第10話 王宮審問会
王宮中央審問室の扉は、黒い樫でできていた。
昼の鐘が鳴る直前、廊下の窓には細い雨が当たっている。硝子を伝う雫が、まるで誰かのため息みたいに落ちていった。
私は工具箱の取っ手を握った。
中には、封印した控え台帳がある。
王宮の作業室で何度も眠気をこらえながら書いた、私の記録。誰にも褒められず、誰にも読まれず、それでも残してきた紙束。
それが今日、私の声になる。
「リディアさん」
隣で、ギルド鑑定士のエヴァさんが眼鏡を押し上げた。
「封印、開けるのは合図してからです。焦ると印の縁が荒れます」
「はい」
「あと、顔色が悪い」
「それは、今必要な指摘ですか」
「必要です。倒れられると、証拠提出の順番が狂います」
相変わらずの言い方に、少しだけ息が抜けた。
反対側には、セドリック公爵が立っていた。
博覧会の日から、私たちは多くを話していない。保護婚約の件が、薄い氷のように間に残っている。
それでも、彼はここにいる。
近すぎず、離れすぎず。
私が自分で歩ける距離に。
「リディア嬢」
「はい」
「審問では、あなたの言葉が必要です」
「わかっています」
「ですが、水は飲んでください」
差し出された小瓶を、私は思わず見つめた。
小さな保温瓶だ。中には、北都の薬草茶が入っている。
「……ありがとうございます」
「口が乾くと、言いたいことが紙に負けます」
「紙には、負けたくありません」
そう言うと、公爵の目元がほんの少し緩んだ。
扉が開く。
重い空気が、こちらへ流れ出した。
審問室には、国王陛下が臨席されていた。
中央奥に国王陛下。右手に貴族代表、左手に付与師ギルド代表。王宮法務官、博覧会運営局の記録官、地方貴族の証人たち。
そして、レオンハルト殿下。
バスティアン局長。
ルシェル侯爵令嬢。
三人の姿を見た瞬間、喉の奥が冷たくなる。
でも、足は止まらなかった。
私は指定された席へ進み、礼をした。
「リディア・エルンスト付与師です」
侯爵令嬢ではなく。
元王太子妃候補でもなく。
付与師。
そう名乗った瞬間、工具箱が少しだけ軽くなった気がした。
国王陛下が静かに頷かれる。
「始めよ」
最初に読み上げられたのは、博覧会での記録だった。
安全札の提出日。
付与師ギルドと博覧会運営局の受理印。
展示側が添付を拒否した記録。
公開実演中の過熱反応。
安全札の作動。
会場温度が足湯程度まで均一化した事実。
そこだけ、記録官の声が少し揺れた。
足湯。
この厳粛な場で聞くと、妙に破壊力がある。
誰も笑わなかった。
けれど貴族代表の一人が、咳払いを三度した。
私は唇を引き結ぶ。
ここで笑ってはいけない。
たぶん。
次に、エヴァさんが魔力印鑑定の結果を提出した。
青い鑑定札が机上に広げられ、私の人格印と、慈善魔導具の承認欄にあった印が並べられる。
「こちらが本人作業時の印。こちらが問題の印です」
エヴァさんの声は、刃のように細い。
「外周に転写特有の継ぎ目があります。魔力の流れが一度途切れ、別の媒体を経由して重ねられた痕跡です」
バスティアン局長が立ち上がりかけた。
「偶発的な乱れではないのか」
「偶発なら、内側の流れも乱れます」
エヴァさんは一枚の札を追加した。
白い線が、印の縁をなぞる。
「これは外周だけが薄く二重になっている。本人が押した印ではありません」
部屋の空気が沈む。
私は工具箱を開けた。
人格印の封を、ギルド代表と審問官の前で解く。
ぱきん、と小さな音がした。
控え台帳を取り出す。
王宮時代の紙は、端が少し擦り切れていた。夜中に何度も開いたからだ。
「こちらが、私の控え台帳です」
声は震えなかった。
「慈善魔導具の承認日、私は王宮に出仕していません。前日に王都を離れ、ヴァレンティン公爵家の護衛記録と駅馬車記録が残っています」
公爵家法務官が記録を提出する。
博覧会運営局の記録官が照合する。
王宮法務官が、王宮側の原本台帳を開いた。
私の控え台帳と、王宮の原本台帳。
同じ日付の欄。
同じ番号の承認。
そこに、違いがあった。
私の控えでは空欄の箇所に、王宮側の原本には私の人格印がある。
ギルド代表が眉をひそめた。
「後から足されていますね」
王宮法務官が原本台帳に鑑定札を当てる。
淡い赤い線が浮かび上がった。
改竄痕。
細く、しかしはっきりと。
バスティアン局長の喉が動いた。
「緊急対応だった」
ようやく出た言葉は、かすれていた。
「慈善事業の期日が迫っていた。王宮魔導具改革は国家事業だ。承認が遅れれば、民への配布が遅れる。私は責任者として」
「責任者として、本人不在の人格印を転写したのですか」
私の声が、自分でも驚くほど静かだった。
局長は私を睨む。
「君が協力的なら、このような手間は」
「手間」
その一語が、胸の底に落ちた。
私の名前。
私の印。
私の責任。
それを、手間と言った。
怒りが上がってくる。
けれど、私は拳を握らなかった。
かわりに、もう一枚の書類を出した。
「こちらは、慈善魔導具の承認前に私が提出した安全試験要請書の写しです。未検証品の配布延期を求めています」
王宮法務官が受け取る。
「受領印があります」
「はい。バスティアン局長室のものです」
ルシェル侯爵令嬢が、小さく息を呑んだ。
彼女は今日も美しかった。白いドレスに、控えめな宝石。けれど、博覧会の陽だまりのような笑みはない。
「わたくしは」
彼女の声が震えた。
「本当に、寒い方々を助けたかったのです。危険だなんて知らなくて。王宮魔導具局が承認したと聞いて、リディア様の印もあると」
「善意は、確認を省く理由になりません」
私は言った。
彼女の目に涙が浮かぶ。
以前なら、その涙だけで私が悪者になったかもしれない。
でも、今日は違う。
展示台の過熱も、安全札の作動も、受理記録もある。
涙では、記録は消せない。
レオンハルト殿下が低く言う。
「改革には速度が必要だった」
国王陛下の視線が、殿下へ向く。
「速度のために、人格印の転写を見逃したのか」
「私は、局が適正に処理していると」
「ならば、そなたは改革の中身を見ていなかった」
部屋の温度が下がった気がした。
レオンハルト殿下の顔が強張る。
国王陛下の声は荒くない。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「王太子の名で進める事業において、現場の承認手続き、安全試験、保守責任を把握せず、成果のみを発表した。その結果、博覧会の場で未検証品の欠陥が露呈した」
「父上」
「ここでは陛下と呼べ」
短い一言。
殿下の唇が白くなる。
私は目を伏せた。
十年、隣に立つはずだった人。
その人が叱責される姿を見て、胸が痛まないわけではない。
けれど、戻りたいとは思わなかった。
痛みと未練は、別のものだ。
国王陛下が、審問官へ視線を移される。
「判断を」
中央の審問官が立ち上がった。
「王宮魔導具局における人格印転写、記録改竄、未検証品の承認手続き不備を認定します。バスティアン局長は付与師管理免許を停止、局長職を解任。王宮法務部による賠償査定へ移行」
バスティアン局長の肩が落ちた。
銀章が外された瞬間、彼の指が机の端を掴んだ。
その手は震えていた。
彼の後ろに控えていた局員たちは、誰一人として目を合わせなかった。昨日までなら一斉に彼の顔色をうかがったはずの者たちが、今は床の模様を見つめている。
記録水晶の鍵束が王宮法務官の手へ移されるたび、バスティアン様の顔から血の気が引いていった。
彼の力は、記録と人事と鍵束にあった。
それが今、音を立てずに離れていく。
「レオンハルト殿下は、王宮魔導具改革事業の総裁権限を返上。今後は国王陛下の指名する監査官の下で、地方視察および行政実務の再教育を受けること」
殿下の胸から、改革総裁の金章が外された。
拍手も、慰めの声もなかった。
つい先日まで彼の周囲に集まっていた若い貴族たちは、視線を床へ逃がしている。誰かが小さく身じろぎしただけで、殿下の肩がぴくりと揺れた。
「私は、王国のために」
そう言いかけた口は、国王陛下の視線の前で閉じた。
改革者としての看板が、剥がれた。
「ルシェル侯爵令嬢の慈善基金は、会計と安全審査が終了するまで凍結。配布予定の魔導具はすべて回収、再試験へ」
ルシェル嬢の白い手袋が、くしゃりと潰れた。
後援者席から小さなざわめきが起きる。
先ほどまで彼女に同情的だった夫人たちが、扇の角度を変えた。涙は浮かんでいるのに、それを受け取る視線がもう残っていない。
誰も殴られない。
誰も血を流さない。
けれど、地位も、評判も、金も、人間関係も、音を立てて形を変えていく。
その中心にあるのは、私の怒鳴り声ではない。
紙。
印。
記録。
証言。
そして、私があの日、退職届と一緒に持ち出した控え台帳。
「リディア・エルンスト付与師」
国王陛下が私を呼ばれた。
私は立ち上がる。
「そなたの人格印使用に関する責任は認められない。王宮は、そなたの名誉回復に関する公示を出す。未払いの緊急保守相当分についても、査定の上で支払う」
名誉回復。
その言葉が胸に触れた瞬間、視界が揺れそうになった。
私は深く礼をした。
「ありがとうございます、陛下」
声が最後だけ、少し震えた。
審問が終わると、雨は強くなっていた。
王宮の回廊は灰色に沈み、庭の薔薇は水を含んで重たそうにうなだれている。
私は人の少ない回廊で足を止めた。
工具箱が重い。
役目を果たした重さだった。
「リディア嬢」
背後から、セドリック公爵の声がする。
私は振り返らなかった。
振り返ったら、何かが崩れそうだった。
「終わりました」
そう言った途端、喉が詰まった。
「終わったのに、まだ、悔しいです」
雨音が強くなる。
庭石を叩く音が、胸の中と重なった。
「もっと早く言えばよかった。もっと早く怒ればよかった。もっと早く、自分の印は自分のものだと」
言葉が切れる。
目の奥が熱い。
審問室では泣かなかった。
バスティアン局長の前でも、レオンハルト殿下の前でも、ルシェル嬢の涙の前でも。
でも、ここには雨しかない。
そして、セドリック公爵がいる。
「私は」
彼の声が近づいた。
「君を守りたかった」
胸が小さく跳ねる。
「だが、保護婚約の件では、君の選択を奪うところだった。すまない」
私は振り返った。
公爵の顔は、いつものように整っていた。
けれど、目だけが違った。
契約書を読む目ではない。
証拠を見極める目でもない。
何かを怖がっている人の目だった。
「公爵でも、怖いことがあるのですか」
聞いてから、子どもみたいな問いだと思った。
彼は少しだけ息を吐く。
「ある」
雨が、回廊の外で跳ねる。
「君が、また誰かのために自分を消すのではないかと怖かった」
喉の奥が、熱くなる。
その言葉は、契約ではなかった。
保護でもない。
役割でもない。
「だから急いだ。急いで、間違えた」
彼は私へ手を伸ばしかけて、止めた。
あの日と同じ。
でも今日は、私が一歩近づいた。
「少しだけ」
声が震える。
「少しだけ、支えてください」
公爵の手が、今度は止まらなかった。
私の肩を包むように、そっと引き寄せる。
強くない。
逃げようと思えば逃げられる抱擁だった。
だから逃げられなかった。
額を彼の胸に預けた瞬間、涙が落ちた。
雨の音に紛れて、自分の息が小さく崩れる。
「悔しかった」
「はい」
「怖かった」
「はい」
「でも、戻らなくてよかった」
「はい」
彼は、余計なことを言わなかった。
ただ、私が泣き終わるまで、待っていた。
その待ち方があまりに静かで、胸の痛い場所にやわらかく触れた。
王宮を出てから、私はいろいろなものを取り戻した。
睡眠。
食事。
自分の名前。
自分の印。
今、もう一つだけわかった。
私は、誰かに支えられても、自分で立っていられる。
王都邸へ戻ったのは、夜が深くなってからだった。
濡れた外套を預け、応接室に入ると、法務官が新しい封書を持って待っていた。
「王宮より、リディア様宛です」
黒い封蝋ではない。
王家の金印だった。
私は封を切る。
紙は上質で、文字は丁寧だった。
王立魔導具局の再編にあたり、リディア・エルンスト付与師を特別顧問として迎えたい。
高待遇。
専用作業室。
王宮内での発言権。
未払い報酬の即時精算。
私は最後まで読んだ。
暖炉の火が、紙の金縁を照らしている。
セドリック公爵は、何も言わなかった。
戻れと言わない。
残れとも言わない。
ただ、私が読み終えるのを待っている。
私は封書を膝の上に置いた。
王宮から、初めて私の名前で仕事が来た。
奪われた場所が、今度は席を用意している。
でも、その席に座るかどうかは、もう私が決めることだった。




