↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/5

第5話 これって内定ですか?

君は人間か、それとも蝕か。


その問いに、俺はすぐには答えられなかった。


ほんの数時間前なら、迷わず「人間です」と答えていただろう。一ノ瀬さんにも、そう言った。


でも、今は。


妹を喰おうとした。蝕の核を喰って、うまいと思った。


そんな俺が、胸を張って「人間です」と言えるのか。


「……わかりません」


正直に、そう答えた。


鷹宮と呼ばれた眼鏡の男が、鼻で笑う。


「聞きましたか、局長。自分でもわからないそうです。答えは出ているようなものだ」


「でも」


俺は、鷹宮の言葉を遮った。


「人間でいたいとは、思ってます。それだけは、はっきりしてます」


久我局長は、しばらく黙って俺の顔を見ていた。


それから、ふっと目尻を下げた。


「ふむ。正直でよろしい」


局長は立ち上がり、腰をとんとんと叩いた。


「灰島くん。君のような存在を、わしらは『混成個体』と呼んでおる。蝕に寄生された人間、あるいは人間に寄生した蝕、じゃな。……実は、前例がないわけではない」


「前例が……あるんですか」


「この七十年で、記録に残っておるのは十一例」


十一例。


俺以外にも、こんな目に遭った人がいたのか。


「その人たちは、今……」


局長は、少しだけ目を伏せた。


「十一例のうち、十例は三ヶ月以内に完全な蝕と化した。人を喰い、理性を失い、我々が処理した」


心臓が、冷たい手で掴まれたような気がした。


「残りの一例は」


「――行方不明じゃ。七十年前にな」


部屋の空気が、重く沈んだ。


鷹宮が、眼鏡を押し上げながら言う。


「つまり、この個体も遠からず人を喰う。そうなる前に処分し、研究材料にするのが合理的です。混成個体の生体サンプルは貴重だ」


『この男、嫌いだ』


ヨルが、頭の中で吐き捨てる。


同感だ、と心の中で返しながら、俺は鷹宮を睨んだ。


「俺は人を喰いません」


「十例とも、最初はそう言ったそうだ」


冷たい声。反論できなかった。


だが、局長が手を上げて鷹宮を制した。


「じゃがのう、鷹宮くん。この子は、これまでの十例とは違う点がある」


「……なんです」


「蝕の核を喰っておる」


局長は、俺の右腕を見た。


「これまでの混成個体は、皆、飢えに耐えきれずに人を喰った。蝕を喰うことで飢えを満たせると気づいた者は、一人もおらんかった。……いや、気づいても、試す前に壊れてしまったんじゃろう」


鷹宮が、苦々しげに口をつぐむ。


「灰島くん。君は、蝕を喰えば人を喰わずに済む。そうじゃな?」


「……たぶん。今のところは」


「ならば」


局長は、にこりと笑った。


しわだらけの、好々爺の笑顔。けれどその目は、獲物を値踏みする狩人のように鋭かった。


「取引をしようじゃないか」



◆



取引の内容は、こうだった。


一つ。俺は特異災害対策局の「特別協力者」として登録される。


二つ。特災の指示に従い、蝕の討伐に協力する。討伐した蝕の核は、俺が喰ってよい。


三つ。人間を喰うことは、いかなる理由があっても禁止。違反した場合、即座に処分される。


四つ。二十四時間、専属の監視官がつく。


五つ。定期的に本部で検査を受ける。


「要するに、君は蝕を狩る。わしらは君に餌を与える。持ちつ持たれつ、というわけじゃ」


局長は、楽しそうに言った。


「蝕の討伐は、人手がいくらあっても足りん。毎年、何十人もの対策官が殉職しておる。蝕を喰って強くなる協力者がおれば、ずいぶん助かる」


「局長、正気ですか!?」


鷹宮が声を荒らげた。


「化け物に化け物を狩らせるなど! いつ牙を剥くかわからない個体を、野放しにするおつもりですか!」


「野放しにはせんよ。監視官をつけると言ったじゃろう」


「誰が引き受けるというのです。こんな――」


「私が引き受けます」


ドアのほうから、声がした。


振り返ると、一ノ瀬さんが立っていた。


いつの間に入ってきたのか。いや、たぶんマジックミラーの向こうで、ずっと聞いていたんだろう。


「一ノ瀬。お前……」


鷹宮が、信じられないという顔をする。


「彼を発見し、確保したのは私です。監視も、私が責任を持って行います」


一ノ瀬さんは、表情一つ変えずに続けた。


「彼が人を喰った場合は、私が処分します。この手で」


そう言って、腰の刀の柄に手を置く。


冗談の気配は、一ミリもなかった。


局長が、ぽんと手を打った。


「決まりじゃな。一ノ瀬くんなら安心じゃ。一課のエースじゃからのう」


「……局長がそうおっしゃるなら」


鷹宮は、ギリッと奥歯を噛みしめてから、俺を睨みつけた。


「覚えておけ、化け物。少しでも妙な真似をしてみろ。その時は、局長が何と言おうと、私が貴様を切り刻んでやる」


そう吐き捨てて、鷹宮は部屋を出ていった。


乱暴に閉められたドアの音が、白い部屋に反響する。


「やれやれ。鷹宮くんは、悪い男ではないんじゃがのう」


局長はため息をつき、俺の手錠を外してくれた。


右手首が、ようやく自由になる。ヨルが、ほっとしたように身を震わせた。


「さて、灰島くん。何か質問はあるかね」


質問。


聞きたいことは山ほどあった。行方不明の十一例目のこと。あの白い化け物のこと。俺はこれからどうなるのか。


でも、口をついて出たのは、全然違う言葉だった。


「……あの、これって」


「うむ」


「内定、ですか?」


一瞬、部屋が静まり返った。


局長が、目をぱちくりさせる。


一ノ瀬さんが、かすかに眉をひそめる。


……しまった。五十社に落ち続けたせいで、つい。


「い、いえ、なんでもないです! 忘れてください!」


「ふぉっふぉっふぉ!」


局長が、腹を抱えて笑い出した。


「内定、内定か! そうかそうか、君は就活生じゃったのう!」


「すみません、本当に忘れてください……」


「いやいや、面白い。実に面白い子じゃ」


局長は目尻の涙をぬぐいながら、首を振った。


「残念ながら、内定ではない。協力者は職員ではないからの。給料も出ん」


「ですよね……」


「――保護観察だ」


一ノ瀬さんが、ぼそりと付け加えた。


保護観察。


内定ゼロの就活生、化け物になって、保護観察処分。


履歴書には、絶対に書けない。



◆



解放されたのは、明け方だった。


一ノ瀬さんの運転する黒い車で、江寺町のアパートまで送ってもらう。足には、本部で用意してもらった安物のスニーカーを履いていた。


車の中では、ほとんど会話がなかった。


ヨルも、疲れたのか黙っている。


アパートの前で車が止まる。


「ありがとうございました。……それと、すみませんでした。俺のせいで、面倒な役目を押しつけちゃって」


「押しつけられたわけではない。自分で志願した」


「なんで、ですか」


一ノ瀬さんは、ハンドルを握ったまま、まっすぐ前を見ていた。


「……君は、私の刃を受けるだけで、一度も反撃しなかった」


「それは」


「あの状況で反撃しない蝕を、私は見たことがない。だから」


少しだけ、言葉を探すような間があった。


「君の言葉を、もう少し確かめてみたいと思った。それだけだ」


それだけ、と言いながら、一ノ瀬さんは俺のほうを見なかった。


「……ありがとうございます」


「礼はいい。それより」


一ノ瀬さんは、助手席の窓の外を顎でしゃくった。


「監視は二十四時間だ。今日から私も、このアパートに住む」


「……は?」


「隣の部屋が空いていたので、契約した」


「いつの間に!?」


「君が取調室にいる間に」


仕事が早すぎる。


「荷物は今日中に運び込む。何かあれば、壁を叩け。すぐに行く」


「いや、あの、でも、うち妹がいるんで、その、説明が……」


その時。


アパートの二階のドアが、勢いよく開いた。


「お兄ちゃん!!」


小春が、パジャマ姿のまま階段を駆け下りてきた。目の下に、くっきりとクマができている。一晩中、起きて待っていたんだろう。


小春は俺に飛びつこうとして――車の運転席に座っている一ノ瀬さんに気づき、ぴたりと止まった。


黒いスーツの、美人。


早朝に、兄を車で送ってきた、美人。


小春の目が、すうっと細くなった。


「……お兄ちゃん。この人、誰?」


まずい。


何がまずいのかはわからないが、とにかくまずい。


「あ、えっと、この人は、その」


一ノ瀬凛、特異災害対策局の一等対策官で、俺の監視役で、俺が人を喰ったら俺を殺す人です。


言えるわけがない。


俺が口ごもっていると、一ノ瀬さんが車から降りてきた。


そして、小春の前に立ち、軽く頭を下げた。


「はじめまして。一ノ瀬凛と申します」


よどみない口調で、彼女は言った。


「お兄さんの――会社の、先輩です」


「…………会社?」


「昨夜、急な面接があったと聞いていませんか。弊社は少々、特殊な業種でして」


一ノ瀬さんは、表情一つ変えずに続けた。


「本日付けで、お兄さんには弊社で働いていただくことになりました。研修期間中は、私が指導を担当します。住まいも隣に越してまいりますので、何かとご迷惑をおかけするかと思いますが、よろしくお願いいたします」


完璧な、営業スマイル――は、なかったが、完璧な社会人の挨拶だった。


小春は、ぽかんと口を開けていた。


それから、ゆっくりと俺を見た。


「お兄ちゃん」


「……はい」


「内定、出たの?」


俺は、一ノ瀬さんを見た。


一ノ瀬さんは、何も言わずに、小さく頷いた。


話を合わせろ、ということらしい。


「……う、うん。出た」


その瞬間、小春の顔が、くしゃりと歪んだ。


「――よかったぁ……っ!」


小春が、俺に抱きついてきた。


今度は、ためらわずに抱きしめ返した。


左腕だけで。


「よかった、ほんとによかった……お兄ちゃん、ずっと頑張ってたもんね……っ」


小春の肩越しに、一ノ瀬さんと目が合った。


一ノ瀬さんは、どこか居心地悪そうに、ふいと視線を逸らした。


『ミナト』


ヨルが、頭の中で不思議そうに言った。


『お前の妹は、泣いているのに、喜んでいる。これも、お約束か?』


……違うよ、ヨル。


これは、お約束じゃない。


嘘の内定で、泣いて喜ぶ妹を抱きしめながら、俺は誓った。


いつか必ず、この嘘を本当にしてやる、と。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。