第4話 王宮魔導具局のひび
王宮の湯沸かし器が、すべてぬるま湯専用になってから三日目の朝。
北都工房には、雪と一緒に王都の噂が届いた。
「王宮魔導具局、えらい騒ぎだな」
オルドさんが、油のついた指で新聞をつまみ上げる。
作業台の上には、昨日から調整している保存箱が置かれていた。内側の霜は取れ、結露防止の逃げ溝も安定している。
私は仕上げの人格印を押す直前で、顔を上げた。
「何か、また故障が?」
「故障もある。噂もある」
嫌な組み合わせだった。
オルドさんは新聞を読み上げる。
「王宮大広間の新型シャンデリア停止、厨房湯沸かし器の不具合、北棟結界灯の点滅。いずれも、元担当者であるエルンスト侯爵令嬢が退職時に保守情報を隠した可能性がある、と」
刻印針が、指の中で冷えた。
隠した。
その言葉だけが、雪より冷たく胸に落ちる。
私は深く息を吸った。
保存箱の銀縁に映った自分の顔は、思ったより青い。
「保守情報は、提出しています」
声が硬くなった。
「三日前の光核交換報告も、低温停止装置の試験記録も、北棟結界灯の点検表も、すべて局長室へ提出済みです」
「だろうな」
オルドさんは新聞を丸めた。
「だから厄介なんだろ。紙があっても、見なかったことにする奴はいる」
工房の扉が開き、冷たい風と一緒にセドリック公爵が入ってきた。
黒い外套の肩に、白い雪が点々とのっている。
「王都から、同じ内容の問い合わせが三件来ています」
彼は手袋を外しながら言った。
「いずれも、リディア嬢が保守情報を持ち出したのかという確認です」
「持ち出してはいません」
私は即答した。
それから、工具箱へ視線を落とす。
「控えは持っています。ですが、原本は提出済みです」
「控えを持つのは付与師の権利です」
セドリック公爵の返答は早かった。
その早さに、少しだけ呼吸が戻る。
王宮にいたころは、何かを尋ねられるたび、まず自分が疑われている気がしていた。今も癖のように背筋が固くなる。
けれど公爵は、私の言い訳を待っている顔ではなかった。
事実を聞いて、次の手順を決める人の顔だ。
「反論文を出しましょう」
私は言った。
「提出日、提出先、各魔導具の保守範囲を明記します。局長名も」
「感情を入れるか」
「入れません」
言いながら、胸の中で別の声が暴れた。
入れたい。
あんなに書いたのに。
何度も止めたのに。
徹夜で点検したものを、どうして私の妨害にされなければならないのか。
けれど、怒りのままに書けば、相手の欲しい形になる。
ほら、感情的だ。
ほら、嫉妬深い。
ほら、王宮から外された腹いせだ。
そんな札を貼らせる必要はない。
「付与師ギルド規約に沿って、一般公開可能な範囲だけ出します」
私は作業台の端に新しい紙を置いた。
「王宮内部の機密配列は伏せます。ただし、安全停止が作動した理由、保守契約が満了していること、即日修理が危険な理由は公開できます」
オルドさんがにやりと笑う。
「いいな。石の喉より、紙の刃のほうが鋭い」
「刃にはしません」
私はペンを取った。
「説明書にします」
説明書。
その言葉を口にした瞬間、少しだけ落ち着いた。
私はずっと、説明書を書いてきた。
光核を外す前には冷却すること。
保温配列を重ねると低温停止が起こること。
安全溝は見栄えが悪くても削らないこと。
守られない説明書は、ただの紙だ。
でも、守りたい人の手に届けば、紙は事故を止められる。
セドリック公爵が向かいに座った。
「確認します。公爵家の名は出す必要があるか」
「ありません。付与師ギルドから出します。私個人の署名と、人格印で足ります」
「批判があなた個人に向く」
「すでに向いています」
私がそう言うと、公爵は黙った。
ほんの一瞬、暖炉の火が彼の灰色の瞳に映る。
「ならば、公爵家は公開後の問い合わせ窓口を引き受けます」
「それでは、公爵家まで巻き込まれます」
「問い合わせ窓口です」
「ですが」
「契約書の第七条。業務上発生する外部照会への対応は、雇用者側が一次窓口となる」
また契約書だ。
私は思わず口元を押さえた。
「公爵は、契約書で人を黙らせるのがお得意ですね」
「黙らせたいわけではありません」
公爵は真面目に返した。
「あなたに作業をさせたい」
「それは、同じでは?」
「違います。噂への対応は、付与ではない」
真顔で言われると、反論しにくい。
たぶん彼は、本気でそう分けている。
私という人間を守るためではなく、契約した付与師に付与をさせるため。
そう考えれば、納得できる。
納得できるのに、胸の奥が少し温かいのは困った。
私は紙に表題を書いた。
王宮生活魔導具に関する保守範囲と安全付与のご説明。
長い。
でも、正確だ。
「まず、シャンデリアから書きます」
「湯沸かし器も頼む」
オルドさんが笑いながら椅子を引いた。
「ぬるま湯専用の理由は、俺も知りたい」
「低温停止を解除しようとして、保温配列を全機へ均一化したのだと思います。熱湯を作るには上昇配列と停止配列の均衡が必要ですが、保温だけを強めると」
私はそこで口を閉じた。
説明しすぎると、悪用される。
公爵が小さく頷いた。
「そこは伏せましょう」
「はい。公開範囲では、三日前に光核交換と安全試験を推奨したことだけ記載します」
「妨害ではなく、事前警告か」
「はい」
ペン先が走り始める。
不思議だった。
怒りはまだある。
悔しさも、恥も、全部ある。
けれど紙の上で事実を並べると、それらは少しずつ形を変えた。
私を刺す棘ではなく、私を守る柵になる。
その日の夕方、説明書は付与師ギルドの掲示板に出された。
翌朝には、王都の写し屋が複製したものが社交街へ広がった。
そして昼過ぎ、王宮魔導具局は自力修理を始めたらしい。
「北棟結界灯が、点滅から瞬きになったそうです」
公爵家法務官からの通信を受けたメイナが、困った顔で報告した。
メイナは北都工房の若手整備士で、栗色の髪を布でまとめている。昨日から私の作業を隣で見ているが、質問がまっすぐで答えやすい。
「瞬き?」
オルドさんが聞き返す。
「はい。通行人が通るたび、結界灯が一斉にぱちぱちっと。王宮騎士の方が『目が合う』と言っているとか」
想像してはいけない。
北棟の長い回廊。
壁に並ぶ結界灯。
歩くたびに、ぱちぱちと瞬く光。
私は唇を引き結んだ。
「安全性は?」
「明るさが不安定なだけで、結界は落ちていないそうです」
「なら、急ぎではありません」
自分で言って、少し驚いた。
王宮にいたころなら、今の報告だけで椅子を蹴っていた。
結界灯が瞬くなんて恥だ。王族の目に入る前に直さなければ。そう考えて、食事も休憩も削ったはずだ。
でも今は、まず安全性を確認できた。
そして急ぎではないと言えた。
メイナが目を輝かせる。
「リディア様、格好いいです。私なら笑って終わりです」
「笑って終わってもいい不具合です」
「では、笑います」
メイナは遠慮なく笑った。
つられて、オルドさんも笑う。
私も少しだけ、笑ってしまった。
王宮の誰かには悪いが、結界灯に見つめられる回廊は、たぶんかなり居心地が悪い。
「なお、ルシェル侯爵令嬢が昨夜の茶会で、リディア様は責任を放棄して北へ逃げた、とおっしゃっていたそうです」
メイナが付け足した。
笑いが、ふっと消える。
責任。
また、その言葉だ。
私は手元の保存箱に人格印を押した。
淡い青の印が、銀縁にすっと沈む。
「説明書の写しは、茶会の参加者にも届いていますか」
「はい。公爵家経由で、希望者には」
セドリック公爵が、いつの間にか工房の入口に立っていた。
「では、それで十分です」
私は言った。
ルシェル嬢が何を語るかは、私には止められない。
けれど、聞いた人が何を見るかは変えられる。
涙ながらの噂か。
日付と契約印のある説明書か。
どちらを信じるかは、その人たちの問題だ。
少なくとも私は、もう茶会の扇に怯えて夜を潰さなくていい。
午後になると、工房の前にギルド便の橇が三台止まった。
荷台には、故障品が積まれている。
温石、保存箱、結界灯、小型湯沸かし器。
王宮からではない。
地方貴族の家名が、それぞれ荷札に記されていた。
「ずいぶん来たな」
オルドさんが荷札を読んでいく。
「ラング子爵家、ヘイム男爵家、フォルク伯爵家。どれも王宮魔導具局に保守を頼んでた家だ」
メイナが一通の手紙を広げる。
「こちら、フォルク伯爵家からです。『王宮局の発表を信じていたが、説明書を読み、当家の保存箱にも同じ安全停止があることを知った。今後は設計者本人の見解を伺いたい』だそうです」
設計者本人。
その言葉に、指が止まる。
私のことだ。
名前も、続けて読まれた。
「リディア・エルンスト付与師への指名依頼」
工房が、急に静かになった。
私は何を言えばいいのかわからず、荷札を見つめる。
王宮では、私の名前は小さかった。
成果発表では王宮魔導具局。
改革の名義はレオンハルト殿下。
管理責任はバスティアン様。
私の名前は、細い記録欄の端にあるだけだった。
それでいいと思っていた。
思おうとしていた。
「受けても、よろしいのでしょうか」
我ながら間の抜けた声だった。
オルドさんが大きく顔をしかめる。
「指名されてる本人が何を言ってる」
「王宮局との関係が」
「切れてる」
「私の立場が」
「付与師」
「侯爵家には」
「今、ここにいない」
ぽんぽん返されて、私は言葉をなくした。
メイナが小声で「オルド親方、強い」と呟く。
セドリック公爵は荷札を確認し、法務官へ何か指示を出した。
ほどなくして、新しい契約書が作業台に置かれる。
私はその一枚目を見て、息を止めた。
受注者欄の先頭。
リディア・エルンスト付与師。
その下に、ヴァレンティン公爵領北都工房。
私の名前が、工房より先に書かれていた。
「公爵」
「指名依頼です」
「でも、工房の契約なら」
「君を名指しした仕事だ。君の名を隠す契約は受けない」
淡々とした声だった。
それだけなのに、胸の奥で熱が広がる。
「指名料も入っています」
「指名料」
「専門職への正当な対価です。値切らせません」
公爵は当たり前のように言った。
私は契約書へ視線を落としたまま、しばらく動けなかった。
正当な対価。
私の名前。
私の仕事。
どれも、知っている言葉のはずなのに、自分の手元に置かれると、急に重みが変わる。
「……ありがとうございます」
「礼は不要です。契約ですから」
また、それだ。
でも今は、その言い方に少し安心した。
契約なら、気まぐれではない。
同情でもない。
私が失敗すれば責任を負う。成果を出せば対価を受ける。
それは怖い。
でも、息ができる怖さだった。
私は契約書を両手で持ち、ゆっくり読んだ。
勤務時間。
安全試験。
指名料。
人格印の使用条件。
どこにも、無償の文字はない。
「受けます」
声は小さかったが、震えなかった。
公爵が頷く。
「では、初回はフォルク伯爵家の保存箱から」
「はい」
メイナが嬉しそうに故障品を運んでくる。
その中に、小さな湯沸かし器が一つあった。
フォルク伯爵家の荷札がついている。王宮局経由で納品された品らしい。
私は何気なく裏面を見た。
光核のふちに、薄い青の魔力印がある。
指が止まった。
「どうしました?」
メイナが覗き込む。
私は湯沸かし器を作業台の明るい場所へ置いた。
魔力印は小さい。
けれど、見間違えるはずがなかった。
私の印だ。
リディア・エルンストの人格印。
ただし、私はこの型番の湯沸かし器に触れた覚えがない。
納品日を見る。
私が三日間、王宮魔導具局の作業室に泊まり込んでいた時期だ。たしかに忙しかった。記憶が曖昧な夜もある。
でも、この光核の組み方は違う。
私なら、ここに印は押さない。
「公爵」
声が低くなった。
セドリック公爵がすぐに近づく。
「これは、私の魔力印です」
私は湯沸かし器から目を離せなかった。
「ですが、私が署名したものではありません」
工房の温石が、ぱちりと鳴った。
雪の朝より冷たいものが、作業台の上に置かれていた。




