シズナの平和と、届かないはずの手紙
カイルが書類を持って来たのは、並の朝だった。
リアロマが桶に向かい、カイルがいつもの椅子で書類を広げている。お茶が並の温度で湯気を立てている。潮風が一定のリズムで吹いていて、干し場のシーツがゆっくりと揺れていた。
扉が勢いよく開いたのは、そのしばらく後のことだった。
息を切らした騎士が飛び込んできた。
「閣下、王都から早馬が」
カイルが書類から顔を上げた。騎士から折り畳まれた文書を受け取り、目を走らせる。
リアロマは桶に手を浸し、作業を続けていた。
読み進めるにつれて、カイルの呼吸が浅くなっていく。肩の緊張が増す。表情もほとんど動いていない。ただ時々発する「なに?!」や「む」といった声が普段の、並の響きではなかった。波長が、乱れている。
(……何か、来ましたね)
「リアロマさん、少し席を外してもらえるか」
「どうぞ。お茶、淹れ直しておきます」
リアロマは干し場へ向かった。シーツの乾き具合を確かめながら、港の方角へ波紋を伸ばした。
何も聞こえない。王都は遠い。波が届く距離ではない。
ただ、カイルの声の波長に刻まれていたものが、気になった。
騎士が去ってから、カイルが干し場へ出てきた。
顔は平静を保っていた。ただ、いつもより少し声が低い。
「リアロマさん、話がある」
「なんですか」
「王都が、少し騒がしくなってきた」
それだけ言って、黙った。海の方を見た。
リアロマはシーツの端をピンと伸ばしながら、続きを待った。
「……詳しくは、まだわからない。ただ、シズナも無関係ではなさそうだ」
「そうですか」
「もう少し様子を見る。ゼノにも動かせる」
「わかりました」
二人でしばらく、港の方を見ていた。水平線が、夕日でゆっくりと染まっていく。並の夕暮れだ。リアロマは何も聞かなかった。カイルも、それ以上は言わなかった。
数日後の朝、ゼノが封書を持って来た。
蜜蝋で封がされた、立派な封書だ。宰相府の紋章が押してある。ゼノも中身を確認したらしく、難しい顔をしていた。
「閣下への招待状です。王都で開かれる会合へのご招待で……随行者および側近も歓迎する、と書いてあります。私の名前と、リアロマ殿の名前も、明記されていました」
「私の名前が?」
「はい。……ギルバートの件以来、閣下の周辺を調べた者がいるようです。魔導油の件を閣下が王都に相談していたこと、また、不審船が捕縛されたこと。それを追っていくと、閣下が頻繁に通っている洗濯屋がある、と探られたのかもしれません」
ゼノが少し間を置いた。
「どこまで嗅ぎつけられているかはわかりません。ただ、名指しで招待状に名前が載っている以上、無視はできないかと」
リアロマは封書を手に取った。指先で波紋を走らせ、中身を確かめる。毒や仕掛けはない。ただの紙と文字だ。
「……行きたくないですね」
「リアロマ殿らしい返答ですね」
「シーツが溜まっていますし」
そこへカイルが入ってきた。ゼノから招待状を受け取り、それに目を落とす。それからリアロマを見た。
「同行してほしい」
「……理由を聞かせてもらえますか」
「君を一人、シズナに置いていけない」
リアロマがカイルを見た。カイルが続けた。
「名前まで調べられている。何者かが、こちらの動きに目をつけている。その状況で君を残して王都へ行くのは、私には難しい」
リアロマはしばらく黙って、窓の外の干し場を見た。シーツが潮風を受けて膨らんでいる。店の前の路地は、並の朝だ。
「……カイル様は、王都でもご自分の洗濯物を管理できますか」
「……努力する」
「不衛生なものを持ち帰ってきませんか」
「……善処する」
リアロマが窓から視線を戻した。
「わかりました。ご一緒します」
ゼノが小さく安堵の息を吐いた。カイルも、表情を動かさないまま、わずかに肩の力が抜けた。
「ありがとう」
「ただし」
リアロマがエプロンを整えた。
「出発までに、溜まっている洗濯物は全部片付けます。お待ちいただけますか」
「もちろんだ」
カイルとゼノが出ていった後、リアロマは干し場に出た。シーツを一枚ずつ確かめながら、ふと手を止めた。
並の朝だ。潮風が吹いて、シーツが揺れて、港の声が聞こえる。
今のうちに、一枚でも多く洗っておこうと思った。
「……並の仕上がりですね」
小さく呟いて、次の洗い物へ向かった。




