第11話 もう王宮には戻りません
正式審問会の翌朝、王都邸の応接室には、封書の山ができていた。
王家の金印。
王宮法務部の黒印。
地方貴族の家紋。
付与師ギルドの青い封蝋。
そして、エルンスト侯爵家の青い封蝋。
昨日まで私を疑っていた王都は、夜のうちに驚くほど筆まめになったらしい。
公爵家法務官が、淡々と一通ずつ読み上げていく。
「王宮より、名誉回復公示の写しです。リディア・エルンスト付与師に対し、王宮魔導具局の一連の不備に関する責任は認められない、と」
私はその紙を受け取った。
薄い羊皮紙に、国王陛下の裁可印が押されている。
責任は認められない。
その一文を目で追うと、胸の奥が静かに熱くなった。
審問室で聞いた言葉が、こうして紙に残っている。
消えない形で。
「続いて、王宮魔導具局再編準備室より。王宮魔導具局を王立魔導具局として再編するにあたり、リディア様を特別顧問として迎えたいとのことです」
法務官は、眼鏡を押し上げた。
「条件は、専用作業室、筆頭付与師待遇、発言権、年俸は王宮時代の約六倍。未払い相当分は即時精算」
六倍。
メイナがこの場にいたら、きっと椅子から落ちる。
私も落ちそうになった。
王宮時代の報酬が低すぎたと、頭ではわかっている。それでも数字の圧は強い。
専用作業室。
筆頭付与師待遇。
発言権。
以前の私なら、喉から手が出るほど欲しかったものだ。
欲しかった。
ずっと。
成果が誰かの後ろに隠れない場所。
私の記録が読まれる机。
安全試験を軽んじない権限。
それらが、今になって差し出されている。
セドリック公爵は、向かいの席で黙っていた。
何も言わない。
王宮へ戻るなとも、受けるべきだとも。
ただ、私が紙を読み終えるのを待っている。
私はもう一度、条件書を読んだ。
作業時間の上限は、書かれていない。
人格印の使用条件は、曖昧だった。
外部案件との兼務についても、王宮の許可制とある。
たぶん、悪気はない。
再編準備室は急いで書いたのだろう。私を高く評価し、呼び戻したいと思っているのは伝わる。
だからこそ、わかった。
ここに戻れば、また私は王宮の速度に巻き込まれる。
今度は高待遇で。
今度は丁寧な言葉で。
今度は「あなたが必要です」と言われながら。
「王宮常勤は、お受けしません」
声に出すと、応接室の空気が少し変わった。
法務官がペンを構える。
セドリック公爵の指が、ほんの少しだけ動いた。
「ただし、外部顧問契約であれば検討します」
私は新しい紙を引き寄せた。
「条件は、付与師ギルドを通した案件単位の契約。人格印の使用範囲を明記。作業時間と安全試験期間の確保。王宮内での常駐義務なし。北都工房の業務を優先すること」
ペン先が走る。
書いているうちに、心臓の音が落ち着いていく。
「それから、王立魔導具局の再編に関して、現場付与師の休息規定を設けること。安全試験を省略した承認を禁止すること。記録水晶の閲覧権限を一人に集中させないこと」
法務官が、少しだけ目を見開いた。
「かなり強い条件です」
「王宮が私を必要だというなら、必要な条件です」
言ってから、私は自分の言葉に少し驚いた。
王宮が私を必要としている。
だから、私が条件を出す。
昔なら考えられなかった。
セドリック公爵が静かに言う。
「よい契約です」
それだけで、背筋が伸びる。
褒められたくて書いたわけではない。
でも、やはり嬉しい。
応接室の扉が叩かれたのは、返答書を書き終える直前だった。
使用人が緊張した顔で告げる。
「エルンスト侯爵がお見えです」
父。
指先が、少しだけ冷えた。
セドリック公爵がこちらを見る。
「会わなくてもいい」
「会います」
少し迷ってから、私はそう答えた。
逃げたい。
でも、逃げる必要はもうない。
応接室へ入ってきた父は、いつもと同じ深い紺の礼服だった。
エルンスト侯爵家の当主。
王宮へ出入りする名門貴族。
そして、私を一度も迎えに来なかった父。
「リディア」
父は私の名前を呼んだ。
その声に、懐かしさより先に、肩が固くなる。
「お前の名誉は回復された。王宮からも高待遇の話が来ている。今こそ家へ戻り、エルンスト侯爵家の娘として正しい道を選びなさい」
正しい道。
私は膝の上で手を重ねた。
「正しい道とは、王宮へ戻ることですか」
「当然だ。お前が王立魔導具局の特別顧問となれば、家の名誉も回復する。王家との関係も修復できる」
「私の名誉ではなく、家の名誉ですか」
父の眉が寄る。
「同じことだ」
違う。
今なら、そう思える。
「同じではありません」
声は静かに出た。
「私が王宮で過重労働をしていたことを、父上はご存じでしたか」
父は一瞬、目を逸らした。
ほんの一瞬。
でも、見えた。
「王家に仕える以上、多少の苦労は」
「三日続けて作業室に泊まったことは」
「王宮で認められるためには」
「婚約破棄の夜、私を帰邸させようとした書状に、私の体調を尋ねる言葉はありませんでした」
父の口が閉じた。
応接室の暖炉が、ぱちりと鳴る。
「私は、エルンスト侯爵家へすぐには戻りません」
「リディア」
「戻る条件はあります」
私は、用意していた紙を父へ差し出した。
「王宮魔導具局での私の労働実態を把握せず、婚約と職務を混同して働かせ続けたことについて、家として謝罪文を出してください。未払い相当分のうち、侯爵家が受け取った王家関連の便宜については査定に協力してください。それから、私の今後の職務契約に、家が介入しないと書面で約束してください」
父の顔が、見たことのない色になった。
怒りか、戸惑いか。
その両方かもしれない。
「親に条件を出すのか」
「はい」
胸は痛い。
痛くないわけがない。
私はこの人に、よくやったと言われたかった。
帰ってきていいと言われたかった。
でも今、何もなかったように戻れば、また同じ場所へ立つことになる。
娘としてではなく、家の役に立つ道具として。
「私はもう、誰かの体面を整えるために働きません」
言い切ると、父の目がわずかに揺れた。
セドリック公爵は、ずっと黙っている。
私の代わりに怒らない。
父を責めない。
ただ、私の言葉が遮られないようにそこにいる。
それが、今はとても心強かった。
父は紙を受け取らなかった。
けれど、破り捨てもしなかった。
「……考えておく」
それだけ言い、背を向ける。
扉が閉まる直前、父の足が少しだけ止まった。
「体は」
小さな声だった。
私は顔を上げる。
「体は、もうよいのか」
それはあまりに遅い言葉だった。
遅すぎて、胸が痛くなった。
でも、なかったことにはしない。
「北都では、よく眠れています」
父は何も言わず、今度こそ出ていった。
応接室に静けさが戻る。
私は長く息を吐いた。
「震えました」
自分の手を見ると、指先がかすかに揺れていた。
セドリック公爵が、温石を机の上へ置いた。
いつものように、押しつけず、届く場所へ。
「最後まで言えました」
その言葉に、私は少し笑った。
「公爵は、そればかりですね」
「事実です」
「便利な言葉です」
「気に入っています」
あまりに真面目に言うので、笑いがこぼれた。
昼過ぎ、雨は上がった。
王都邸の庭園回廊には、濡れた石と冬薔薇の匂いが残っている。
私はセドリック公爵と並んで歩いていた。
審問のあとから、彼は私の横を歩くとき、前より少し距離を取る。
たぶん、私が選べるように。
その気遣いが、少し寂しくて、少し嬉しい。
「リディア嬢」
「はい」
「今後の進路について、私から一つ申し出があります」
胸が鳴った。
まさか、また保護婚約では。
そう思った自分に、少しだけ苦笑する。
公爵は懐から一枚の紙を出した。
「推薦状です」
「推薦状?」
「王宮、付与師ギルド本部、地方貴族の工房、どこを選んでも使えるように書きます」
私は足を止めた。
「北都工房ではなく?」
「君が北都を選ぶなら、もちろん歓迎する」
公爵の声は、いつもより少し低い。
「だが、私がそう言えば、君はまた自分の選択を疑うかもしれない」
喉の奥が詰まった。
あの日、書庫で言えなかったことを、彼は覚えている。
役割として必要とされるのは嫌だ。
その言葉を。
「だから、どこを選んでもいい。王宮でも、ギルドでも、他領でも。推薦状を書く。契約条件の確認も手伝う」
「公爵は」
声が揺れた。
「私に、北都へ戻ってほしくはないのですか」
聞いてしまった。
雨上がりの庭が静かになる。
セドリック公爵は、しばらく黙っていた。
それから、視線を私から庭へ移す。
「戻ってほしい」
胸が、強く鳴る。
「だが、それを理由にしてほしくない」
彼は、こちらを見た。
「君が北都を選ぶなら、私が望んだからではなく、君がそこで生きたいから選んでほしい」
言葉が、ゆっくり染みていく。
残れと言われたかったのかもしれない。
でも、言われたら苦しかったのかもしれない。
どちらも本当で、面倒な心だ。
けれど今、彼は私に選択肢を渡している。
指輪でも、契約書でもなく。
推薦状という、どこへでも行ける紙を。
私は濡れた冬薔薇を見た。
王宮の専用作業室。
ギルド本部の安定した職。
地方貴族からの指名依頼。
どれも悪くない。
でも、頭に浮かぶのは北都工房だった。
温石の積まれた棚。
オルドさんの油染みた前掛け。
メイナの大きな声。
雪の朝。
定時の鐘。
そして、工具箱に鍵をかける不器用な公爵。
「北都へ戻ります」
言葉は、驚くほど自然に出た。
「王宮とは外部顧問契約を結びます。でも、私の仕事場は北都工房にしたいです。暮らしを支える魔導具を作りたい。眠り灯や温石や、雪かきの農具を」
公爵の表情が、ほんの少し動いた。
「そうですか」
「はい。私が、そうしたいので」
言えた。
誰のためでもなく。
家のためでも、王家のためでも、公爵のためでもなく。
私がそうしたい。
その言葉は小さいのに、胸の中では鐘みたいに響いた。
セドリック公爵は推薦状を折りたたみ、私へ差し出した。
「では、これは保険に」
「保険」
「いつでも選び直せるように」
私はそれを受け取った。
紙一枚が、こんなに自由に見えるとは思わなかった。
北都へ戻ったのは、翌日の夕方だった。
魔導列車を降りると、冷たい空気が頬を叩く。
懐かしい寒さだった。
工房の前には、メイナとオルドさんが立っていた。
「リディア様、おかえりなさい!」
メイナが両手を振る。
オルドさんは腕を組み、いつものしかめ面で頷いた。
「遅い。保存箱が三つ、温石が八つ、眠り灯が十二個待ってる」
「ただいま戻りました。明日の業務時間内に確認します」
私がそう言うと、オルドさんが大きく笑った。
「いい返事だ」
工房の中は、相変わらず温かかった。
作業台の上には、新しい看板の下書きが置かれている。
北都工房 生活魔導具部門。
代表付与師 リディア・エルンスト。
自分の名前が、そこにあった。
私は指先で文字をなぞる。
胸の奥が、じんと熱くなる。
その横で、セドリック公爵が何かを懐へ隠した。
本当に、素早かった。
だが私は見た。
小さな黒い箱。
手のひらに収まるくらいの。
「公爵」
「何でしょう」
「今、何か隠しましたか」
「公務書類です」
「公務書類は、そんなに小箱に入りません」
「北都の公務は小さいものもあります」
顔が真面目すぎる。
怪しい。
とても怪しい。
メイナが後ろで両手で口を押さえている。
オルドさんは天井を見ている。笑いをこらえるときの顔だ。
問い詰めようとした、そのとき。
作業台の隅に置かれていた試作品の魔法鍋が、ぼこりと鳴った。
「え?」
鍋の中から、湯気が上がる。
昨日まで、野菜の煮崩れ防止付与を試していたものだ。文字認識機能は入れていない。少なくとも、私は入れていない。
ただ、メイナが隣で会話記録札の試作を乾かしていた。たぶん、その影響を拾ったのだろう。たぶん、そういうことにしておきたい。
湯気がくるりと形を取り、空中に白い文字を作った。
きみが帰る場所を、私と一緒に。
そこで文字が崩れ、鍋が慌てたように泡を吹く。
次の文字が、さらに現れる。
いや、まずは定時後に。
私は固まった。
セドリック公爵も固まった。
メイナが小さく悲鳴を上げる。
オルドさんがとうとう吹き出した。
「公爵様」
私は、ゆっくり振り向いた。
「この鍋は、公務書類ですか」
セドリック公爵は、黒い小箱を懐に隠したまま、これまでで一番真剣な顔をした。
「……明日の業務時間外に、説明します」
魔法鍋は、なおも小さく煮立っている。
湯気の文字が、またひとつ浮かんだ。
失敗した。だが本気だ。
工房中が、温石よりずっと熱くなった。




