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無能と捨てられた付与師、退職したら王宮が止まりました  作者: 九葉(くずは)


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8/12

第8話 保護婚約のすれ違い

王都博覧会まで、あと三日。


ヴァレンティン公爵家の王都邸には、朝から封書が積もっていた。


雪ではない。


もっと冷たいものだ。


王宮の黒い封蝋。


エルンスト侯爵家の青い封蝋。


王宮魔導具局の銀の封蝋。


どれも形は違うのに、書いてあることはよく似ている。


戻れ。


話し合え。


家のために考え直せ。


私は応接室の机に並べられた封書を見下ろし、薬草茶のカップを両手で包んだ。


湯気は温かい。


けれど、文字を読むたびに指先が冷える。


「エルンスト侯爵家からは、三通目です」


公爵家法務官が淡々と告げた。


「『王宮との関係修復のため、リディア嬢は速やかに帰邸し、父君の指示を受けること』とあります」


父の字ではない。


また家令の筆跡だった。


それでも、父の声が聞こえる気がする。


家のためだ。


王家のためだ。


お前が少し我慢すれば済む。


私はカップを置いた。


「帰邸しません」


言葉にすると、背中が少し伸びる。


「そのまま法務経由で返答してください。王宮との折衝は、私個人の付与師契約および審問手続きに関わるため、エルンスト侯爵家の指示では動かない、と」


法務官が羽ペンを走らせる。


「王宮からの書状は」


セドリック公爵が尋ねた。


彼は窓辺に立っていた。黒い上着の袖口に、朝の光が薄く乗っている。


「特別顧問として一時復帰すれば、慈善魔導具の件は穏便に処理できる、とのことです」


穏便。


その一語に、胸の奥がざらついた。


私が戻る。


私が直す。


私が黙る。


それで穏便になる。


王宮にいたころから、穏便とはたいてい、私だけが飲み込むことだった。


「戻りません」


二度目は、一度目より言いやすかった。


「魔導具の安全確認には協力します。ただし、付与師ギルドを通した正式依頼として。王宮魔導具局への復職はしません」


法務官が頷く。


「そのように」


小さな勝利だと思った。


王宮からの封書を見ただけで息が詰まっていた私が、今は座ったまま断っている。


怒鳴ってはいない。


破り捨ててもいない。


ただ、戻らないと書面に残している。


それだけで、胸の中の床が一枚、固くなった気がした。


法務官が退室すると、応接室には私とセドリック公爵だけが残った。


机の上には、残った一通。


王都博覧会の案内状。


金縁の紙が、妙に華やかで、妙に不吉だった。


「リディア嬢」


公爵がこちらへ向く。


「博覧会への出席は、取りやめることもできます」


「安全確認が必要です」


「それは、ギルドの他の付与師でもできる」


「私の人格印が使われているかもしれない魔導具です」


自分でも、声が少し尖ったのがわかった。


公爵は責めていない。


わかっている。


それでも、王宮と実家から戻れ戻れと引っ張られたあとの私には、止められることも似た形に見えてしまう。


「失礼しました」


私は視線を落とした。


「公爵が私を案じてくださっているのは、理解しています」


言ってから、言葉を選び間違えた気がした。


案じる。


本当に?


契約者として。


付与師として。


公爵領の工房に必要な人材として。


胸の中で、考えたくない問いが小さく転がる。


セドリック公爵は、少しだけ黙った。


「場所を変えましょう」


案内されたのは、王都邸の書庫だった。


壁一面に法典と地図が並び、窓際の机には王都博覧会の会場図が広げられている。赤い印がいくつか付いていた。


私はそれを見たが、詳しく尋ねなかった。


予備審問の制限はまだ完全には解けていない。証拠保全に関わる話は、触れられないことがある。


触れられないものがあると、会話は途端に細い橋になる。


渡り方を間違えれば、落ちる。


「公爵」


私は鞄から一枚の書類を出した。


「北都工房との契約について、ご相談があります」


公爵の視線が、紙へ落ちる。


「契約解除願い、ですか」


「はい」


部屋の空気が、一段冷えた気がした。


私は続けた。


「今回の件は、私個人の人格印と王宮魔導具局の問題です。公爵家が窓口となってくださったことで、ここまで手続きを進められました。ですが、このままではヴァレンティン公爵家まで王宮との対立に巻き込みます」


「巻き込む?」


低い声だった。


「私は、北都工房へ迷惑をかけたくありません。オルドさんにも、メイナさんにも。せっかく指名依頼も増えています。それなのに私のせいで」


「あなたのせいではない」


強い言葉だった。


思わず顔を上げる。


公爵は机の向こうに立っていた。両手は会場図の端に置かれている。紙が、ほんの少し歪んだ。


「人格印を無断使用した者がいるなら、その者の責任です。王宮が不当な圧力をかけるなら、王宮の責任です。あなたが契約を解除しても、その事実は変わらない」


「ですが、私がいなければ」


「あなたがいなければ、誰かが楽になるだけです」


息が止まった。


その言葉は、優しくはなかった。


でも、必要な刃だった。


私は何度も、自分が消えれば丸く収まると考えてきた。


王宮でも。


実家でも。


婚約でも。


私がもう少し我慢すれば。


私が黙れば。


私が便利に働けば。


そのたびに、誰かが楽をした。


私以外の誰かが。


「……それでも」


声が震えた。


「怖いのです」


言ってしまった。


口に出したら、もう戻らない。


「私がここにいることで、公爵家に傷がつくのが怖い。北都工房が、王宮に逆らった場所だと言われるのが怖い。私の仕事が、また誰かの政治に使われるのが怖い」


公爵は黙っていた。


私は書類を握りしめる。


「私は、もう誰かのための駒には戻りたくありません」


やっと言えた。


ずっと胸の奥にあった言葉だった。


王太子妃候補。


侯爵家の娘。


王宮魔導具改革の補佐。


便利な付与師。


どれも私の名前より先に来た役割だった。


今、北都工房で少しずつ取り戻している名前を、また別の役割に包まれるのが怖い。


公爵は、長く息を吐いた。


「ならば、ひとつ方法があります」


私は顔を上げた。


「方法?」


「保護婚約です」


時間が止まった。


暖炉の薪が、小さく鳴る。


私は、その言葉の意味を理解するまでに数拍かかった。


保護婚約。


貴族間で、身柄の安全と家同士の法的盾を作るために結ばれる形式的な婚約。通常の恋愛や家格上昇ではなく、当事者の保護を目的とする。


知っている。


知っているから、喉が詰まった。


「私と、公爵が、ですか」


「そうです」


セドリック公爵の声は落ち着いていた。


「あなたがヴァレンティン公爵家の婚約者となれば、エルンスト侯爵家はあなたを無断で連れ戻せない。王宮魔導具局も、あなたへの直接接触に制限がかかる。博覧会での発言権も強まる」


利点はわかる。


あまりにもわかる。


契約として、盾として、これ以上ないほど合理的だ。


だからこそ、胸が痛んだ。


「期間は、審問終了まで。必要なら更新も」


「必要なら」


私の声は、自分でも驚くほど小さかった。


「公爵にとって、私はやはり必要な人材なのですね」


彼が目を見開いた。


ほんの少し。


すぐにいつもの表情へ戻ったけれど、見てしまった。


「リディア嬢、私は」


「いえ。わかっています。とても合理的です」


私は笑おうとした。


たぶん、笑えていなかった。


「公爵はいつも、私を守るために契約を整えてくださいます。作業時間も、休息も、人格印も。今回も、その一つなのでしょう」


「違う」


短い否定だった。


でも、その先が続かない。


続けられないのかもしれない。


守秘制限。


証拠保全。


身分差。


それとも、単に言葉が見つからないのか。


私は待てなかった。


待つ余裕がなかった。


「私は」


息を吸う。


胸が痛い。


「また、役割として必要とされるのは嫌です」


公爵の手が、少しだけ動いた。


私のほうへ伸びかけて、止まる。


その動きが、余計に苦しかった。


触れられたら泣く。


触れられなくても、泣きそうになる。


「申し訳ありません。保護婚約は、お受けできません」


私は頭を下げた。


深く。


きちんと。


婚約破棄の夜と同じくらい、礼儀正しく。


「工房契約の解除については、法務官を通して改めて」


「解除は受理しません」


公爵の声が、低く響いた。


私は顔を上げる。


「契約上、一方的解除には正当事由が必要です。王宮からの不当圧力は、あなたの過失ではない」


また契約だ。


今はその言葉に、少しだけ傷ついた。


救われてもいるのに。


傷ついてもいる。


「では、今日は失礼いたします」


私は書類を抱え、書庫を出た。


廊下の空気は冷たかった。


公爵は追ってこなかった。


それが彼の優しさだと、頭ではわかる。


でも、胸は勝手に寂しがる。


客室に戻ると、机の上には慈善魔導具の仕様写しが広げられたままだった。


ルシェル侯爵令嬢の発表文。


王宮魔導具局の承認欄。


安定付与責任者として押された、私のものに似た印。


小型暖房魔導具の配列図は、写しのため細部がぼやけている。それでも、危うさはわかった。


出力上昇に対して、停止条件が甘い。


貧民街の家屋は古い木造が多い。部屋が狭く、換気も悪い。


もし、一斉に使われたら。


指先が冷える。


保護婚約の言葉が、まだ耳に残っていた。


必要なら。


必要なら、私は誰かの婚約者になる。


必要なら、私はまた別の肩書きを着る。


違う。


今、考えるべきはそこではない。


私は目を閉じ、深く息を吸った。


私が王都博覧会へ行く理由。


それは、王宮を負かすためだけではない。


ルシェル侯爵令嬢を笑いものにするためでもない。


使う人を守るためだ。


「安全札……」


声に出した瞬間、頭の中で配列がほどけた。


暖房魔導具そのものに手を入れられなくても、外付けの停止札ならどうか。


本体を改竄したと言われないよう、札は触れずに使える形にする。半径二歩以内の過熱だけを拾い、危険域に入った瞬間に出力低下の補助輪をかける。


光核の過熱を感知した時点で、出力を落とす。


使用者に危険を知らせる。


本体配列を変更しないから、王宮側は「改竄」とは言いにくい。


ただし、提出方法を間違えれば握りつぶされる。


公的記録に残る形で。


付与師ギルドと博覧会運営に同時提出。


慈善事業の妨害ではなく、使用者保護の安全補助具として。


私は椅子に座った。


ペンを取る。


手はまだ少し冷たい。


けれど、震えてはいなかった。


「リディア様?」


扉の外から、メイナの声がした。


「入っても?」


「どうぞ」


メイナは盆を持って入ってきた。薬草茶と、焼き菓子が二つ。


私の顔を見るなり、眉を下げる。


「泣きました?」


「泣いていません」


「泣く一歩手前の顔です」


「その分類は細かすぎます」


メイナは机の上の仕様写しを覗き込んだ。


「これ、慈善魔導具ですか」


「ええ。安全札を作ります」


「止めるんですか?」


「止めるのではなく、守ります」


言うと、自分の中でも形が定まった。


「誰が作ったものでも、使う人に危険があってはいけません。だから、提出します。公的記録が残る形で」


メイナの目が明るくなる。


「格好いいです」


「まだ案です」


「案の時点で格好いいです」


私は少し笑った。


胸の痛みは消えていない。


書庫に置いてきた言葉も、公爵の伸びかけた手も、まだ胸の奥にある。


けれど、手は動く。


ペン先が紙を滑る。


安全札試案。


対象、小型暖房魔導具。


目的、過熱時の出力低下および使用者警告。


提出先、付与師ギルド、王都博覧会運営局。


理由、慈善配布品の使用者安全確保。


私は最後に、自分の人格印を押す場所を空けた。


偽られた印ではない。


私が、私の意思で押す印。


夜になり、私は法務室の前に立った。


廊下の奥には、セドリック公爵の姿があった。


こちらに気づいている。


けれど近づいてこない。


私も、まだうまく話せない。


だから、今は書類を出す。


法務官に、安全札の申請書を渡した。


「明朝、付与師ギルドと博覧会運営局へ同時提出をお願いします」


「承知しました」


法務官は書類を確認し、目を細めた。


「これは、よい手です。握りつぶしにくい」


「握りつぶされると困ります」


「公的記録に残します」


その言葉に、私は頷いた。


廊下の向こうで、公爵が静かにこちらを見ていた。


私は頭を下げる。


彼も、わずかに頷いた。


距離はある。


けれど、同じ方向を見ている。


今は、それで歩ける。


王都博覧会まで、あと二日。


私の机には、小さな安全札の試作が三枚、冷たい月明かりを受けて並んでいた。

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