第9話 博覧会の灯りは嘘をつかない
王都博覧会の朝、馬車の窓には薄い霜がついていた。
王都の冬は北都ほど厳しくない。
それでも、王宮通りへ近づくほど空気が硬くなる気がした。白い石造りの建物、磨かれた街灯、貴族の馬車の列。
私は膝の上で、小さな木箱を押さえていた。
中には安全札が三枚。
昨夜、最後の試験を終えたものだ。
過熱を感知したら、出力を落とす。使用者には低い警告音を鳴らす。本体配列には干渉しない。暖房魔導具そのものを止めるのではなく、危険だけを止めるための札。
セドリック公爵は向かいの席で、博覧会運営局から届いた受理証を確認していた。
「付与師ギルド、博覧会運営局、双方の受理印があります」
「ありがとうございます」
「安全補助具として記録されています。展示側が拒んでも、提出された事実は消せません」
消せない。
その言葉に、指先の力が少し抜けた。
王宮では、いくつもの記録が小さくされてきた。
見なかったことにされる。
聞かなかったことにされる。
誰かの机の奥で、紙が眠ったままになる。
けれど今回は、同じ書類を二か所に出した。受理印も二つ。写しは私の工具箱と、公爵家法務部と、付与師ギルドにある。
握りつぶされない紙。
それだけで、今日は戦える。
馬車が博覧会場へ入ると、外から歓声が聞こえた。
王都中央展示場は、硝子屋根の大きな建物だった。陽光が天井から降り、魔導具の金属部分をきらきら光らせている。
小型洗浄器。
自動羽ペン。
楽器に合わせて色を変えるランプ。
華やかで、明るくて、少し騒がしい。
王宮の発表台は、その中央にあった。
赤い絨毯。
金の垂れ幕。
王宮魔導具局の紋章。
そして、白い台の上に並ぶ小型暖房魔導具。
丸みのある銀の外殻に、手のひらほどの光核。見た目は愛らしい。貧しい家庭にも置きやすいよう、装飾を少なくしたのだろう。
けれど私は、外殻の熱逃がし溝の浅さに目が止まった。
やはり、足りない。
バスティアン局長は職務停止中だが、博覧会の発表枠はレオンハルト殿下名義で押さえられていた。準備済みの展示を取り下げれば、改革事業そのものの失敗を認めることになる。だから王宮側は、止まれなかったのだ。
「リディア嬢」
低い声に、私は視線を戻した。
セドリック公爵が、半歩だけ近くにいる。
近すぎない。
けれど、人波に押されたらすぐ手が届く距離。
あの日、書庫で保護婚約を断ってから、私たちの間には少しだけ静かな空白があった。
公爵は急かさない。
言い訳もしない。
ただ、私が法務官に安全札を提出するあいだ、必要な扉だけを開けてくれた。
その距離がありがたくて、少し寂しい。
我儘だと思う。
「大丈夫です」
私は答えた。
「今日は、札を出すだけですから」
「必要なら、発言権を求めます」
「私が言います」
公爵は一度だけ頷いた。
「わかりました」
その「わかりました」に、胸の奥が静かに温まる。
前なら、誰かに言ってもらうほうが楽だった。
でも、今は違う。
私の印に関わるものは、私が言う。
展示場の奥で、楽師が短い祝奏を鳴らした。
人々の視線が発表台へ集まる。
レオンハルト殿下が壇上に立った。
深い青の礼服に、王太子の金章。靴は、今日は普通のものらしい。少し安心した。とても安心した。
隣にはルシェル侯爵令嬢。
白いドレスに淡い毛皮の肩掛け。慈善の花と呼ばれる彼女は、冬の陽だまりのように微笑んでいる。
「本日、王宮魔導具改革の新たな成果を披露できることを嬉しく思う」
レオンハルト殿下の声は、相変わらずよく通った。
「この小型暖房魔導具は、寒さに苦しむ民へ届けるためのものだ。ルシェル嬢の慈善基金と王宮魔導具局の協力により、まず王都貧民街へ配布される」
拍手が起こる。
ルシェル嬢が一歩前に出た。
「暖かさは、身分に関係なく与えられるべきものです。わたくしは、その第一歩を皆様と共に」
優しい声。
美しい言葉。
聞いている人々の表情が和らぐ。
善意は強い。
だからこそ、雑に扱ってはいけない。
私は木箱を抱え、展示台の前へ進んだ。
会場係が私を止めようとする。
その前に、セドリック公爵が博覧会運営局の受理証を差し出した。
「安全補助具の提出者です。発言申請は受理されています」
会場係は受理印を見て、道を開けた。
私の心臓が強く打つ。
壇上のレオンハルト殿下が、こちらを見た。
ルシェル嬢の笑顔も、ほんの少し固まる。
「リディア様」
彼女が先に口を開いた。
「いらしてくださったのですね」
「安全補助具を提出に参りました」
私は木箱を開けた。
三枚の安全札を、展示台の端へ並べる。
薄い木札に、青い保護配列。中央には、私の人格印。今回は、私が自分の手で押した印だ。
「小型暖房魔導具の過熱時に、出力を低下させる札です。本体配列には干渉しません。慈善配布品として使用される前に、添付を推奨いたします」
会場がざわついた。
ルシェル嬢は、目を伏せた。
「リディア様。お気持ちはありがたいのですが」
その声で、空気が彼女のほうへ傾く。
「これは、困っている方々へ一日でも早く暖かさを届けるためのものです。ここで不安を煽れば、配布が遅れてしまいます」
不安を煽る。
また、そう来る。
私は札に指先を添えた。
「不安を煽るためではありません。事故を防ぐためです」
「事故が起きると決まっているわけではございません」
「起きないと確認するための試験が足りません」
ルシェル嬢の目が潤む。
見事なほど自然だった。
「わたくしは、ただ寒い方々を助けたいだけです。それを、嫉妬や過去の行き違いで止められるのは」
会場の一部が、私を見る。
冷たい視線。
この形は知っている。
優しい人を困らせる、冷たい女。
善意に水を差す、面倒な付与師。
でも今日は、紙がある。
受理証がある。
安全札がある。
そして、私はもう王宮魔導具局の臨時補佐ではない。
「ルシェル侯爵令嬢」
私は声を低く保った。
「私情であれば、受理印は押されません。こちらは付与師ギルドと博覧会運営局が、安全補助具として受理したものです」
レオンハルト殿下が眉を寄せる。
「リディア。君はまた、場を乱すのか」
「場を守るために申し出ています」
「必要ない。王宮魔導具局が承認した品だ」
王宮魔導具局。
その言葉が出た瞬間、胸の奥が冷えた。
「では、少なくとも安全札を添付した状態で実演を」
「不要だ」
殿下は手を上げた。
「公開実演を始める。諸君、この魔導具は手軽で安全な新時代の暖房だ。不安を煽る声に惑わされる必要はない」
係員が小型暖房魔導具を中央へ運ぶ。
会場が期待にざわめく。
私は一歩踏み出しかけた。
そのとき、セドリック公爵の声が響いた。
「記録を」
たった一言だった。
博覧会運営局の記録係が、慌てて水晶板を起動する。
公爵は続ける。
「安全補助具の添付を推奨した付与師の申し出が、展示側により拒否されたこと。公開実演が展示側の判断で行われること。記録してください」
会場の空気が変わった。
レオンハルト殿下の顔が強張る。
「公爵。脅しか」
「いいえ。記録です」
静かな返答。
私は横顔を見上げた。
公爵は私を見ていない。
壇上を見ている。
でも、彼は私の言葉を奪わなかった。
私が言ったことを、消されない形にしてくれた。
胸の奥が、痛いほど温かくなる。
実演が始まった。
小型暖房魔導具の光核が、橙色に灯る。
最初は穏やかだった。
周囲の空気がふわりと温まる。近くにいた貴婦人が「まあ」と微笑んだ。
次に、光核の色が少し濃くなった。
橙から赤へ。
私は呼吸を止める。
熱逃がし溝が浅い。
光核の上昇配列が、暖気をため込みすぎている。
「出力を落としてください」
私は係員に言った。
係員は王太子を見る。
レオンハルト殿下は顎を上げた。
「続けろ。広い会場でも温まることを見せる」
赤が深くなる。
展示台の銀縁が、かすかに鳴った。
まずい。
このままでは、外殻が熱を持つ。
私は安全札を一枚取り、展示台へ向けて差し出した。
「添付します」
「勝手なことを」
レオンハルト殿下が言いかけた瞬間。
熱に反応して、安全札が青く光った。
本体に触れていない。
けれど札は、周囲の過熱を検知するよう作ってある。
青い線が空気を走り、小型暖房魔導具の光核へ薄い輪をかけた。
ごく短い警告音。
りん、と澄んだ音が鳴る。
赤い光が、すっと橙へ戻った。
同時に、会場の床近くへ温かい空気が広がる。
足元だけが、ぽかぽかした。
妙な沈黙が落ちる。
貴族たちが、自分の靴元を見る。
誰かが小さく呟いた。
「足湯……?」
会場全体の足元だけが、足湯に浸かっているようにぽかぽかしていた。
熱すぎない。
危険もない。
ただ、王宮の威厳ある発表としては、かなり締まらない。
幼い令息が、母親の袖を引いた。
「あったかい。ここでお昼寝していい?」
母親が慌てて口を塞ぐ。
その横で、老伯爵が真顔で頷いていた。
「これはこれで膝にいいな」
笑いが、波のように広がった。
最初は小さく。
次第に隠せないほど。
ルシェル嬢の顔が白くなる。
レオンハルト殿下は、展示台の魔導具を見つめたまま動かない。
私は、安全札の光が完全に落ち着いたのを確認した。
外殻温度、正常。
光核、安定。
使用者に危険なし。
膝から力が抜けそうになる。
でも、立っていられた。
「安全札は、正常に作動しました」
私は会場へ向けて言った。
「本体の過熱傾向も確認されました。配布前に、熱逃がし溝と停止条件の再試験を求めます」
反論は、すぐには来なかった。
来られなかったのだと思う。
過熱は、全員の前で起きた。
警告音も、全員が聞いた。
安全札が作動しなければどうなっていたかも、想像できた。
そして誰も怪我をしていない。
私が望んだ通りに。
「リディア」
レオンハルト殿下が低く言った。
「君は、私の面目を」
「殿下」
別の声が、それを遮った。
展示場の奥から、国王陛下が歩いてこられた。
会場の人々が一斉に膝を折る。
私も深く礼をした。
国王陛下は、展示台の魔導具、安全札、記録水晶の順に目を向けられた。
「今の記録は残っているな」
運営局の記録係が青ざめながら頷く。
「はい、陛下」
「付与師ギルドの受理記録も」
「ございます」
国王陛下の視線が、私へ向いた。
「リディア・エルンスト付与師。安全札は、そなたが提出したものか」
「はい、陛下。慈善配布品の使用者安全確保のため、付与師ギルドと博覧会運営局へ提出いたしました」
「よろしい」
その一言で、胸の奥が少し震えた。
よろしい。
王宮で聞きたくて、ずっと聞けなかった言葉だった。
そのとき、セドリック公爵が一歩前へ出た。
「陛下」
「ヴァレンティン公爵」
「今の件について、ひとつ申し上げます」
国王陛下は頷かれた。
セドリック公爵の声は、展示場の硝子屋根まで届くほど静かだった。
「リディア嬢の申し出は、私の庇護下にあるから正しいのではありません。まして、私の婚約者だから正しいのでもありません」
婚約者、という言葉に、胸が跳ねた。
会場もざわめく。
けれど公爵は、こちらを見なかった。
まっすぐ、国王陛下と記録水晶のほうを見ていた。
「彼女の仕事が正しいのです。提出記録、付与師ギルドの受理、安全札の作動、過熱傾向の確認。いずれも、彼女個人の専門性によるものです」
息が、うまく吸えなかった。
私の婚約者だからではない。
公爵家の庇護下だからではない。
私の仕事が。
私の名前が。
私の専門性が。
会場の中央で、誰かの影ではなく立っている。
ルシェル嬢が唇を噛む。
レオンハルト殿下は、何か言おうとして言葉を見つけられないようだった。
国王陛下は、重く頷かれた。
「王宮魔導具局、慈善基金、ならびに王宮魔導具改革事業の承認手続きについて、正式審問会を開く」
展示場がざわめく。
今度のざわめきは、笑いではなかった。
紙と印と記録が、音を立てて王宮の中枢へ届いた音だ。
「関係書類、記録水晶、人格印鑑定資料をすべて保全せよ。レオンハルト」
「……はい、父上」
「そなたも出席する」
王太子の顔色が変わった。
ルシェル嬢は、白い手袋を胸元で握りしめている。
私は安全札を拾い上げた。
まだ、ほんのり温かい。
足元の空気も、やわらかく温かいままだった。
まるで博覧会場全体が、気まずい足湯になっている。
笑ってはいけない。
笑ってはいけないのに、少しだけ唇が震えた。
隣に戻ってきたセドリック公爵が、低く尋ねる。
「怪我は」
「ありません」
「手は」
「震えていません」
私は安全札を木箱に戻した。
今度は、自分から公爵を見上げる。
「公爵」
「はい」
「先ほどの言葉、ありがとうございました」
彼は少しだけ目を伏せた。
「事実を言っただけです」
また契約書みたいな返事。
けれど今日は、それで十分ではなかった。
「それでも、嬉しかったです」
口にした瞬間、公爵の表情が止まった。
ほんの一瞬。
それから彼は、王宮の誰にも聞こえないほど低い声で言った。
「なら、言ってよかった」
会場の中央では、国王陛下の命により記録水晶が次々と封印されていく。
王宮魔導具局の職員たちは慌ただしく走り、貴族たちは囁きを交わし、発表台の上の小型暖房魔導具は、足元だけを律儀に温め続けていた。
正式審問会。
その言葉が、硝子屋根の下に重く残る。
私は木箱を抱え直した。
私の安全札は、人を守った。
そして今度は、私の記録が私自身を守る番だった。




