第4話 猪と大木
現れたのは、牛ほどの大きさの猪だった。牙が異様に長い。赤く光る目。鼻息で落ち葉が舞う。
「大牙猪……! Dランクの魔物です! どうして、こんな浅いところに……!」
リッカの顔から血の気が引いた。Fランクが戦える相手じゃない。
「逃げましょう!」
「は、はい!」
走る。だが猪の足のほうが圧倒的に速い。ずしん、ずしん、がどんどん近づいてくる。
「リッカ、剣で! 少しでいい、足止めを!」
「やってみます!」
リッカが振り向きざまに剣を振る。
カァン!
剣は牙に弾かれて、くるくると宙を舞い、地面に突き刺さった。
「あ…………」
あの剣は村の鍛冶屋にもらった餞別だと、昼に聞いたばかりだった。丸腰のリッカの前で、猪が前足を掻く。次の瞬間、標的が変わった。リッカの後ろにいた、俺だ。
「えっ、俺ですか!?」
体が動かない。逃げ遅れた。事務職の脚力を舐めてはいけない。
牙が迫る。
ゴガァァン!
猪の突進は俺の真横の大木をかすめた。大木が根元からメキメキと折れる。倒れてくる幹の影が、俺をすっぽり覆う。
ああ。転生して二日目で、もうここまでか。
「キノさんっ!!」
その声と同時に、小さな影が飛び込んできた。リッカが倒れてくる幹を両手でガシッと掴んで――
持ち上げた。
「…………は?」
幹の太さは、大人二人でも抱えきれない。それを小柄な十六歳が、両手で軽々と。
時間が、止まった。
森が、静かになった。猪も、一瞬、動きを止めた。
「キノさんに、手を出すなぁぁぁ!!」
ブォンッ!
空気が悲鳴を上げた。幹が豪快な弧を描き、猪の横っ面に叩きつけられる。
ドゴォォォォンッ!!
猪が、飛んだ。
比喩じゃない。十メートル、宙を舞った。木の葉みたいに、くるくると。
ドサッ。
沈黙。
土煙の向こうで、リッカが折れた大木を握ったまま直立していた。
「…………え?」
えっ、じゃない。今のは何だ。
「あの、キノさん。私、いま、何を」
「木で、猪を、ホームランしました」
「ほーむらん?」
通じなかった。この世界に野球はない。けれど次の瞬間、リッカの手が小さく震え始めた。
「……軽いんです。木なのに。重いはずなのに、全然、重くなくて。……ずっと、何かが足りなかったのに。これ、手に、ちゃんと」
声がかすれた。さっきまでの笑いが、すっと引いた。
頭上の履歴書の「?」が、ほんの一瞬、揺らめいた気がした。
……そうか。
「SSでも、武器ごとに適性があるのか……!」
才能の大きさは分かる。でも、それがどんな武器で発揮されるかは、履歴書には書いていない。リッカのSSは、剣じゃなかった。大きくて重い、ぶん回せるもの。
「リッカ」
俺はできるだけゆっくり言った。
「それです。今の、それ」
「……え? それ、って、木、ですか?」
リッカがきょとんと幹と俺を見比べた。
「木、というより。大きくて重いものを、そうやって振り回すこと。それが、リッカに合った戦い方なんだと思います」
「戦い方……? あの、ずっと、剣でやってきたんですけど」
「剣は、リッカの力に合っていなかったんです。力が足りなかったんじゃなくて、力の出し方に合う武器じゃなかった」
「…………」
リッカはしばらく黙った。
「……そんな、簡単なことで、ですか?」
「簡単かどうかは、分かりません。でも、さっき、『軽い』と言いましたよね。剣のときは、どうでしたか」
「……軽くなかったです。いつも、力が空回りしてるみたいで」
「でしょう。今回は、違った」
「……」
リッカはおそるおそる幹を握り直した。そして、ぶん、と軽く振ってみた。
ブォン。
空気が重く鳴る。
「…………わ」
「どうですか」
「軽い。やっぱり、軽いです。……でも、ちゃんと、手に、残ってます。この感じ」
リッカの頬が、じわじわと緩んでいく。
「え、え、これ、もしかして、私、すごく、強い……?」
「さっき、猪を飛ばしましたよ」
「そ、そうでした!」
ぶん、ぶん、ぶん!
嬉しそうに幹を振り回し始めた。小柄な少女が、大木を鼻歌まじりに。木の葉がぱらぱらと降ってくる。
「リッカ、危ない、危ないです! それ、私にも当たります!」
「あっ、すみません! でも、楽しくて! えへへへへ!」
可愛いのに、物理的な危険度は猪より高い。そのうちリッカの動きがぴたりと止まった。
「……あの、キノさん」
「はい」
「私、三か月、何をやっても、だめで。村の人にも、期待して送り出してもらったのに。……だから、ずっと、私が悪いんだって、思ってて」
声が少し震え始めた。
「悪くなかったんですか。私」
「悪くないです。武器を、間違えていただけです」
「…………」
リッカの目に、じわっと涙が溜まった。
「あ、あれ。嬉しいのに、なんで……。すみません、ちょっと、待ってください……」
慌てて袖で拭うのに止まらない。俺は何も言えなかった。ただ、ハンカチを差し出した。冥界から持ってきた数少ない持ち物だ。
「……ありがとう、ございます」
リッカはハンカチに顔を埋めて、しばらくそのままだった。
*
帰り道。夕日の中を並んで歩いた。リッカは折れた幹を肩に担いだままだった。
「あの、キノさん」
「はい」
「どうして、最初から、信じてくれたんですか。私のこと」
俺は少し迷って、正直に言った。
「正直、私にも、分かっていなかったんです。あなたに何かすごいものがあるのは感じていました。でも、それが何なのかは、さっきまで」
「……そうなんですか」
「はい。……すみません」
「謝らないでください。キノさんが組んでくれなかったら、私、今日、ここにいなかったので」
彼女は鼻をすすって笑った。さっきまでの笑顔とは少し違った。
夕日の中で、小柄な少女が木の幹を肩に担いで歩いていく。シュールな光景だった。
でも、悪くない。




