第7話 退職者を戻せない法
王宮西棟の鐘が八つ鳴った。
磨かれた石床に、音が冷たく伸びていく。
三日前に届いた召喚状は、今も私の鞄の中にある。黒い封蝋の跡が、紙の端に硬く残っていた。
審問室の扉は、王宮魔導具局の作業室よりもずっと重そうだった。
私は工具箱の取っ手を握り直す。
中には、控え台帳が入っている。人格印で封印した、私の手元に残った記録。
「リディア嬢」
隣からセドリック公爵の声がした。
「はい」
「証言内容について、ここで助言はできません」
「承知しています」
召喚状に記されていた制限だ。
審問が終わるまで、証言予定者は関係者と証言内容を協議してはならない。公爵家法務官も、同じ廊下にいるだけで、私の言葉を整えてはくれない。
自分で話すしかない。
自分の記録を、自分の声で。
セドリック公爵は、北境防衛を担うヴァレンティン家の当主として公共魔導具の安全監査に発言権を持っている。それでも今は、私の言葉が先に立つ場だとわかって、黙ってくれている。
公爵は、私の鞄を見た。
それから、手元へ視線を落とす。
「水は」
「持っています」
「手は」
「震えていません」
答えたあと、自分の指を見る。
少し震えていた。
公爵も見ている。
けれど、何も言わなかった。
代わりに、廊下脇の小卓に置かれていた温石をひとつ取り、私の近くへ寄せた。
触れろとは言わない。
置いただけ。
それが、かえってありがたかった。
私は温石に指先を当てる。
熱すぎない温度が、皮膚の下へゆっくり染みる。
「行ってまいります」
「はい」
公爵は短く頷いた。
「あなたの言葉で」
それだけだった。
扉が開く。
審問室の中には、細長い机が置かれていた。
正面に審問官が三人。中央は白髪の行政官、左右に付与師ギルド代表と王宮法務官。
右手側には、バスティアン局長が座っている。
黒い礼服に、王宮魔導具局の銀章。
いつもの局長室で見た姿と同じなのに、今日は少しだけ顔色が悪い。
左手側には、私の席が用意されていた。
セドリック公爵は後方の関係者席へ下がる。発言権は、求められるまでない。
振り返らない。
そう決めて、私は席についた。
中央の審問官が書類を開いた。
「リディア・エルンスト侯爵令嬢。王宮魔導具局における職務放棄、慈善魔導具の人格印使用、退職後の保守責任について確認する」
「はい」
「まず王宮魔導具局側の主張を聞く」
バスティアン局長が立ち上がった。
「リディア嬢は、王宮魔導具改革に深く関わる立場でありながら、舞踏会の夜に一方的な退職を宣言しました。その結果、大広間シャンデリア、厨房湯沸かし器、北棟結界灯など、多数の魔導具に不具合が発生しております」
多数の不具合。
その言葉で、王宮の廊下が頭をよぎる。
点滅する結界灯。
ぬるま湯専用になった湯沸かし器。
止まったシャンデリア。
どれも、私がいれば走って直したものだ。
走らなかったから、今ここにいる。
「局としては、彼女が保守情報を十分に引き継がず、王宮設備の安全を危うくしたと判断しております」
私は膝の上で手を組んだ。
怒りはある。
けれど、今は紙を出す場だ。
火ではなく、紙。
中央の審問官が私へ視線を向ける。
「リディア嬢。反論は」
「書類を提出いたします」
私は鞄から封筒を取り出した。
「一つ目は、王宮魔導具局の臨時付与師補佐任用契約書です。契約期間は、舞踏会の三日前に満了しています」
王宮法務官が受け取り、日付と契約印を確認する。
「二つ目は、退職届の受理記録です。舞踏会の夜、バスティアン局長へ提出し、局長室の受領印が押されています」
局長の頬がわずかに動いた。
その印は、彼の部下が慌てて押したものだ。
たぶん、いつものように後で処理するつもりだったのだろう。処理される前に、私は写しを取った。
「三つ目は、保守範囲表です。大広間シャンデリア、厨房湯沸かし器、北棟結界灯について、退職前に提出した安全試験推奨と交換時期の記録をまとめています」
ギルド代表が身を乗り出した。
「控え台帳は」
「こちらです。ただし、人格印封印を解く場合は、ギルド代表と審問官立ち会いを求めます」
私は工具箱を机に置いた。
金具が、こつんと小さく鳴る。
「控えは王宮から持ち出したものではありません。私が付与師として自分の人格印を管理するため、作業ごとに作成した個人控えです」
ギルド代表が頷いた。
「付与師保護法では、人格印を伴う作業控えの保持は本人の権利です」
その一言で、肩から少し力が抜けた。
バスティアン局長が立ち上がる。
「権利を盾に、義務を逃れるつもりか」
中央の審問官が眉を寄せた。
「局長。発言は許可を得てから」
「失礼。しかし、これは単なる雇用契約ではありません。リディア嬢は王太子殿下の婚約者でした。王家を支え、改革に協力する義務があったのです」
きた。
私は、そう思った。
婚約者として。
王家のため。
未来のため。
その言葉は、これまで何度も私の机に仕事を積んだ。
契約書にない仕事も、報酬のない夜間対応も、名誉という薄い布で包めば当然のように差し出された。
中央の審問官が私を見る。
「リディア嬢」
私は背筋を伸ばした。
「婚約者としての務めと、付与師としての職務契約は別です」
声は震えなかった。
「王太子殿下との婚約は、舞踏会の夜に殿下から破棄されました。さらに、それ以前の作業についても、人格印を伴う付与作業は付与師本人の同意と契約範囲によって管理されます。婚約関係を理由に、無期限、無報酬、無制限の保守義務が発生するとは、契約書に記載されておりません」
部屋が静かになった。
バスティアン局長の視線が鋭くなる。
「王家への忠誠はどうなる」
「忠誠は、安全試験を省く理由にはなりません」
ギルド代表が、低く咳払いをした。
笑ったのではない。
たぶん、そうではない。
「局長」
中央の審問官が書類を見比べる。
「任用契約が満了していたこと、退職届の受理記録があること、保守範囲と安全試験推奨が提出されていたことは、現時点で確認できる」
「しかし」
「また、婚約関係を職務契約の延長根拠とする主張は、付与師保護法の趣旨に反する可能性が高い」
バスティアン局長の口が閉じた。
私は、膝の上で手を握る。
胸の奥で何かが熱くなった。
まだ決着ではない。
魔力印の件も、王宮記録の照合も残っている。
けれど、ひとつの鎖が切れる音がした。
婚約者だから。
その言葉で、私を作業台へ縛ることはできない。
「加えて」
中央の審問官は、王宮法務官から受け取った紙を机に置いた。
「慈善魔導具の人格印使用について、第三者鑑定で転写の疑いが出ている。王宮魔導具局の記録管理に関し、調査が必要と判断する」
バスティアン局長が、初めて椅子の背を握った。
「転写の疑いは、まだ疑いでしかありません」
「ゆえに調査する」
審問官の声は冷静だった。
「バスティアン局長。調査終了まで、王宮魔導具局長としての記録水晶閲覧権限および人事指示権を一時停止する」
空気が止まった。
職務停止。
その言葉が、審問室の石壁に当たって返ってくる。
バスティアン局長は、何か言いかけた。
けれど、王宮法務官が先に立ち上がった。
「王宮法務部として、命令を受理します」
銀章をつけた職員が、局長の前に進み出る。
記録水晶の鍵束が、机の上へ置かれた。
重い音だった。
私はそれを見ていた。
罰としては静かだ。
誰も倒れない。
血も流れない。
でも、バスティアン局長の顔から色が引いていくのがわかった。
彼の力は、記録と人事と鍵束にあった。
その鍵が、今、彼の手元から離れた。
「リディア嬢」
審問官が言う。
「あなたの退職後の無償保守義務は、現時点では認められない。今後、王宮があなたへ修理を依頼する場合、付与師ギルドを通し、正規契約を結ぶこと」
「承知しました」
頭を下げた瞬間、目の奥が熱くなった。
泣かない。
ここでは泣かない。
でも、息が少し震えた。
その震えは、怖さだけではなかった。
審問が終わったころ、窓の外は夕暮れだった。
王宮西棟の廊下は長く、石床が足音をよく拾う。
私は工具箱を抱え、扉の外へ出た。
セドリック公爵が待っていた。
彼は何も尋ねなかった。
勝ったのかとも、どうだったとも。
ただ、私の歩幅に合わせて廊下を進む。
沈黙のまま馬車に乗り、王都邸へ戻るころには、夜が降りていた。
応接室の暖炉には火が入っていた。
そしてテーブルの上には、白い湯気を立てる小さな鍋が置かれていた。
「これは」
「夜食です」
公爵が椅子を引く。
鍋の中には、柔らかく煮た芋と鶏肉、北都の薬草が入っていた。香りだけで、体の奥が緩む。
「審問中は、昼食をほとんど取っていなかった」
見られていたらしい。
私は椅子に座った。
匙を手に取ると、急にお腹が鳴りそうになる。
「……今日は」
声を出すと、少し掠れた。
「悔しくて、お腹が空きました」
セドリック公爵の目元が、かすかに緩む。
「よい傾向です」
「悔しいのが、ですか」
「空腹を感じられることが」
私は匙で芋をすくった。
口に入れると、熱が舌に広がる。少し塩気が強い。たぶん、泣きそうな人向けの味だ。
「公爵」
「はい」
「審問中、口を出しませんでしたね」
「出せませんでした」
「それだけですか」
尋ねてから、しまったと思った。
疲れていると、余計なことを聞く。
公爵は少しだけ黙った。
「あなたが、自分で言うべき場だと思いました」
匙を持つ手が止まる。
「私が途中で言えば、王宮は公爵家の圧力だと言える。あなたの証言ではなく、私の政治だと」
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
「今日は、あなたの記録と、あなたの言葉が通った日です」
胸の奥に、温かいものが落ちた。
夜食のせいかもしれない。
暖炉のせいかもしれない。
そういうことにしておきたかった。
私はもう一口、芋を食べた。
「とても悔しかったです」
「はい」
「でも、少しだけ、すっきりしました」
「はい」
「それから、この鍋はおいしいです」
「料理人に伝えます」
公爵の声が、ほんの少しやわらかい。
私は匙を握り直した。
自分の言葉で戦ったあとの夜に、誰かが温かいものを用意している。
それがこんなに心細さを消すのだと、私は知らなかった。
食事が終わるころ、法務官が応接室へ入ってきた。
手には、金の縁取りがされた招待状を持っている。
「王宮より、正式な招待状です」
王宮。
その言葉で、湯気の向こうの空気が少し冷える。
法務官は封を確認し、読み上げた。
「五日後の王都博覧会にて、レオンハルト殿下およびルシェル侯爵令嬢が、新型生活魔導具を発表されるとのことです。ヴァレンティン公爵、ならびにリディア・エルンスト付与師へ、出席要請が届いております」
新型生活魔導具。
私は匙を置いた。
湯沸かし器、結界灯、舞踏靴。
そして、慈善暖房魔導具。
頭の中で、いくつもの配列が不穏に重なる。
セドリック公爵が招待状を受け取った。
金の縁が、暖炉の火を受けてきらりと光る。
「リディア嬢」
「はい」
「行きますか」
私は、少しだけ考えた。
逃げてもいい。
もう、王宮に戻る義務はない。
それは今日、認められた。
だからこそ。
「行きます」
声は静かに出た。
「安全確認が必要ですから」
招待状の金縁が、まるで薄い刃のように見えた。




