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無能と捨てられた付与師、退職したら王宮が止まりました  作者: 九葉(くずは)


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10/12

第10話 王宮審問会

王宮中央審問室の扉は、黒い樫でできていた。


昼の鐘が鳴る直前、廊下の窓には細い雨が当たっている。硝子を伝う雫が、まるで誰かのため息みたいに落ちていった。


私は工具箱の取っ手を握った。


中には、封印した控え台帳がある。


王宮の作業室で何度も眠気をこらえながら書いた、私の記録。誰にも褒められず、誰にも読まれず、それでも残してきた紙束。


それが今日、私の声になる。


「リディアさん」


隣で、ギルド鑑定士のエヴァさんが眼鏡を押し上げた。


「封印、開けるのは合図してからです。焦ると印の縁が荒れます」


「はい」


「あと、顔色が悪い」


「それは、今必要な指摘ですか」


「必要です。倒れられると、証拠提出の順番が狂います」


相変わらずの言い方に、少しだけ息が抜けた。


反対側には、セドリック公爵が立っていた。


博覧会の日から、私たちは多くを話していない。保護婚約の件が、薄い氷のように間に残っている。


それでも、彼はここにいる。


近すぎず、離れすぎず。


私が自分で歩ける距離に。


「リディア嬢」


「はい」


「審問では、あなたの言葉が必要です」


「わかっています」


「ですが、水は飲んでください」


差し出された小瓶を、私は思わず見つめた。


小さな保温瓶だ。中には、北都の薬草茶が入っている。


「……ありがとうございます」


「口が乾くと、言いたいことが紙に負けます」


「紙には、負けたくありません」


そう言うと、公爵の目元がほんの少し緩んだ。


扉が開く。


重い空気が、こちらへ流れ出した。


審問室には、国王陛下が臨席されていた。


中央奥に国王陛下。右手に貴族代表、左手に付与師ギルド代表。王宮法務官、博覧会運営局の記録官、地方貴族の証人たち。


そして、レオンハルト殿下。


バスティアン局長。


ルシェル侯爵令嬢。


三人の姿を見た瞬間、喉の奥が冷たくなる。


でも、足は止まらなかった。


私は指定された席へ進み、礼をした。


「リディア・エルンスト付与師です」


侯爵令嬢ではなく。


元王太子妃候補でもなく。


付与師。


そう名乗った瞬間、工具箱が少しだけ軽くなった気がした。


国王陛下が静かに頷かれる。


「始めよ」


最初に読み上げられたのは、博覧会での記録だった。


安全札の提出日。


付与師ギルドと博覧会運営局の受理印。


展示側が添付を拒否した記録。


公開実演中の過熱反応。


安全札の作動。


会場温度が足湯程度まで均一化した事実。


そこだけ、記録官の声が少し揺れた。


足湯。


この厳粛な場で聞くと、妙に破壊力がある。


誰も笑わなかった。


けれど貴族代表の一人が、咳払いを三度した。


私は唇を引き結ぶ。


ここで笑ってはいけない。


たぶん。


次に、エヴァさんが魔力印鑑定の結果を提出した。


青い鑑定札が机上に広げられ、私の人格印と、慈善魔導具の承認欄にあった印が並べられる。


「こちらが本人作業時の印。こちらが問題の印です」


エヴァさんの声は、刃のように細い。


「外周に転写特有の継ぎ目があります。魔力の流れが一度途切れ、別の媒体を経由して重ねられた痕跡です」


バスティアン局長が立ち上がりかけた。


「偶発的な乱れではないのか」


「偶発なら、内側の流れも乱れます」


エヴァさんは一枚の札を追加した。


白い線が、印の縁をなぞる。


「これは外周だけが薄く二重になっている。本人が押した印ではありません」


部屋の空気が沈む。


私は工具箱を開けた。


人格印の封を、ギルド代表と審問官の前で解く。


ぱきん、と小さな音がした。


控え台帳を取り出す。


王宮時代の紙は、端が少し擦り切れていた。夜中に何度も開いたからだ。


「こちらが、私の控え台帳です」


声は震えなかった。


「慈善魔導具の承認日、私は王宮に出仕していません。前日に王都を離れ、ヴァレンティン公爵家の護衛記録と駅馬車記録が残っています」


公爵家法務官が記録を提出する。


博覧会運営局の記録官が照合する。


王宮法務官が、王宮側の原本台帳を開いた。


私の控え台帳と、王宮の原本台帳。


同じ日付の欄。


同じ番号の承認。


そこに、違いがあった。


私の控えでは空欄の箇所に、王宮側の原本には私の人格印がある。


ギルド代表が眉をひそめた。


「後から足されていますね」


王宮法務官が原本台帳に鑑定札を当てる。


淡い赤い線が浮かび上がった。


改竄痕。


細く、しかしはっきりと。


バスティアン局長の喉が動いた。


「緊急対応だった」


ようやく出た言葉は、かすれていた。


「慈善事業の期日が迫っていた。王宮魔導具改革は国家事業だ。承認が遅れれば、民への配布が遅れる。私は責任者として」


「責任者として、本人不在の人格印を転写したのですか」


私の声が、自分でも驚くほど静かだった。


局長は私を睨む。


「君が協力的なら、このような手間は」


「手間」


その一語が、胸の底に落ちた。


私の名前。


私の印。


私の責任。


それを、手間と言った。


怒りが上がってくる。


けれど、私は拳を握らなかった。


かわりに、もう一枚の書類を出した。


「こちらは、慈善魔導具の承認前に私が提出した安全試験要請書の写しです。未検証品の配布延期を求めています」


王宮法務官が受け取る。


「受領印があります」


「はい。バスティアン局長室のものです」


ルシェル侯爵令嬢が、小さく息を呑んだ。


彼女は今日も美しかった。白いドレスに、控えめな宝石。けれど、博覧会の陽だまりのような笑みはない。


「わたくしは」


彼女の声が震えた。


「本当に、寒い方々を助けたかったのです。危険だなんて知らなくて。王宮魔導具局が承認したと聞いて、リディア様の印もあると」


「善意は、確認を省く理由になりません」


私は言った。


彼女の目に涙が浮かぶ。


以前なら、その涙だけで私が悪者になったかもしれない。


でも、今日は違う。


展示台の過熱も、安全札の作動も、受理記録もある。


涙では、記録は消せない。


レオンハルト殿下が低く言う。


「改革には速度が必要だった」


国王陛下の視線が、殿下へ向く。


「速度のために、人格印の転写を見逃したのか」


「私は、局が適正に処理していると」


「ならば、そなたは改革の中身を見ていなかった」


部屋の温度が下がった気がした。


レオンハルト殿下の顔が強張る。


国王陛下の声は荒くない。


だからこそ、逃げ場がなかった。


「王太子の名で進める事業において、現場の承認手続き、安全試験、保守責任を把握せず、成果のみを発表した。その結果、博覧会の場で未検証品の欠陥が露呈した」


「父上」


「ここでは陛下と呼べ」


短い一言。


殿下の唇が白くなる。


私は目を伏せた。


十年、隣に立つはずだった人。


その人が叱責される姿を見て、胸が痛まないわけではない。


けれど、戻りたいとは思わなかった。


痛みと未練は、別のものだ。


国王陛下が、審問官へ視線を移される。


「判断を」


中央の審問官が立ち上がった。


「王宮魔導具局における人格印転写、記録改竄、未検証品の承認手続き不備を認定します。バスティアン局長は付与師管理免許を停止、局長職を解任。王宮法務部による賠償査定へ移行」


バスティアン局長の肩が落ちた。


銀章が外された瞬間、彼の指が机の端を掴んだ。


その手は震えていた。


彼の後ろに控えていた局員たちは、誰一人として目を合わせなかった。昨日までなら一斉に彼の顔色をうかがったはずの者たちが、今は床の模様を見つめている。


記録水晶の鍵束が王宮法務官の手へ移されるたび、バスティアン様の顔から血の気が引いていった。


彼の力は、記録と人事と鍵束にあった。


それが今、音を立てずに離れていく。


「レオンハルト殿下は、王宮魔導具改革事業の総裁権限を返上。今後は国王陛下の指名する監査官の下で、地方視察および行政実務の再教育を受けること」


殿下の胸から、改革総裁の金章が外された。


拍手も、慰めの声もなかった。


つい先日まで彼の周囲に集まっていた若い貴族たちは、視線を床へ逃がしている。誰かが小さく身じろぎしただけで、殿下の肩がぴくりと揺れた。


「私は、王国のために」


そう言いかけた口は、国王陛下の視線の前で閉じた。


改革者としての看板が、剥がれた。


「ルシェル侯爵令嬢の慈善基金は、会計と安全審査が終了するまで凍結。配布予定の魔導具はすべて回収、再試験へ」


ルシェル嬢の白い手袋が、くしゃりと潰れた。


後援者席から小さなざわめきが起きる。


先ほどまで彼女に同情的だった夫人たちが、扇の角度を変えた。涙は浮かんでいるのに、それを受け取る視線がもう残っていない。


誰も殴られない。


誰も血を流さない。


けれど、地位も、評判も、金も、人間関係も、音を立てて形を変えていく。


その中心にあるのは、私の怒鳴り声ではない。


紙。


印。


記録。


証言。


そして、私があの日、退職届と一緒に持ち出した控え台帳。


「リディア・エルンスト付与師」


国王陛下が私を呼ばれた。


私は立ち上がる。


「そなたの人格印使用に関する責任は認められない。王宮は、そなたの名誉回復に関する公示を出す。未払いの緊急保守相当分についても、査定の上で支払う」


名誉回復。


その言葉が胸に触れた瞬間、視界が揺れそうになった。


私は深く礼をした。


「ありがとうございます、陛下」


声が最後だけ、少し震えた。


審問が終わると、雨は強くなっていた。


王宮の回廊は灰色に沈み、庭の薔薇は水を含んで重たそうにうなだれている。


私は人の少ない回廊で足を止めた。


工具箱が重い。


役目を果たした重さだった。


「リディア嬢」


背後から、セドリック公爵の声がする。


私は振り返らなかった。


振り返ったら、何かが崩れそうだった。


「終わりました」


そう言った途端、喉が詰まった。


「終わったのに、まだ、悔しいです」


雨音が強くなる。


庭石を叩く音が、胸の中と重なった。


「もっと早く言えばよかった。もっと早く怒ればよかった。もっと早く、自分の印は自分のものだと」


言葉が切れる。


目の奥が熱い。


審問室では泣かなかった。


バスティアン局長の前でも、レオンハルト殿下の前でも、ルシェル嬢の涙の前でも。


でも、ここには雨しかない。


そして、セドリック公爵がいる。


「私は」


彼の声が近づいた。


「君を守りたかった」


胸が小さく跳ねる。


「だが、保護婚約の件では、君の選択を奪うところだった。すまない」


私は振り返った。


公爵の顔は、いつものように整っていた。


けれど、目だけが違った。


契約書を読む目ではない。


証拠を見極める目でもない。


何かを怖がっている人の目だった。


「公爵でも、怖いことがあるのですか」


聞いてから、子どもみたいな問いだと思った。


彼は少しだけ息を吐く。


「ある」


雨が、回廊の外で跳ねる。


「君が、また誰かのために自分を消すのではないかと怖かった」


喉の奥が、熱くなる。


その言葉は、契約ではなかった。


保護でもない。


役割でもない。


「だから急いだ。急いで、間違えた」


彼は私へ手を伸ばしかけて、止めた。


あの日と同じ。


でも今日は、私が一歩近づいた。


「少しだけ」


声が震える。


「少しだけ、支えてください」


公爵の手が、今度は止まらなかった。


私の肩を包むように、そっと引き寄せる。


強くない。


逃げようと思えば逃げられる抱擁だった。


だから逃げられなかった。


額を彼の胸に預けた瞬間、涙が落ちた。


雨の音に紛れて、自分の息が小さく崩れる。


「悔しかった」


「はい」


「怖かった」


「はい」


「でも、戻らなくてよかった」


「はい」


彼は、余計なことを言わなかった。


ただ、私が泣き終わるまで、待っていた。


その待ち方があまりに静かで、胸の痛い場所にやわらかく触れた。


王宮を出てから、私はいろいろなものを取り戻した。


睡眠。


食事。


自分の名前。


自分の印。


今、もう一つだけわかった。


私は、誰かに支えられても、自分で立っていられる。


王都邸へ戻ったのは、夜が深くなってからだった。


濡れた外套を預け、応接室に入ると、法務官が新しい封書を持って待っていた。


「王宮より、リディア様宛です」


黒い封蝋ではない。


王家の金印だった。


私は封を切る。


紙は上質で、文字は丁寧だった。


王立魔導具局の再編にあたり、リディア・エルンスト付与師を特別顧問として迎えたい。


高待遇。


専用作業室。


王宮内での発言権。


未払い報酬の即時精算。


私は最後まで読んだ。


暖炉の火が、紙の金縁を照らしている。


セドリック公爵は、何も言わなかった。


戻れと言わない。


残れとも言わない。


ただ、私が読み終えるのを待っている。


私は封書を膝の上に置いた。


王宮から、初めて私の名前で仕事が来た。


奪われた場所が、今度は席を用意している。


でも、その席に座るかどうかは、もう私が決めることだった。

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