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第11話 水が守るもの

 夜の森は、昼とは別の顔をしていた。


 月明かりの下、俺たちは大角鹿のいる開けた場所へ向かった。バルトからもらった情報は、紙に書き出して頭に入れてある。


「突進の前に右の前足で地面を掻きます。突進のあとは必ず一度立ち止まります。泥に足を取られると、立て直しに時間がかかる。……以上です」


「なるほど。つまり足止めを先に置いておけばいい、ということですね」


 ルカが静かに言った。


「そうです。後出しではなく、先出しです。ルカ、泥の沼を前もって広い範囲に作れますか」


「……時間さえあれば。悪くない発想です。あなたにしては」


「ありがとうございます」


「褒めていません」


 リッカが、肩に担いだ大きな槌をぎゅっと握り直した。バルトが倉庫から出してきた、鉄で補強された工事用の大槌だ。


「バルトさんが、一晩だけ貸してくれました! 柄が鉄芯入りですっ!」


「一晩しかもたないかもしれません。ですから、一撃で動きを止めます」


「はいっ!」


 そう答えるリッカの声が、少し硬い。前回飛ばされた記憶が、まだ体に残っているのだろう。


 開けた場所の手前で足を止める。


「……キノさん」


 ルカが俺の手元を見ていた。


「ネクタイ、さっきから三回直していますよ」


「……気づいていましたか」


「毒舌のネタが一つ増えただけです」


 ルカはそっぽを向いたまま言った。


「……震えているなら、震えたまま指示を出してください。この子はあなたの声を聞いて動きます。私も」


 それだけ言って、ルカは杖を握り直した。


 不器用な励ましだった。でも胸の奥の硬いものが、ほんの少しほぐれた。


「ルカ、今のうちにお願いします」


「分かっています」


 ルカが杖で地面を突くと、手前の一帯がじわりと泥に変わった。


 その時、茂みの向こうからうめき声が聞こえた。木の陰に三人の冒険者が倒れていた。鎧が砕け、動けずにいる。


 その先で、大角鹿が怒りの咆哮を上げていた。倒れた三人に向けて角を低く構える。右の前足が地面を掻いた。突進の予備動作だ。


「間に合わない……!」


 リッカが叫んだ。


「水よ――!」


 ルカは鹿を止めようとはしなかった。倒れた三人と大角鹿の間に、巨大な水の壁を立ち上げたのだ。


 世界が青く染まった。


 ドォォン!


 突進が水の壁にぶつかった。壁が揺れ、水しぶきが月光を砕いて飛び散る。


「ぐっ……!」


 ルカの膝が折れそうになる。


「ルカ!」


「……いいから! これは私の仕事です!」


 歯を食いしばって、杖を握りしめる。


 倒れていた男が目を開けた。


「……ルカ、お前……」


「勘違いしないでください。助けに来たんじゃありません。そこで寝てられると邪魔なんです」


 ルカは冷たく言い放った。声は震えていた。


 俺は息を吸った。足の震えはまだある。でも声は出る。


「リッカ、鹿は突進のあと止まります! 右から回って、前足をお願いします!」


「はいっ! 行きますっ!!」


 水の壁にぶつかって、大角鹿が動きを止めた。その足が、ルカが先に作った泥にずぶりと沈む。バランスを崩した。


 リッカが跳んだ。


 鉄芯入りの大槌が月光を受けて鈍く光る。


 一拍。


 次の瞬間、森が鳴った。


「えいやあああああっ!」


 ドゴォォォォォン!!


 大角鹿の前足がへし折れた。巨体が地面に倒れ込む。


「ルカ、とどめをお願いします!」


「……穿て!」


 水の刃が大角鹿の首筋を貫いた。


 静寂が戻った森に、荒い息遣いだけが響いていた。


 俺はその場にへたり込んだ。膝ががくがくと笑っている。成功した。誰も死ななかった。それだけのことが、こんなにも体に響く。


 倒れていた三人が地面に座り込んでいる。青ざめた顔でこちらを見ていた。


 リーダー格の男が、ゆっくりルカの前に立った。


「……すまなかった」


 ルカの肩が小さく揺れた。


「お前を追い出したことも。助けてくれたことも」


「…………」


「お前の水魔法がなかったら、俺たちは死んでた。回復役がいないなんて、くだらないことを言って悪かった」


 ルカはしばらく黙っていた。それから小さく息を吐いた。


「……次は、もう少しまともな人たちと組みなさい」


 そう言って、ふいと背を向けた。その背中が、わずかに震えていた。


 俺は何も言わずに、少し離れた場所で待った。今声をかけるべきは、俺ではない。


 リッカがルカの隣に走っていった。大槌を地面に置いて、そっとルカの袖を掴む。


「ルカさん。かっこよかったです」


「……そう」


「泣いてますか?」


「泣いてません」


 ルカの声はもう毒を含んでいなかった。ただ、少し濡れていた。


「……リッカ。ありがとう」


「え?」


「あなたが、あの日、私の水があったから逃げられたと言ってくれたこと。……嬉しかったんです」


 リッカが目を丸くして、それからぱあっと笑った。


「えへへ!」


 ルカがゆっくりこちらを向いた。目が赤かった。


「キノさん。……ありがとう」


 それは、初めて聞くルカの素直な声だった。


「……こちらこそ」


 それしか言えなかった。ネクタイを直そうとしたが、手が震えていて、結局握りしめただけだった。


 ルカが小さく笑った。


「……また直してますね」


「今は、震えているだけです」


「分かっています」


 その笑顔は、毒の欠片もない柔らかい笑顔だった。

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