第9話 森の主は、強すぎた
「木野係長ー! 聞こえますかー!」
夢の中で、聞き慣れた声がした。冥界のあの若い部下だ。
「聞こえてる。……どうした、そんなに小声で」
「実は部長が、係長は出張中ってことにしてごまかしているんですけど、出張の書類が見当たらないって他の課から突っ込まれていて……。監査が入るかもしれません。あ、部長には内緒で連絡しています……」
「監査?」
「はい。出張がでっち上げだと上にバレたら、部長、降格どころじゃ済まないかもって。取消の届出を出しても、どのみち監査が入りますし」
「……なるほど。それで部長は取消に前向きじゃないのか」
「たぶん……あ、いえ、僕の口からは!」
部下の声がだんだん震えていく。
「僕、少しずつ係長の仕事を片付けてるんですけど……。係長、こんなに仕事抱えてたんですね」
「…………」
胸がきゅっと縮んだ。俺が突然いなくなって、一番しわ寄せを受けているのはこの子だ。
「……すまない」
「え?」
「迷惑をかけた。ずっと気になってた。無理はしないでくれ」
「め、迷惑なんかじゃないです! 僕、係長にずっと助けられてきたので……! あ、部長が来ました! 切ります!」
ぷつん、と夢が途切れた。
目を覚ますと胸の奥に重いものが残っていた。早く何かを成し遂げなければ。そんな焦りがうっすらと芽生えていた。
「昇格依頼、ですか?」
翌朝のギルドで、バルトが三人を呼び止めた。
「ああ。お前たちの噂が広まってる。小鬼討伐の評価も高い。そこで一気にDランクへの昇格依頼だ」
掲示板に一枚の紙が貼られていた。
【昇格依頼:森の主・大角鹿の討伐 推奨ランク:D以上】
「大角鹿……」
リッカが息をのんだ。
「森の奥にいる主みたいな魔物だ。角が大きくて、突進が危険だ。……正直、Fランクに出す依頼じゃない。ただお前たちならいけると思う」
バルトは少し迷うように無精ひげを撫でた。
「ただし無理はするな。情報を集めてから行け。突進の速さとかな」
リッカが小さくつぶやいた。
「……Eランクになったら報酬が増えますよね。そしたら母に仕送りが」
その声があまりに小さくて、あまりに切実だった。
俺はネクタイに触れた。「念のため」の準備をする性格のはずだった。でも小鬼の成功と、夢で聞いた部下の声が、頭の中で焦りを押し出していた。
「……準備は十分だと思います。現地で様子を見てから決めましょう」
バルトが一瞬、何か言いたそうな顔をした。でも結局「そうか」とだけ言った。
ルカは黙ってうなずいた。
森の奥へ入る。奥に進むほど木が太く、空気が重くなる。鳥の声も少しずつ遠ざかっていく。
「……いますね」
ルカが杖を構えた。
開けた場所の中央に、一頭の鹿が立っていた。巨大だった。馬ほどの体。枝分かれした角は木の枝のように広がっている。赤い目がこちらを見据えていた。
「あれが森の主……」
ごくり、と誰かの喉が鳴った。
「リッカ、ルカ。合図は覚えていますね」
「はい」
「分かっています」
「まずルカが足元を水で固めて動きを止める。リッカは横から入って後ろ足を狙ってください。角には絶対に正面から当たらないでください」
「はい!」
三人でそっと茂みから出る。
大角鹿が鼻を鳴らした。
その瞬間、地面が爆ぜた。
突進だった。
「速い!」
想像の倍は速い。ルカの水が間に合わない。巨大な角がリッカの目の前に迫る。
「行きます!」
リッカが木槌を構えて、角を受け止めた。
ガキィィン!
衝撃でリッカの足が地面に沈む。
「っ……重い……!」
「リッカ、耐えて! ルカ、今です!」
「水よ! 大地を捕らえ、その蹄を縛れ!」
ルカの杖から水が溢れた。大角鹿の足元が泥の沼に変わる。蹄がずぶりと沈む。
「いまだ、リッカ!」
「うりゃあああああ!」
リッカが木槌を全力で振り上げた。
しかしその時。
木槌の柄から嫌な音がした。
ミシッ。
「あ……」
リッカの顔が青ざめる。木槌が限界を迎えていた。このまま振り下ろしたら折れる。
「リッカ、待って! それ以上振らないで下さい!」
だが遅かった。
バキィィン!
木槌の柄が真ん中から折れた。振り抜いた勢いのまま、リッカの体が前のめりに崩れる。
「あっ――」
泥から足を引き抜いた大角鹿が、その背中に角を叩きつけた。
ドガッ!
「リッカ!!」
小さな体が宙を舞った。地面を二度、三度と転がって、木の根元で止まる。
「う……っ」
生きている。鎧のおかげだ。でも右肩を押さえて顔を歪めている。
頭が真っ白になった。
足が動かない。喉が凍りついている。冥界の書類は、どれだけ間違えても誰かが血を流すことはなかった。
「キノさん!」
ルカの声で我に返った。
「撤退を! 指示を!」
「…………っ、撤退です! ルカ、水で目くらましを!」
「……っ、水よ!」
ルカが杖を振る。霧のような水が広がって、大角鹿の視界を覆った。
その隙に俺はリッカを抱え起こして走った。小柄なのに、鎧のせいでずっしり重い。腕ががたがたと震えていた。
「キノさん、ごめんなさい……私が、武器を……」
「喋らないで! 走って!」
強い声が出た。出してしまってから後悔した。リッカはぎゅっと口を結んで、何も言わなくなった。
ギルドの医務室で、リッカの右肩に包帯が巻かれた。
「骨は大丈夫だ。二日も安静にしてれば動かせるようになる」
治療師はそう言って部屋を出ていった。
「よかった……」
リッカがベッドの上でほっと息をついた。それから俺を見て、困ったように笑った。
「キノさん、そんな顔しないでください。私、ほんとに大丈夫ですから。えへへ」
「…………」
笑って気遣われた。彼女のほうが年下なのに。
「……リッカ。すみませんでした」
「え?」
「私の判断ミスでした。バルトさんに情報を集めてから行けと言われて。それを聞かなかった。焦っていました。……全部、私の判断です」
声がかすれた。言ってしまうと少しだけ楽になった。でも胸の奥の重さは消えなかった。
部屋の隅で、ルカが壁にもたれて立っていた。
「……私の水が遅かったんです」
「ルカ」
「足止めが間に合っていれば。あの突進を止められていれば」
ルカはこちらを見ずに言った。
「言っておきますが、悪いのは私です。あなたの判断が、とか、そういう話じゃありません。私が遅かった。それだけです」
毒舌のルカが、自分に毒を向けている。
その横顔は、いつもの冷たさとは少し違って見えた。




