第5話 これって内定ですか?
君は人間か、それとも蝕か。
その問いに、俺はすぐには答えられなかった。
ほんの数時間前なら、迷わず「人間です」と答えていただろう。一ノ瀬さんにも、そう言った。
でも、今は。
妹を喰おうとした。蝕の核を喰って、うまいと思った。
そんな俺が、胸を張って「人間です」と言えるのか。
「……わかりません」
正直に、そう答えた。
鷹宮と呼ばれた眼鏡の男が、鼻で笑う。
「聞きましたか、局長。自分でもわからないそうです。答えは出ているようなものだ」
「でも」
俺は、鷹宮の言葉を遮った。
「人間でいたいとは、思ってます。それだけは、はっきりしてます」
久我局長は、しばらく黙って俺の顔を見ていた。
それから、ふっと目尻を下げた。
「ふむ。正直でよろしい」
局長は立ち上がり、腰をとんとんと叩いた。
「灰島くん。君のような存在を、わしらは『混成個体』と呼んでおる。蝕に寄生された人間、あるいは人間に寄生した蝕、じゃな。……実は、前例がないわけではない」
「前例が……あるんですか」
「この七十年で、記録に残っておるのは十一例」
十一例。
俺以外にも、こんな目に遭った人がいたのか。
「その人たちは、今……」
局長は、少しだけ目を伏せた。
「十一例のうち、十例は三ヶ月以内に完全な蝕と化した。人を喰い、理性を失い、我々が処理した」
心臓が、冷たい手で掴まれたような気がした。
「残りの一例は」
「――行方不明じゃ。七十年前にな」
部屋の空気が、重く沈んだ。
鷹宮が、眼鏡を押し上げながら言う。
「つまり、この個体も遠からず人を喰う。そうなる前に処分し、研究材料にするのが合理的です。混成個体の生体サンプルは貴重だ」
『この男、嫌いだ』
ヨルが、頭の中で吐き捨てる。
同感だ、と心の中で返しながら、俺は鷹宮を睨んだ。
「俺は人を喰いません」
「十例とも、最初はそう言ったそうだ」
冷たい声。反論できなかった。
だが、局長が手を上げて鷹宮を制した。
「じゃがのう、鷹宮くん。この子は、これまでの十例とは違う点がある」
「……なんです」
「蝕の核を喰っておる」
局長は、俺の右腕を見た。
「これまでの混成個体は、皆、飢えに耐えきれずに人を喰った。蝕を喰うことで飢えを満たせると気づいた者は、一人もおらんかった。……いや、気づいても、試す前に壊れてしまったんじゃろう」
鷹宮が、苦々しげに口をつぐむ。
「灰島くん。君は、蝕を喰えば人を喰わずに済む。そうじゃな?」
「……たぶん。今のところは」
「ならば」
局長は、にこりと笑った。
しわだらけの、好々爺の笑顔。けれどその目は、獲物を値踏みする狩人のように鋭かった。
「取引をしようじゃないか」
◆
取引の内容は、こうだった。
一つ。俺は特異災害対策局の「特別協力者」として登録される。
二つ。特災の指示に従い、蝕の討伐に協力する。討伐した蝕の核は、俺が喰ってよい。
三つ。人間を喰うことは、いかなる理由があっても禁止。違反した場合、即座に処分される。
四つ。二十四時間、専属の監視官がつく。
五つ。定期的に本部で検査を受ける。
「要するに、君は蝕を狩る。わしらは君に餌を与える。持ちつ持たれつ、というわけじゃ」
局長は、楽しそうに言った。
「蝕の討伐は、人手がいくらあっても足りん。毎年、何十人もの対策官が殉職しておる。蝕を喰って強くなる協力者がおれば、ずいぶん助かる」
「局長、正気ですか!?」
鷹宮が声を荒らげた。
「化け物に化け物を狩らせるなど! いつ牙を剥くかわからない個体を、野放しにするおつもりですか!」
「野放しにはせんよ。監視官をつけると言ったじゃろう」
「誰が引き受けるというのです。こんな――」
「私が引き受けます」
ドアのほうから、声がした。
振り返ると、一ノ瀬さんが立っていた。
いつの間に入ってきたのか。いや、たぶんマジックミラーの向こうで、ずっと聞いていたんだろう。
「一ノ瀬。お前……」
鷹宮が、信じられないという顔をする。
「彼を発見し、確保したのは私です。監視も、私が責任を持って行います」
一ノ瀬さんは、表情一つ変えずに続けた。
「彼が人を喰った場合は、私が処分します。この手で」
そう言って、腰の刀の柄に手を置く。
冗談の気配は、一ミリもなかった。
局長が、ぽんと手を打った。
「決まりじゃな。一ノ瀬くんなら安心じゃ。一課のエースじゃからのう」
「……局長がそうおっしゃるなら」
鷹宮は、ギリッと奥歯を噛みしめてから、俺を睨みつけた。
「覚えておけ、化け物。少しでも妙な真似をしてみろ。その時は、局長が何と言おうと、私が貴様を切り刻んでやる」
そう吐き捨てて、鷹宮は部屋を出ていった。
乱暴に閉められたドアの音が、白い部屋に反響する。
「やれやれ。鷹宮くんは、悪い男ではないんじゃがのう」
局長はため息をつき、俺の手錠を外してくれた。
右手首が、ようやく自由になる。ヨルが、ほっとしたように身を震わせた。
「さて、灰島くん。何か質問はあるかね」
質問。
聞きたいことは山ほどあった。行方不明の十一例目のこと。あの白い化け物のこと。俺はこれからどうなるのか。
でも、口をついて出たのは、全然違う言葉だった。
「……あの、これって」
「うむ」
「内定、ですか?」
一瞬、部屋が静まり返った。
局長が、目をぱちくりさせる。
一ノ瀬さんが、かすかに眉をひそめる。
……しまった。五十社に落ち続けたせいで、つい。
「い、いえ、なんでもないです! 忘れてください!」
「ふぉっふぉっふぉ!」
局長が、腹を抱えて笑い出した。
「内定、内定か! そうかそうか、君は就活生じゃったのう!」
「すみません、本当に忘れてください……」
「いやいや、面白い。実に面白い子じゃ」
局長は目尻の涙をぬぐいながら、首を振った。
「残念ながら、内定ではない。協力者は職員ではないからの。給料も出ん」
「ですよね……」
「――保護観察だ」
一ノ瀬さんが、ぼそりと付け加えた。
保護観察。
内定ゼロの就活生、化け物になって、保護観察処分。
履歴書には、絶対に書けない。
◆
解放されたのは、明け方だった。
一ノ瀬さんの運転する黒い車で、江寺町のアパートまで送ってもらう。足には、本部で用意してもらった安物のスニーカーを履いていた。
車の中では、ほとんど会話がなかった。
ヨルも、疲れたのか黙っている。
アパートの前で車が止まる。
「ありがとうございました。……それと、すみませんでした。俺のせいで、面倒な役目を押しつけちゃって」
「押しつけられたわけではない。自分で志願した」
「なんで、ですか」
一ノ瀬さんは、ハンドルを握ったまま、まっすぐ前を見ていた。
「……君は、私の刃を受けるだけで、一度も反撃しなかった」
「それは」
「あの状況で反撃しない蝕を、私は見たことがない。だから」
少しだけ、言葉を探すような間があった。
「君の言葉を、もう少し確かめてみたいと思った。それだけだ」
それだけ、と言いながら、一ノ瀬さんは俺のほうを見なかった。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。それより」
一ノ瀬さんは、助手席の窓の外を顎でしゃくった。
「監視は二十四時間だ。今日から私も、このアパートに住む」
「……は?」
「隣の部屋が空いていたので、契約した」
「いつの間に!?」
「君が取調室にいる間に」
仕事が早すぎる。
「荷物は今日中に運び込む。何かあれば、壁を叩け。すぐに行く」
「いや、あの、でも、うち妹がいるんで、その、説明が……」
その時。
アパートの二階のドアが、勢いよく開いた。
「お兄ちゃん!!」
小春が、パジャマ姿のまま階段を駆け下りてきた。目の下に、くっきりとクマができている。一晩中、起きて待っていたんだろう。
小春は俺に飛びつこうとして――車の運転席に座っている一ノ瀬さんに気づき、ぴたりと止まった。
黒いスーツの、美人。
早朝に、兄を車で送ってきた、美人。
小春の目が、すうっと細くなった。
「……お兄ちゃん。この人、誰?」
まずい。
何がまずいのかはわからないが、とにかくまずい。
「あ、えっと、この人は、その」
一ノ瀬凛、特異災害対策局の一等対策官で、俺の監視役で、俺が人を喰ったら俺を殺す人です。
言えるわけがない。
俺が口ごもっていると、一ノ瀬さんが車から降りてきた。
そして、小春の前に立ち、軽く頭を下げた。
「はじめまして。一ノ瀬凛と申します」
よどみない口調で、彼女は言った。
「お兄さんの――会社の、先輩です」
「…………会社?」
「昨夜、急な面接があったと聞いていませんか。弊社は少々、特殊な業種でして」
一ノ瀬さんは、表情一つ変えずに続けた。
「本日付けで、お兄さんには弊社で働いていただくことになりました。研修期間中は、私が指導を担当します。住まいも隣に越してまいりますので、何かとご迷惑をおかけするかと思いますが、よろしくお願いいたします」
完璧な、営業スマイル――は、なかったが、完璧な社会人の挨拶だった。
小春は、ぽかんと口を開けていた。
それから、ゆっくりと俺を見た。
「お兄ちゃん」
「……はい」
「内定、出たの?」
俺は、一ノ瀬さんを見た。
一ノ瀬さんは、何も言わずに、小さく頷いた。
話を合わせろ、ということらしい。
「……う、うん。出た」
その瞬間、小春の顔が、くしゃりと歪んだ。
「――よかったぁ……っ!」
小春が、俺に抱きついてきた。
今度は、ためらわずに抱きしめ返した。
左腕だけで。
「よかった、ほんとによかった……お兄ちゃん、ずっと頑張ってたもんね……っ」
小春の肩越しに、一ノ瀬さんと目が合った。
一ノ瀬さんは、どこか居心地悪そうに、ふいと視線を逸らした。
『ミナト』
ヨルが、頭の中で不思議そうに言った。
『お前の妹は、泣いているのに、喜んでいる。これも、お約束か?』
……違うよ、ヨル。
これは、お約束じゃない。
嘘の内定で、泣いて喜ぶ妹を抱きしめながら、俺は誓った。
いつか必ず、この嘘を本当にしてやる、と。




