで手一杯の学生生活に、サークルの幹事経験も、留学経験も、長期インターンもない。エントリーシートの「学生時代に力を入れたこと」の欄は、いつも嘘っぽく見えた。
電車に揺られて、最寄りの江寺駅で降りる。
商店街のシャッターはすべて下りていて、酔っぱらいの笑い声が遠くに聞こえるだけだった。
スマホが震える。小春からのLINEだ。
『おつかれ。カレーあるよ。あっためて食べて』
『あと結果どうだった?』
少し迷ってから、打ち込む。
『だめだった』
『そっか。まあ次!次!』
『お兄ちゃんの良さがわからない会社なんてこっちから願い下げでしょ』
……妹が強い。
苦笑して、俺は『ありがとう。すぐ帰る』と返した。
近道をしようと、商店街の裏路地に入った。
それが、間違いだった。
◆
最初に気づいたのは、匂いだった。
鉄錆みたいな匂い。それから、生ゴミを煮詰めたような甘ったるい腐臭。
路地の奥、街灯の光が届かない暗がりで、何かが動いていた。
ぐちゃ。
ぐちゃ、ぐちゃ。
湿った音。
酔っぱらいが吐いているのかと思った。思いたかった。
違う。
暗がりに倒れているのはスーツ姿の男で、その上に覆いかぶさっている「それ」は、人の形をしていなかった。
白い。
異様なほど白い、ぬめった皮膚。犬のように四つん這いで、けれど背中からは骨のような突起が何本も突き出ている。頭部には目がなく、代わりに顔の半分を占める巨大な口が、男の腹に深く沈んでいた。
――蝕。
頭の中で、その言葉が勝手に浮かぶ。
ニュースで何度も聞く名前。夜に現れて、人を喰う化け物。特異災害対策局が処理し、年間数百人が犠牲になっている、この国の「日常的な災害」。
そして、十年前。
俺の両親を、喰った化け物。
「……っ」
声が出なかった。足が動かなかった。
白い化け物が、ゆっくりと顔を上げる。目のない顔が、まっすぐ俺のほうを向いた。
にちゃあ、と口が開く。
笑った、のだと思う。
次の瞬間、化け物は消えた。
違う。速すぎて目で追えなかっただけだ。
気づいた時には、目の前に巨大な白い口があった。
反射的に、右腕で顔をかばった。
ばつん。
輪ゴムが切れるような、軽い音がした。
痛みは、すぐには来なかった。
ただ、右腕が、ひどく軽くなった。
見ると、肘から先がなかった。
断面から、噴水みたいに血が噴き出していた。
「あ――」
遅れて、焼けた鉄を押しつけられたような激痛が全身を貫いた。
「あああああああああっ!!」
膝から崩れ落ちる。アスファルトに自分の血が広がっていく。
化け物は、俺の右腕を咀嚼していた。ごり、ごり、と骨を砕く音がする。
美味そうに。
――ふざけるな。
痛みと恐怖でぐちゃぐちゃになった頭の片隅で、そんな言葉が浮かんだ。
ふざけるな。父さんと母さんを喰って、今度は俺か。
俺が死んだら、小春はどうなる。
あいつはまた、一人ぼっちになる。
「ふざ、けるな……っ」
残った左手で、地面に転がっていた空き瓶を掴む。
投げつけた。
瓶は化け物の頭に当たって、ぱりんと割れた。それだけだった。
化け物が、俺の右腕を飲み込む。そして、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
死ぬ。
そう思った時だった。
「――伏せろ!」
鋭い女の声と同時に、乾いた破裂音が三発、路地に響いた。
化け物の体に、青白い光が弾ける。
「ギィィィイイイイッ!」
化け物が、黒板を引っかいたような悲鳴を上げてのけぞった。
路地の入り口から、黒いコートの人影が飛び込んでくる。長い黒髪を後ろで一つに束ねた、若い女性だった。右手に拳銃、左手には鞘に収まった刀。
特異災害対策局。特災の、対策官だ。
「対象確認、等級推定A以上! 民間人一名負傷! 至急応援を!」
女性は無線に叫びながら、刀を抜いた。
刀身が、青白く光る。
化け物と女性が交錯した。
白い化け物の背中から突き出た骨のような突起が、鞭のようにしなって女性を襲う。女性はそれを紙一重でかわし、刀を振るった。
一本、二本、三本。
骨の鞭が切り落とされ、地面に落ちてびちびちと跳ねた。
化け物が後退する。目のない顔が、女性と、俺とを交互に見た。
そして――化け物は、自分の体を引き裂いた。
「なっ……!?」
女性が目を見開く。
化け物は、自分の左前脚の付け根に、自分の牙を突き立てた。そして、ぶちぶちと嫌な音を立てて、自分の体の一部を食いちぎったのだ。
ちぎれた白い肉塊が、地面に落ちる。
その瞬間、化け物の体が膨れ上がった。いや、膨れ上がったように見えた。実際には、背中の突起が翼のように広がり、化け物は信じられない跳躍力で、ビルの壁を蹴って夜空に消えた。
「待て!」
女性が拳銃を撃つ。だが、もう届かない。
「……くそっ。自切して逃げた……? A級がそんな真似を……」
女性が悔しげに呟く。
俺の視界は、もうかすみ始めていた。
血が、足りない。
寒い。
ぼやけた視界の中で、地面に落ちた白い肉塊が、もぞりと動いた。
――え?
肉塊は、ナメクジのように地面を這っていた。俺の血だまりのほうへ。
いや、違う。
俺の、右腕の断面のほうへ。
やめろ、と言おうとした。声は出なかった。
肉塊は、俺の血だまりに触れた瞬間、色を変えた。
白から、黒へ。
墨を垂らしたような、底のない黒へ。
黒い肉塊は、するすると俺の腕の断面に這い上がり――
ずぶり、と。
中に、入ってきた。
熱い。
腕の断面が、焼けるように熱い。神経の一本一本に、熱い針金を通されていくような感覚。
声にならない悲鳴を上げた気がする。
女性が振り返るのが見えた。
「しっかりしろ! 意識を保て! 今、救急を――」
その声が、遠ざかっていく。
最後に聞こえたのは、女性の声ではなかった。
頭の内側から響く、平坦で、どこか幼い、聞いたこともない声。
『――あたたかい』
◆
目を開けると、白い天井があった。
消毒液の匂い。規則正しい電子音。
病院、だ。
「……生きてる」
掠れた声が出た。喉がからからに乾いている。
ゆっくりと記憶が戻ってくる。お祈りメール。裏路地。白い化け物。喰いちぎられた右腕。
右腕。
俺は恐る恐る、右腕を持ち上げた。
あった。
肘から先が、ちゃんとあった。
「……は?」
指を動かす。握って、開く。動く。感覚もある。傷跡ひとつない。
夢、だったのか? 全部?
いや、そんなはずはない。あの激痛も、噴き出した血も、骨を砕く音も、全部覚えている。
じゃあ、これは――
『おはよう』
声がした。
頭の内側から。
心臓が止まるかと思った。
病室を見回す。誰もいない。個室だ。カーテンは閉まっていて、窓の外は朝焼けに染まっている。
『こっちだ。下』
下?
視線を落とす。
朝日に照らされて、ベッドの上に俺の影が落ちていた。
その影の、右腕の部分が。
にゅるり、と。
持ち上がった。
影が、影のまま、立体になって起き上がっていた。真っ黒な、粘土細工みたいな腕。その先端がぱかりと割れて、口のようなものを形作る。
『私は、ここにいる』
声は、その口から聞こえた。いや、正確には、口の動きに合わせて頭の中に響いていた。
「…………」
俺は叫ばなかった。
叫べなかった、のほうが正しい。人間、本当に理解を超えたものを見ると、声すら出ないらしい。
影の口が、首をかしげるような仕草をした。
『どうした? 反応がない。言語は合っているはずだが』
「…………お前、何」
ようやく絞り出した声は、自分でも笑えるくらい震えていた。
『何、と聞かれると難しい。私にもよくわからない』
影の口は、少し考えるように揺れた。
『確かなのは、私がお前の右腕になったということだ。お前の右腕は喰われてなくなった。だから私がその場所に入った。そうしないと、私もお前も死んでいた』
「……右腕に、なった?」
『そうだ。今のお前の右腕は、ほとんど私だ。動かしているのはお前だが、作っているのは私だ。共生、というのだろう? お前の頭の中にある言葉だと』
俺の頭の中にある言葉。
こいつ、俺の頭の中を、読んでるのか。
『全部ではない。表面に浮かんでいるものだけだ。……今、お前は「気持ち悪い」と思った』
「……思ったよ。悪いか」
『悪くはない。正直なのは良いことだ』
影は、妙に素直な調子で言った。
そして、こう続けた。
『ところで、ミナト』
俺の名前を、知っている。
『腹が減った』
その瞬間。
病室のドアがノックされて、看護師さんが入ってきた。
「灰島さん、目が覚めたんですね! よかった、今先生を――」
看護師さんの声が、遠くなった。
代わりに聞こえたのは、看護師さんの首筋の、とく、とく、という脈の音。
鼻をくすぐったのは、甘い匂い。
焼きたてのパンのような、熟れた果実のような、たまらなく甘い匂い。
看護師さんの、肉の匂い。
――美味そう。
そう思った自分に、俺は心の底からぞっとした。
影の中で、ヨルと名乗る前の「それ」が、無邪気に囁いた。
『ほら。お前も、腹が減っているだろう?』




