第6話 盗まれた魔力印
工房祭の翌朝、北都工房の広場には、まだ焼き栗の甘い匂いが残っていた。
片づけられた屋台の跡に薄く雪が積もり、昨日の足跡を白く埋めている。
私は作業台に座り、封印済みの湯沸かし器を見ていた。
光核のふちに刻まれた、淡い青の魔力印。
私の印。
けれど、私が押したものではない。
「リディア様、お茶です」
メイナが湯気の立つカップを置いてくれた。
中身は北都の薬草茶だ。苦味があるのに、飲み終わるころには体が温まる。
「ありがとうございます」
そう返したつもりだったが、声が少し掠れた。
オルドさんが作業台の向こうで腕を組む。
「睨んでも印は逃げねえぞ」
「逃げられては困ります」
「そりゃそうだ」
軽口に救われることもある。
けれど今日は、胸の奥が重かった。
昨夜のうちに、公爵家法務部が王都から慈善魔導具の仕様写しを取り寄せた。
ルシェル侯爵令嬢が貧民街へ配るという小型暖房魔導具。その承認欄に、私の魔力印らしき署名がある。
王宮魔導具局の局長印。
慈善基金の後援印。
そして、安定付与責任者として、私の印。
ありえない。
「私は署名していません」
何度目かの言葉が、作業台に落ちた。
セドリック公爵は封印箱の横で、写し書類を確認していた。
「承認日は」
「私が王宮を退職した翌日です」
「では、あなたが正規に押すことはできない」
「はい」
退職翌日。
私はこの北都へ向かう馬車の中で眠っていた。公爵の外套を肩にかけられ、温石を握ったまま。
王宮の承認室になど、いるはずがない。
「ギルドに鑑定を求めます」
私は立ち上がった。
椅子が小さく軋む。
「慈善魔導具の配布前に、正式に」
オルドさんが頷いた。
「いい。怒鳴り込みより早い」
「怒鳴り込みたい気持ちはあります」
言ってしまってから、少し驚いた。
前なら飲み込んだ言葉だ。
怒ってはいけない。
感情的になってはいけない。
令嬢らしく、婚約者らしく、補佐らしく。
でも、今は違う。
私の名前で、私の印で、誰かの暮らしに危険なものが配られようとしている。
怒っていい。
ただし、怒りの使い道は選ぶ。
「私は署名していません。鑑定を求めます」
声に出すと、胸の中の火が、少しだけまっすぐになった。
セドリック公爵が通信水晶の前に立つ。
「付与師ギルド北都支部へ。リディア・エルンスト付与師より、人格印鑑定の正式申請を行う」
水晶が淡く光る。
しばらくして、応答の青い輪が浮かんだ。
けれど、先につながったのはギルドではなかった。
王宮魔導具局の紋が、赤く割り込んでくる。
オルドさんが低く舌打ちした。
「早耳だな」
水晶の奥に、バスティアン様の顔が現れた。
いつもより髪が乱れている。背後の棚には、記録水晶がいくつも並んでいた。
「リディア・エルンスト侯爵令嬢。慈善事業に水を差すつもりか」
挨拶もない。
私はカップを置き、まっすぐ水晶を見た。
「私の人格印が、本人同意なく使用された疑いがあります。付与師保護法に基づき、鑑定を求めます」
「本人同意なら記録にある」
「拝見できますか」
「王宮内部記録だ。外部の者に見せる義務はない」
外部の者。
その言葉が、思ったより胸に刺さらなかった。
私はもう、外部の者なのだ。
それは寂しさではなく、境界線だった。
「では、第三者鑑定を」
「王宮の記録水晶より、北都の鑑定士を信じると?」
「記録水晶の管理権限は、局長にあります」
バスティアン様の目が細くなる。
「何が言いたい」
「管理者のいる証拠と、管理者のいない証拠を照合する必要があるという意味です」
言い終わると、工房の空気が少し張った。
私は今、はっきり疑っている。
そう見えるだろう。
構わない。
疑うだけの理由がある。
水晶の奥で、別の声がした。
「バスティアン様、わたくしから」
画面が揺れ、ルシェル侯爵令嬢が映る。
薄水色のドレス姿だった。朝から整いすぎているほど整っている。
「リディア様。どうか落ち着いてくださいませ」
その声は、昨日の祭の眠り灯よりも柔らかかった。
「これは、寒さに震える方々へ暖房魔導具を届けるための慈善です。あなたの印があるなら、それはあなたの技術も民のために使われるということ。素晴らしいことではありませんか」
メイナが隣で息を呑む。
私は、手を握った。
温石はない。
けれど、手の湿布はまだ残っている。
「私の同意なく使われたなら、素晴らしいことではありません」
ルシェル嬢の目が揺れた。
「でも、配布を遅らせれば、困る方々が」
「危険な魔導具を配れば、もっと困ります」
「危険と決まったわけでは」
「だから鑑定します」
水晶の向こうで、ルシェル嬢が唇を引き結んだ。
悲しそうな顔だった。
社交界なら、あの表情だけで私は悪者になるのかもしれない。
善意を疑う冷たい令嬢。
慈善を妨げる嫉妬深い元婚約者。
でも、私はもう、その札を自分で貼り直さない。
「配布前の安全確認です。ルシェル侯爵令嬢の善意を守るためにも、必要な手続きかと」
そう言うと、彼女は一瞬だけ返答に詰まった。
善意を盾にするなら、善意を守る手続きは拒みにくい。
バスティアン様が割って入る。
「勝手にしろ。ただし、慈善事業を妨害した事実は記録する」
「鑑定申請の受理記録も残ります」
私が答えると、通信は一方的に切れた。
赤い光が消え、工房に薪の音だけが戻る。
膝の力が抜けそうになった。
けれど、座らなかった。
セドリック公爵がこちらを見る。
「王都へ行く」
低い声だった。
「公爵?」
「今のやり取りだけで十分だ。王宮魔導具局に、直接証拠保全を求める」
彼の手が、外套の留め具へ伸びる。
本気だ。
馬を出し、王都へ向かい、局長の前で証拠を押さえるつもりなのだろう。
一瞬、頼りたいと思った。
全部任せてしまいたい。
公爵の地位と法務部と、あの静かな圧で、王宮の扉を開けてもらえたらどれほど楽か。
けれど、それではまた、私の手元から私の証明が離れていく。
「お待ちください」
私の声に、公爵の動きが止まった。
「私が証明します」
言い切ると、怖さが後から来た。
でも、取り消さなかった。
「これは私の人格印です。盗まれたなら、まず私が、私のものではないと証明したい」
「あなた一人に背負わせるつもりはない」
「一人ではありません」
私は工具箱に触れた。
「控え台帳があります。ギルド鑑定も申請します。公爵家には、証拠保全の手続きをお願いします。けれど、王都へ怒鳴り込むのは、今ではありません」
公爵は黙って私を見た。
灰色の目は冷たくない。
ただ、何かを押し殺しているように暗い。
彼は怒っている。
契約者を守るために。
公爵領の工房を巻き込まれたから。
そう考えれば自然なのに、胸の奥が少し騒いだ。
彼は、私の顔色を見ている。
工具箱でも、書類でもなく、私を。
やがて公爵は、外套の留め具から手を離した。
「わかりました」
それだけだった。
それだけで、私は息を吐いた。
彼は代わりに、法務官へ指示を出す。
「証拠保全の申立書を作成。鑑定が終わるまで、慈善魔導具の配布延期をギルドから勧告させる。リディア嬢の控え台帳は、公爵家金庫ではなく、本人封印のままギルドへ運ぶ」
「承知しました」
「リディア嬢」
「はい」
「あなたの証明を、こちらが奪うことはしない」
その言葉に、喉の奥が詰まった。
「ですが、証明の場は整えます」
私は頷いた。
「お願いします」
午後、付与師ギルド北都支部の鑑定室に入った。
鑑定士エヴァさんは、細い銀鎖の眼鏡をかけた女性だった。年齢は私より少し上に見える。黒い髪をきっちり結い、机の上には拡大鏡と薄刃の鑑定札が並んでいる。
「リディア・エルンスト付与師ですね」
「はい」
「噂より顔色が悪いです」
いきなりだった。
メイナが後ろで「噂ってそこなんですか」と小さく呟く。
エヴァさんは気にせず、封印箱へ手をかざした。
「人格印鑑定は、甘い期待をしないでください。似ている、似ていない、だけでは法的決着に足りません。転写、模倣、本人作業時の印の再利用。面倒な抜け道はいくらでもあります」
「承知しています」
「なら結構」
彼女は封印を確認し、湯沸かし器の光核を台座に乗せた。
鑑定札が青く光る。
私の魔力印が、薄い煙のように浮かび上がった。
自分の印を見るのは、いつも少し変な気分だ。
癖のある筆跡を見せられているような、声を瓶に詰められたような。
エヴァさんは拡大鏡を覗き込む。
長い沈黙。
部屋の温石が、控えめに鳴った。
「……継ぎ目がありますね」
私は息を止めた。
「継ぎ目?」
「本人が一度で押した印では、魔力の流れは根元から先端まで滑らかです。これは外周が薄く重なっている。紙の印章で言えば、乾いた署名の上に濡れた署名をなぞったようなもの」
エヴァさんは鑑定札を一枚追加した。
青の光に、かすかな白い線が混じる。
たしかに、印の端が不自然に揺れていた。
「転写ですか」
「疑いは濃いです。ただ、完全証明には原本台帳が必要です。あなたがその日にどこで何に署名したか。王宮側の承認記録と照合しないと、審問では押し切れません」
原本台帳。
胸の奥が重くなる。
私の控え台帳はある。
けれど王宮側の原本は、バスティアン様の管理下にある。
エヴァさんは眼鏡を押し上げた。
「控えを持っているのは幸運ですね」
「幸運ではありません」
私は言った。
「必要だったから、残しました」
エヴァさんの口元が、少しだけ上がった。
「いい答えです。付与師は、自分の印を疑う癖を持ちなさい。善意より記録。信頼より照合。人間関係は壊れると泣きますが、記録は泣きません」
強い人だ。
少し、好きになりそうだった。
鑑定室を出るころには、外が暗くなっていた。
北都工房へ戻る馬車の中で、私は工具箱を膝に抱えた。
セドリック公爵は向かいに座り、何も言わない。
沈黙が、今日はありがたかった。
言葉にすると、今にも怒りが形を崩しそうだったから。
工房へ戻ると、法務官が待っていた。
手には、王宮の黒い封蝋が押された書状。
「リディア様宛です」
差し出された瞬間、指先が冷えた。
私は封を切る。
中の文字は、整いすぎるほど整っていた。
王宮予備審問への召喚。
対象は、リディア・エルンスト侯爵令嬢。
議題は、慈善魔導具に関する人格印使用の正当性、王宮魔導具局の保守記録、ならびに退職後の職務範囲。
出頭日は三日後。
読み進めたところで、目が止まった。
証言予定者は、審問終了まで関係者との証言内容に関する協議を制限する。
私は紙を持つ手に力を入れた。
セドリック公爵が、低く尋ねる。
「何と」
私は書状を彼へ向けた。
「王宮へ、呼ばれました」
暖炉の火が、紙の端を赤く染める。
その赤が、王宮の封蝋と同じ色に見えた。
「三日後です。私が、証言します」
工房の温石が、ひとつ静かに鳴った。
まるで遠い鐘のように。




