第12話 定時後の求婚
魔法鍋が求婚文を煮込んだ翌日の夕方、北都工房の前には人が集まっていた。
雪はやんでいる。
代わりに、空から淡い夕焼けが降りていた。工房の屋根には薄く白が残り、入口の左右には温石を入れた籠が置かれている。
冷たい空気の中で、その場所だけがふわりと温かい。
新しい看板には、まだ木の香りがした。
北都工房 生活魔導具部門。
代表付与師 リディア・エルンスト。
私はその文字を見上げ、胸の奥で何かがゆっくり震えるのを感じた。
怖さではない。
たぶん、嬉しさだ。
「リディア様、そろそろです」
メイナが小声で言った。
彼女は私より緊張している。なぜか両手に眠り灯を二つ持ち、右往左往していた。
「メイナさん、灯りは一つで足ります」
「でも、もし消えたら」
「私が作ったものです。消えません」
言ってから、少しだけ笑った。
自分で作ったものを、そう言える日が来るとは思わなかった。
王宮ではいつも、失敗しないように、叱られないように、誰かの面目を潰さないように作っていた。
今は違う。
使う人の暮らしを温めるために作る。
そのために、私の名前を出す。
オルドさんが看板の下で腕を組んだ。
「嬢ちゃん、挨拶は短くな。北都の連中は長話より煮込みが好きだ」
「承知しました」
「あと、泣くなら定時後にしろ」
「泣きません」
「昨日もそう言ってたぞ」
言い返せない。
昨日、王都から戻ったあと、工房の看板を見て少し泣いた。
少しだけだ。
たぶん。
セドリック公爵は、広場の端に立っていた。
今日は礼服ではなく、北都の厚手の上着だ。黒い小箱は見えない。見えないが、隠している場所はだいたいわかる。
彼と目が合う。
公爵は小さく頷いた。
それだけで、呼吸が整う。
私は一歩前へ出た。
広場に集まった住民たち、職人たち、地方貴族の代理人、付与師ギルドの人々がこちらを見る。
かつて大広間で向けられた視線とは違う。
値踏みではない。
断罪でもない。
期待だ。
それはそれで、膝に来る。
「本日は、北都工房生活魔導具部門の開設にお越しいただき、ありがとうございます」
声は少し緊張していた。
でも、消えなかった。
「私は、王宮で大きな魔導具を多く扱ってきました。大広間の灯り、厨房の湯沸かし器、結界灯。どれも、たくさんの人の暮らしにつながるものでした」
そこで一度、息を吸う。
「けれど北都に来て、温石を両手で包む方、眠り灯を子どもの枕元に置く方、雪かき用の農具を試して笑う方を見ました」
広場の端で、あの老婆が雪だるま刺繍の袋を振っている。
公爵がもらったものと同じだ。
「派手ではなくても、暮らしを少し楽にするものがあります。寒い夜に、もう少し眠れるように。疲れた朝に、もう少し動けるように。怖い夢のあとに、もう一度目を閉じられるように」
喉の奥が熱くなる。
泣かない。
定時前だ。
「私は、そういう魔導具を作ります。安全に、正しく、必要な記録を残して。使う方が安心できるものを」
私は深く礼をした。
「代表付与師として、どうぞよろしくお願いいたします」
一瞬の静けさ。
次に、拍手が広がった。
大きな拍手ではない。
けれど、温かい。
手袋をした手が鳴る音は少しくぐもっていて、北都らしい拍手だった。
メイナはもう泣いている。
オルドさんは髭を撫でながら上を向いている。
公爵は、静かに拍手していた。
私の名前を、私の仕事を、きちんと見ている目で。
開設式のあと、工房内はしばらく人でいっぱいになった。
温石の注文。
眠り灯の修理相談。
保存箱の点検予約。
王都博覧会での足元ぽかぽか事件を聞きつけた商人が、「足湯暖房として売れませんか」と真顔で聞いてきたため、私は丁重に再試験を提案した。
「リディア様、王宮からです」
法務官が、三通の書状を持ってきたのは、人の波が少し落ち着いたころだった。
私は作業台の端に座り、封を確認する。
一通目は王宮から。
外部顧問契約について、私の提示した条件をおおむね受け入れるとの返答だった。
人格印の使用範囲。
作業時間。
安全試験期間。
王宮常駐義務なし。
記録水晶の閲覧権限分散。
現場付与師の休息規定。
文字を追うほどに、胸の中の硬いものがほどけていく。
王宮は、私を戻せなかった。
けれど、私の出した条件は残る。
私が戻らないことで、誰か別の付与師が少し眠れるようになるかもしれない。
「二通目は、地方貴族連名の発注依頼です」
法務官が言う。
「寒冷地向け生活魔導具の共同購入。温石、保存箱、眠り灯、低出力暖房具。かなり大口です」
オルドさんが横から覗き込み、口笛を吹いた。
「こりゃ忙しくなるな」
「作業時間内でお願いします」
私が言うと、オルドさんがにやりと笑う。
「言うようになった」
本当に、言うようになった。
三通目は、エルンスト侯爵家からだった。
封を切る手が、少しだけ重い。
中には父の署名があった。
初めて、家令ではなく父の字だ。
謝罪文は、ぎこちなかった。
長年、娘の職務と婚約上の立場を混同し、負担を見過ごしたこと。
王宮との関係を優先し、本人の意思確認を怠ったこと。
今後、リディア・エルンスト付与師の契約に家として介入しないこと。
賠償査定に協力すること。
最後に、短い一文があった。
北都では、体を冷やさぬように。
私は、その一文をしばらく見ていた。
遅い。
本当に遅い。
でも、ないよりはいい。
今すぐ許す必要はない。
帰る必要もない。
ただ、紙を畳んで、自分の引き出しにしまうことはできる。
私は封筒に戻した。
「返事は、後日にします」
「承知しました」
法務官が頷く。
メイナがそっと焼き菓子を差し出してきた。
「甘いもの、必要ですか」
「必要です」
即答すると、メイナが嬉しそうに笑った。
日が沈み、工房の定時の鐘が鳴った。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。
私は作業台の上の書類をまとめ、工具を箱へ入れる。
鍵をかけようとしたところで、セドリック公爵が近づいてきた。
手には、昨日の黒い小箱。
やはり公務書類ではない大きさだった。
背後では、メイナとオルドさんが明らかに聞き耳を立てている。
「リディア嬢」
「はい」
公爵は、まず一枚の紙を取り出した。
かなり厚い。
上質な羊皮紙。
項目がぎっしり書かれている。
私は目を細めた。
「公爵」
「はい」
「それは、まさか」
「婚姻に伴う居住、財産、人格印、職務継続、休暇、工房利用権に関する確認書です」
メイナが小さく悲鳴を上げた。
オルドさんが額を押さえる。
私は、何とも言えない気持ちでその紙を見た。
誠実だ。
とても誠実だ。
私の仕事や財産や人格印を守ろうとしているのはわかる。
わかるが。
「公爵」
「はい」
「それで求婚するおつもりですか」
公爵は一瞬、黙った。
「必要事項は明確です」
「明確ですが、心臓には少し事務的です」
「心臓」
「はい」
メイナが背後で全力で頷いている。
オルドさんがぼそりと言った。
「公爵様、そこは紙じゃねえ。口だ」
セドリック公爵は、契約書を見た。
私を見た。
また契約書を見た。
そして、深く息を吐いた。
「しまいます」
「はい」
彼は羊皮紙を丁寧に畳み、懐へ戻した。
その動作まで律儀で、私は笑いそうになる。
でも、次に彼が黒い小箱を開けた瞬間、笑いは喉の奥で止まった。
中には指輪があった。
北都の温石に似た、深い灰色の石。
派手な宝石ではない。けれど内側に小さな光を抱いている。角度を変えると、雪明かりのような青が走った。
「これは、氷灯石です」
公爵の声は、少しだけ硬い。
「北境で、長い冬を越した鉱脈から採れる。強い光ではないが、暗い場所でも消えにくい」
指輪の横には、小さな鍵が入っていた。
工房の合鍵。
私の作業室の新しい扉につく鍵だ。
「リディア・エルンスト付与師」
彼は、私の名前をゆっくり呼んだ。
侯爵令嬢でも、元婚約者でもなく。
付与師として。
そして、そのあとで少しだけ声を柔らかくした。
「リディア」
胸が、静かに跳ねた。
「私は、君を守りたいと思った。最初は、それが正しい契約を整えることだと思っていた。仕事、住まい、安全、法務。君が傷つかないように、紙で囲えばいいと」
彼は小さく首を振った。
「でも、それだけでは足りなかった。君は囲われる人ではなく、選ぶ人だ」
工房の中が静まり返る。
魔法鍋も、今日はなぜか黙っていた。
空気を読んでいるのかもしれない。
「君が王宮を選ぶなら、私は推薦状を書いた。ギルドを選ぶなら、そこまで送った。他領を選ぶなら、悔しくても見送った」
悔しくても。
その言葉に、胸がぎゅっとなる。
「けれど、君が北都を選んだ。ここで暮らしを支える魔導具を作りたいと言った。そのことが、私は嬉しかった」
彼は鍵を指輪の隣に置いた。
「これは、君を閉じ込める鍵ではない。君が帰ってこられる場所の鍵だ」
息が、うまく吸えない。
「君が帰る場所を、私と一緒に作りたい」
昨日、魔法鍋が煮込んだ言葉。
けれど、今は湯気の文字ではない。
彼自身の声だった。
「契約ではなく、私の願いとして言う」
セドリック公爵は、まっすぐ私を見た。
「私と結婚してほしい」
工房の温石が、ぱちりと鳴った。
誰も茶々を入れなかった。
メイナも、オルドさんも、職人たちも。
私は指輪を見た。
鍵を見た。
公爵の手を見た。
この手は、私から工具を取り上げた。
湿布を巻いた。
温石を渡した。
契約書を整えた。
けれど最後には、私に選ばせてくれた。
私はもう、誰かのための婚約者にはならない。
王家のためでも、家のためでも、政治のためでもない。
それでも、誰かと一緒に生きることはできる。
私が、そうしたいと思うなら。
「お受けします」
声は小さかった。
でも、工房の奥まで届いたらしい。
メイナが両手で口を押さえたまま跳ねた。
オルドさんが天井を向いた。
セドリック公爵は、信じられないものを見るように私を見ていた。
「本当に」
「はい」
「契約条件は、後で」
「後で確認します」
「人格印の扱いも」
「後で」
「仕事は」
「続けます」
「もちろん」
真剣すぎる返事に、私はとうとう笑った。
「公爵」
「はい」
「今は、指輪を」
彼ははっとしたように頷き、指輪を取った。
私の左手に触れる。
指先は少し冷えていた。
でも、彼の手は温かい。
指輪が薬指に通る。
氷灯石が、眠り灯の明かりを受けて淡く光った。
その瞬間、工房の隅に置かれていた眠り灯が、ふっと明かりを落とした。
「リディア様、違います! 私じゃないです!」
メイナが叫ぶ。
オルドさんが腹を抱えた。
「気が利く灯りだな」
「気を利かせる付与は入れていません」
私が言うと、セドリック公爵が真面目に眠り灯を見た。
「後で検査しましょう」
「今ではありません」
「はい」
薄暗い工房で、私たちは向き合った。
外は雪。
中は温石の熱。
作業台には、生活魔導具部門の発注書。
棚には眠り灯。
私の手には指輪と、工房の鍵。
セドリック公爵が少しだけ身をかがめる。
「触れても?」
最後まで、彼は尋ねる。
それが彼らしくて、胸が甘く痛んだ。
私は頷いた。
「はい」
唇が触れた。
ほんの短い口づけだった。
契約印よりも軽く、人格印よりもずっと柔らかい。
けれど、胸の奥にはっきり残る。
離れたあと、私は顔を伏せた。
熱い。
工房中が温かいせいだ。
きっとそうだ。
「リディア」
セドリック公爵が低く呼ぶ。
「はい」
「定時後です」
私は顔を上げた。
「はい?」
「今は業務時間外なので、もう少しだけ喜んでもいいでしょうか」
その言い方があまりに真面目で、私は笑ってしまった。
「はい。業務時間外ですから」
メイナが拍手し、オルドさんが大きく口笛を吹く。
魔法鍋が、ここぞとばかりに湯気を上げた。
おめでとう。焦げない愛を。
「焦げません」
私は鍋に言った。
セドリック公爵が真剣に頷く。
「焦がしません」
「そこは鍋に張り合わなくていいです」
笑い声が工房に広がる。
王宮の大広間ではない。
金のシャンデリアもない。
誰かの断罪も、冷たい視線もない。
ここにあるのは、温石と、眠り灯と、少し喋りすぎる魔法鍋。
そして、私が選んだ仕事と、私が選んだ人。
窓の外で雪が降り始めた。
明日の朝には、また温石の注文が増えるかもしれない。王宮から外部顧問の契約書も届くだろう。地方貴族の保存箱も、眠り灯の改良も、やることは山ほどある。
でも、今日は定時後だ。
私は指輪の光を見つめ、工房の鍵を掌に握った。
もう、誰かに決められた場所へ戻らなくていい。
私が帰る場所は、私が作る。
その隣に、静かに待ってくれる人がいる。
眠り灯は、さらに少しだけ明かりを落とした。
今度は誰も、検査しようとは言わなかった。




