表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
波魔法使いは並じゃない〜港町シズナの洗濯屋日和〜  作者: 藍帽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/40

カイルの不眠症、完全完治

 朝の洗濯は、順調だった。


 預かり物の麻布を桶に浸し、塩を丁寧に浮かせていく。潮風の向きもいい。今日干せば、夕方には並の乾き加減になる。リアロマは鼻歌を口ずさみながら、布地を静かにほぐしていた。


 店の扉が開いた。


 カイルだった。


 だが、様子がいつもと違う。書類を持っていない。両手が空だ。顔色は悪くない。むしろいつもより血色がいい。目の下の隈が、ずいぶん薄くなっていた。


「おはようございます」


「ああ」


 カイルが椅子に座った。しばらく何も言わずじっとしている。リアロマも何も言わなかった。桶の中で布地が静かに揺れている。


「……眠れた」


 ぽつりと言った。


「昨夜だけではない。一昨日も、その前も。気づいたら、朝になっていた」


「そうですか」


「夢も見なかった。ただ、眠って、朝になっていた。……それだけのことが、こんなに」


 カイルが言葉を止めた。少し間があった。


「眠れない間は、夜が来るのが嫌だった。横になっても、頭の中が静まらない。書類を読んでいた方がまだましだった。ゼノには心配をかけ続けたと思う。それでも眠れなかった。眠れない夜が積み重なると、昼間の判断も鈍くなる。自分でわかる。なのに止められない」


 リアロマは布地をほぐす手を止めなかった。ただ、聞いていた。


「会議の途中で、自分が何を言っているかわからなくなることがあった。書いた文字を読み返すと、意味をなしていないこともあった。それでも止まれなかった。領主の仕事は待ってくれないから」


「それは、しんどかったですね」


「ああ」


 カイルが少し息を吐いた。


「今は、朝に目が覚めると、頭が静かだ。それだけのことが、こんなに違うとは思わなかった。書類を読むと、内容が頭に入る。会議で人の話を聞いていると、次に何を言うべきかが自然に出てくる。……当たり前のことが、当たり前にできる」


「それが並ですよ」


「そうだな」


 リアロマは桶から手を引き上げ、カイルに向けてそっと波紋を広げた。脳波を読む。乱れがない。街のノイズが消えて、カイルの脳波がそのまま並の状態に落ち着いていた。もう手を入れる必要はない。


(……並の仕上がりですね)


 声には出さなかった。


「リアロマさん」


「なんですか」


「最初にここへ来た時、私は三年以上、一分以上の長い睡眠がとれていなかった。シーツが膝にかかったあの瞬間のことを、今でも覚えている。その感覚は、ずっと、遠いものだと思っていた」


「……よかったです」


 それだけ言った。


 カイルが、窓の外を見た。港の空が高い。潮風が一定のリズムで吹いていて、干し場のシーツがゆっくりと揺れている。


「君が来てから、この街は変わった」


「そうですか。私は洗濯をしていただけですよ」


「そうだな」


 カイルは少し笑ってから、立ち上がった。


「書類を取ってくる」


「どうぞ」


 扉が閉まった。


 リアロマは布地を干し場へ持っていきながら、ふと思い出した。重苦しく扉が開いて、青白い顔の公爵が椅子に沈み込んだ、あの夕暮れを。


 シーツを干し場に広げた。潮風を受けて、ふくりと膨らんだ。


 並の朝だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ