並の片づけと並の夜
出発の前日、リアロマは朝から店を片付けた。
預かり物は全部返し終えていた。桶を干し、洗濯板を拭き、干し場の紐を点検する。貝殻が並んでいる石畳の隙間も、一つ一つ確かめた。どれも並の状態だ。
荷造りは、思ったより時間がかからなかった。
着替えが数枚、仕事道具が少し、お茶の葉が少し。それだけだ。カイルが「馬車に積める荷物はいくらでも」と言ったが、余分なものは要らない。清潔なものだけ、必要なものだけ。それが並の荷造りだった。
昼過ぎ、ゼノが顔を出した。
「明日の出発、朝の五つ時に門前に集合です。馬車はこちらで用意します」
「わかりました」
「……荷物は、それだけですか」
ゼノがリアロマの小さな鞄を見た。
「十分ですよ」
「私は馬車一台分になりそうです」
「何を持っていくんですか」
「測定器が四台と、観察記録のノートが十二冊と、参考文献が」
「ゼノ様」
「はい」
「王都にも本屋はありますよ」
ゼノが黙った。
「……善処します。あ、そうだ。魔導洗濯機の件ですが」
「なんですか」
「カイル様が領主事業として正式に動かすことになりました。マーサ殿のご主人の空き店舗を使って、明後日から稼働します。調整も、出発までに間に合いました」
「そうですか。それは良かったです」
「リアロマ殿がいない間も、シズナの洗濯は大丈夫です」
リアロマは干し場の紐を一本、指先で確かめた。
「ゼノ様が丁寧に作ってくれましたから」
ゼノが少し照れた顔をしてから、「善処します」と言って帰った。
夕方、リアロマが干し場を最後に確認していると、路地から足音が来た。
全速力ではなかった。
テオだった。泥はいつも通りだったが、今日は走っていない。五メートルの手前で止まって、リアロマを見た。
「明日、出かけるって聞いた」
「ええ。しばらく、王都の方へ」
「しばらくって、どのくらい」
「……わかりません。でも、戻ってきますよ」
テオが少し考えてから、うん、と言った。
「じゃあ、土産話持ってきて」
「土産話?」
「なんか珍しいもん見てきて。王都ってでっかいんでしょ」
「そうらしいですね。行ったことがないのでわかりませんが」
「リアロマさんでも知らないとこあるんだ」
「そりゃありますよ」
テオが、ふと干し場の貝殻を見た。石畳の隙間に並んでいる、自分が洗ってきたやつだ。
「……あれ、置いてくの?」
「ここにいてもらいます。店を見ていてもらわないといけませんから」
テオがそれを見てから、リアロマを見た。それから、また走り出した。来た時と同じ全速力で、路地の奥へ消えていった。振り返らなかった。
リアロマは貝殻を一つ、指先で軽く触れた。並の仕上がりのまま、そこにあった。
夜、カイルが来た。
書類は持っていなかった。両手が空だった。
「明日のことは、ゼノから聞いたか」
「聞きました」
「何か、不安なことはあるか」
リアロマは少し考えた。
「王都の空気が汚れていないか、気になります」
「……それだけか」
「それが一番気になります」
カイルが小さく笑った。それからしばらく、二人で並んで店の中を見ていた。片付いた桶、拭かれた洗濯板、空になった干し場。いつもと変わらない店だ。ただ、荷物がない。
「……世話になった」
「クリーニング代は、ちゃんといただきましたよ」
「そういう意味ではない」
「知っています」
「この店は騎士団が見回る。安心してほしい」
「助かります」
カイルが出ていった。
リアロマは店の戸締まりをした。
窓を閉める。桶を伏せる。洗濯板を壁に立てかける。お茶の道具を棚に戻す。一つ一つ、いつも通りの順番でやった。最後に、看板を外して店の中にしまった。
静かになった。
干し場に出た。シーツは全部返した。紐だけが残っている。潮風が吹いていて、空の紐がゆっくりと揺れていた。
石畳の隙間に、貝殻が並んでいる。
港の灯りが、遠くに見える。波の音が、一定のリズムで聞こえる。シズナの、並の夜だ。
リアロマはしばらく、そこに立っていた。
「……並の仕上がりですね」
小さく呟いて、店の中に入った。
明日の朝、出発する。




