カイルの不眠症、完全完治
朝の洗濯は、順調だった。
預かり物の麻布を桶に浸し、塩を丁寧に浮かせていく。潮風の向きもいい。今日干せば、夕方には並の乾き加減になる。リアロマは鼻歌を口ずさみながら、布地を静かにほぐしていた。
店の扉が開いた。
カイルだった。
だが、様子がいつもと違う。書類を持っていない。両手が空だ。顔色は悪くない。むしろいつもより血色がいい。目の下の隈が、ずいぶん薄くなっていた。
「おはようございます」
「ああ」
カイルが椅子に座った。しばらく何も言わずじっとしている。リアロマも何も言わなかった。桶の中で布地が静かに揺れている。
「……眠れた」
ぽつりと言った。
「昨夜だけではない。一昨日も、その前も。気づいたら、朝になっていた」
「そうですか」
「夢も見なかった。ただ、眠って、朝になっていた。……それだけのことが、こんなに」
カイルが言葉を止めた。少し間があった。
「眠れない間は、夜が来るのが嫌だった。横になっても、頭の中が静まらない。書類を読んでいた方がまだましだった。ゼノには心配をかけ続けたと思う。それでも眠れなかった。眠れない夜が積み重なると、昼間の判断も鈍くなる。自分でわかる。なのに止められない」
リアロマは布地をほぐす手を止めなかった。ただ、聞いていた。
「会議の途中で、自分が何を言っているかわからなくなることがあった。書いた文字を読み返すと、意味をなしていないこともあった。それでも止まれなかった。領主の仕事は待ってくれないから」
「それは、しんどかったですね」
「ああ」
カイルが少し息を吐いた。
「今は、朝に目が覚めると、頭が静かだ。それだけのことが、こんなに違うとは思わなかった。書類を読むと、内容が頭に入る。会議で人の話を聞いていると、次に何を言うべきかが自然に出てくる。……当たり前のことが、当たり前にできる」
「それが並ですよ」
「そうだな」
リアロマは桶から手を引き上げ、カイルに向けてそっと波紋を広げた。脳波を読む。乱れがない。街のノイズが消えて、カイルの脳波がそのまま並の状態に落ち着いていた。もう手を入れる必要はない。
(……並の仕上がりですね)
声には出さなかった。
「リアロマさん」
「なんですか」
「最初にここへ来た時、私は三年以上、一分以上の長い睡眠がとれていなかった。シーツが膝にかかったあの瞬間のことを、今でも覚えている。その感覚は、ずっと、遠いものだと思っていた」
「……よかったです」
それだけ言った。
カイルが、窓の外を見た。港の空が高い。潮風が一定のリズムで吹いていて、干し場のシーツがゆっくりと揺れている。
「君が来てから、この街は変わった」
「そうですか。私は洗濯をしていただけですよ」
「そうだな」
カイルは少し笑ってから、立ち上がった。
「書類を取ってくる」
「どうぞ」
扉が閉まった。
リアロマは布地を干し場へ持っていきながら、ふと思い出した。重苦しく扉が開いて、青白い顔の公爵が椅子に沈み込んだ、あの夕暮れを。
シーツを干し場に広げた。潮風を受けて、ふくりと膨らんだ。
並の朝だった。




