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無能と捨てられた付与師、退職したら王宮が止まりました  作者: 九葉(くずは)


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5/12

第5話 工房祭と踊る靴

署名していない私の魔力印を見つけてから、二日が経った。


疑惑の湯沸かし器は、公爵家法務官と付与師ギルドの立ち会いで封印された。鑑定には数日かかる。


その間にも、北都の朝は来る。


そして工房祭も来る。


「リディア様、眠り灯の札、こちらで合っていますか?」


メイナが両手に小さな木札を抱えて走ってきた。


工房前の広場には、朝から屋台が並んでいる。焼き栗の匂い、厚い羊毛の手袋、煮込み鍋の湯気。雪はやんでいたが、空気は頬を刺すように冷たい。


「はい。青い紐が大人用、白い紐が子ども用です。子ども用は、光量を三段階までにしています」


「怖い夢を見たとき用ですね」


「ええ。急に明るくなりすぎると、かえって目が覚めますから」


メイナは感心したように頷いた。


「王宮の魔導具って、何でもきらきら光るものだと思っていました」


「私も、そういうものばかり作っていました」


口にしてから、少しだけ胸がちくりとした。


王宮では、目立つことが重んじられた。


大広間を照らすシャンデリア。客を驚かせる音楽噴水。社交界で話題になる舞踏靴。


誰かの夜を静かに守る灯りは、地味だと後回しにされた。


でも、今朝の広場では違う。


年配の女性が温石を両手で包み、ほう、と息を吐いた。


「まあ、これはいいねえ。熱すぎない。膝に置いても痛くならないよ」


隣の男性は、疲労軽減の付与を入れた農具の柄を握っている。


「腕に響かねえ。これなら雪かきも少し楽になる」


メイナが得意げに胸を張った。


「リディア様の付与です!」


「メイナさん、声が大きいです」


「大きく言う日です。工房祭ですから」


返す言葉がなく、私は手元の温石を布で磨いた。


大きく言われることに、慣れていない。


王宮では、私の名前は小さな記録欄の端にあるものだった。誰かの発表の後ろ、誰かの計画の下、誰かの栄誉の影。


それでいいと思っていた。


けれど、目の前の女性が温石をもう一つ買い足しながら言った。


「寝たきりの夫にも持っていくよ。夜中に手が冷えると、眠れなくてねえ」


私は、ゆっくり頷いた。


「使う前に布で包んでください。直接長く当てるより、じんわり温まります。もし熱すぎると感じたら、こちらの面を上に」


「親切だねえ」


その一言が、胸に沁みた。


派手ではない。


拍手喝采もない。


でも、この温石は誰かの夜を少し楽にする。


眠り灯は、子どもの怖い夢を薄くする。


疲労軽減の農具は、雪かきのあとに残る痛みを減らす。


私は、こういうものを作りたい。


そう思ったら、工具箱の重さが少し変わった。


過去を詰め込んだ箱ではなく、これから使う道具箱に。


「リディア嬢」


セドリック公爵の声に振り返る。


彼は広場の端で、領民から差し出された温石を持っていた。困った顔ではない。だが、真剣に困っている人のように見える。


「これは、どう返せばいい」


「どう、とは?」


「『公爵様も冷えますでしょう』と渡された」


見ると、温石には小さな布袋がかけられていた。刺繍で、不器用な雪だるまが縫われている。


私は笑ってしまいそうになった。


「受け取ればよろしいかと」


「対価は」


「贈り物です」


「公爵が無償で受け取ると、後で面倒が」


「では、笑ってください」


セドリック公爵が黙る。


私は自分で言ったくせに、少し焦った。


「いえ、無理にとは」


彼は温石を片手に、贈り主らしい老婆のほうを向いた。


そして、とても小さく、けれど確かに口元を緩めた。


老婆が目を丸くした。


次に、ぱっと笑う。


「まあ、公爵様が笑ったよ!」


広場のあちこちで、なぜかざわめきが広がった。


メイナが私の袖を引く。


「リディア様、今のすごいです。北都七不思議が一つ減りました」


「七つもあるのですか」


「公爵様が笑わない、親方が髭に工具を隠している、冬の保存箱にたまに漬物の声がする」


「最後は故障です」


「ですよね!」


そんな会話をしているうちに、胸の重さが少しずつほどけていく。


魔力印のことは気になる。


王宮が何をしているのかも。


けれど、今日は工房祭だ。


私は今、ここで人の役に立つものを作っている。


昼過ぎ、広場の端に置かれた通信水晶が薄く光った。


公爵家法務官が応対し、しばらくして肩を震わせた。


笑いをこらえている。


嫌な予感と、少しだけ楽しそうな予感が同時にした。


「どうしました?」


私が尋ねると、法務官は眼鏡を押し上げた。


「王都より、社交筋の報告です。本日、王宮で新作魔導具の発表舞踏会が開かれたそうです」


セドリック公爵の顔が、わずかに険しくなる。


「王宮魔導具局の?」


「はい。レオンハルト殿下が主催され、局長も同席。新型の舞踏靴付与を披露したとのことです」


舞踏靴。


私は眉をひそめた。


靴付与は難しい。


人の体重、歩幅、足首の癖、音楽への反応。安全に動かすには、使用者に合わせた微調整が必要だ。見栄えだけで作ると、足が音楽に持っていかれる。


「まさか、即興反応型ですか」


法務官が紙面を見た。


「説明では、舞踏曲を感知して最適な足運びを補助する、と」


私は額に手を当てそうになった。


それは、三年前に私が試作して没にした配列だ。


理由は簡単。


曲に靴が先に反応し、人間が置いていかれる。


「誰が履いたのですか」


「レオンハルト殿下です」


広場が静かになった。


オルドさんが、遠くで売り物の農具を持ったまま固まっている。


法務官は咳払いした。


「第一曲目は成功。第二曲目で靴が拍を取りすぎ、第三曲目で加速。第四曲目の途中から、殿下の足だけが舞踏会を続行されたそうです」


「足だけが」


メイナが小声で繰り返す。


「はい。上半身は威厳を保とうとなさったようですが、足元は非常に勤勉だったと」


駄目だ。


想像してはいけない。


王宮の大広間。


完璧な礼服のレオンハルト殿下。


厳かに微笑もうとする顔。


その下で、舞踏曲に忠実すぎる靴が、細かなステップを刻み続ける。


「怪我は」


私は何とか、それだけ確認した。


「ありません。安全停止は作動したそうです。ただし、停止条件が『曲の終了』に設定されていたため、楽師が驚いて演奏をやめ損ねたと」


オルドさんが噴き出した。


続いてメイナが笑い、周りの職人たちにも広がる。広場の空気が一気に軽くなった。


私は笑ってはいけないと思った。


王太子殿下だ。


元婚約者だ。


礼を欠いてはいけない。


そう思うのに、唇が震える。


「安全停止が作動したなら、よかったです」


どうにか言った。


オルドさんが涙目で腹を押さえる。


「嬢ちゃん、真面目か。そこは笑っていいぞ」


「笑っていません」


「肩が揺れてる」


「寒いので」


「今日は暖房具だらけだ」


逃げ場がなかった。


私はとうとう、少し笑ってしまった。


ほんの少しのはずだった。


けれど広場の笑い声に混じると、自分の笑いがどこまでかわからなくなった。


王宮では、何かが失敗するたび私が走った。


失敗をなかったことにするために。


誰かの面目を守るために。


けれど今日は、私が走らなくても誰も怪我をしていない。


そして、王宮の失敗は、王宮のものとして笑われている。


それは意地悪な喜びではなかった。


ただ、私の背中から、知らない荷物が一つ落ちたような軽さだった。


夕方、工房祭の広場に楽師が出た。


北都の祭の締めは、短い輪舞らしい。子どもも老人も、職人も商人も、円になってゆっくり踊る。


私は温石の在庫を数えていた。


忙しいふりではない。


本当に忙しい。


ただ、踊る場所に出る勇気がなかった。


「リディア嬢」


振り向くと、セドリック公爵が立っていた。


昼間、老婆からもらった雪だるま袋の温石を、まだ持っている。


「一曲、お願いできますか」


私は台帳を落としそうになった。


「私と、ですか」


「他にリディア嬢はいません」


「公爵は、領主として皆様と踊られるべきでは」


「すでに三人に踏まれました」


「踏まれたのですか」


「子どもの踊りは予測が難しい」


真面目な顔で言うので、私はまた笑いそうになった。


差し出された手を見る。


王宮で、レオンハルト殿下に手を取られたことは何度もある。歩幅も角度も、すべて決まっていた。間違えれば目立つ。遅れれば囁かれる。


踊りは、ずっと試験のようだった。


「私は、あまり上手ではありません」


「なら、ゆっくり踊ります」


「足を踏むかもしれません」


「北都の子どもよりは軽いでしょう」


「比較対象が」


言いながら、私は手を重ねた。


セドリック公爵の手は温かかった。


湿布を巻いた私の右手に触れないよう、彼は左手の位置を少し下げる。誰にも気づかれないほど自然に。


でも、私は気づいた。


音楽が始まる。


公爵は、本当にゆっくり歩いた。


私の歩幅に合わせて、半歩待つ。曲の拍ではなく、私の呼吸を見ているような間合いだった。


「王宮の踊りと違いますね」


私が言うと、公爵は短く頷いた。


「北都の踊りは、転ばなければ合格です」


「寛大です」


「冬道で転ばないのは重要です」


また真面目だ。


なのに、胸がくすぐったい。


広場の灯りが揺れる。


温石を買った人たちが笑っている。眠り灯を抱えた子どもが、母親の袖を引いている。疲労軽減農具を試した男性が、まだ柄を握って感心している。


ここに、私の作ったものがある。


ここに、私の名前を呼ぶ人がいる。


そして目の前の人は、私を急かさない。


曲が終わるころ、私は息が少し上がっていた。


公爵は手を離す前に、ほんのわずか身をかがめた。


「足は踏まれませんでした」


「それは、よかったです」


「ただ」


「ただ?」


「もう一曲頼む理由がなくなった」


真顔で言われて、私は固まった。


言葉の意味が、少し遅れて届く。


頬が熱くなる。


「理由が必要なのですか」


「必要なら、考えます」


「……公爵は、ときどき非常に不器用です」


「自覚はあります」


それでも彼は、手を離さなかった。


もう一曲、楽師が弦を鳴らす。


私は台帳のことを思い出し、次に忘れた。


そのとき、通信水晶が再び光った。


法務官が受け、今度は笑わなかった。


紙面を確認する表情が硬い。


セドリック公爵の手が、静かに離れる。


「何がありました」


公爵が問う。


法務官は私たちのほうへ歩いてきた。


「王都からの公的発表です。ルシェル侯爵令嬢が、慈善事業として貧民街へ小型暖房魔導具を配布すると表明しました」


私は、息を止めた。


暖房魔導具。


貧民街。


未検証品を配るのは危険だと、あれほど。


「製造元は」


声がかすれた。


法務官が答える。


「王宮魔導具局です。発表文には、生活魔導具改革の成果とあります」


広場の音楽が、少し遠く聞こえた。


手のひらには、さっきまで公爵の体温が残っている。


けれど指先だけが、急に冷たくなった。


雪はもう降っていない。


それなのに、王都のほうから冷たい風が吹いた気がした。

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