第3話 残業しない練習
王宮厨房の湯沸かし器が全停止したという通信を聞いた翌日、私はヴァレンティン公爵領の北都工房にいた。
窓の外には、薄い雪が舞っている。
王都ではまだ秋の終わりだったのに、北の空気は一足早く冬の舌を出していた。吐く息は白く、工房の壁際には大小さまざまな温石が籠に積まれている。
石が、こんなに尊ばれている場所。
それだけで、少し胸が落ち着いた。
「寒いか」
隣で、セドリック公爵が尋ねた。
「いいえ。温石の配置がいいので」
「配置?」
「入口側は出入りで冷気が入りますから、高出力のものを低い位置に。作業台側は手元が冷えないよう、弱めのものを左右に分けています。とても丁寧です」
そう答えると、工房の奥から低い笑い声がした。
「ほう。初見でそこまで見るか」
振り向くと、白髪混じりの大柄な男性が、油の染みた前掛け姿で立っていた。
セドリック公爵が短く紹介する。
「工房主のオルドだ」
「オルドと呼べ。公爵様の肩書きより、壊れた保存箱のほうがここでは偉い」
「……リディア・エルンストです。本日よりお世話になります」
礼をすると、オルドさんは片眉を上げた。
「王宮から来た令嬢って聞いてたが、手袋が作業用だな」
「舞踏会用の手袋では、光核の溝に糸が引っかかりますので」
「気に入った」
気に入られたらしい。
少しだけ肩の力が抜ける。
オルドさんは作業台の上に、黒い温石を六個、銀縁の保存箱を三個並べた。
「今日見るのはこれだけだ。温石は出力むら、保存箱は結露。急ぎは左端の二つ」
「すべて本日中に確認します」
私が即答すると、工房の空気が一瞬止まった。
オルドさんがセドリック公爵を見る。
セドリック公爵は私を見る。
なぜ二人とも、故障品ではなく私を見るのだろう。
「リディア嬢」
「はい」
「今日見るのは、急ぎの二つだけでいい」
公爵の声は、契約書の文字と同じくらいまっすぐだった。
「ですが、残りも同じ棚にあります。状態確認だけなら」
「今日見るのは二つだ」
「出力むらが広がる前に」
「二つだ」
二度目で、私は口を閉じた。
王宮なら、ここで「使えない」と言われる。仕事が見えているのに手を出さないなど、怠慢だと叱られる。
けれど公爵は、叱るどころか作業台の端に小さな砂時計を置いた。
「二時間で休憩する」
「二時間で終わらなければ」
「休憩する」
「……はい」
オルドさんが喉の奥で笑った。
「公爵様がこんなにしつこいのは珍しい。嬢ちゃん、諦めろ」
諦める、という言葉は苦手だ。
けれど今は、少し違って聞こえた。
私は一つ目の温石を手に取った。
北都の温石は、王宮で使われる装飾用とは違う。見た目より持続と安定を重んじる、実用品だ。表面に刻まれた低温配列は古いが、よく磨かれている。
持ち主が毎朝、布で拭いているのだろう。
そういう魔導具は、直すときに少し緊張する。
使われているものは、使っている人の暮らしを連れてくるから。
「出力が右へ寄っています」
私は刻印針を取り、温石の側面に魔力を流した。
青い線が、石の内側で細く揺れる。
「中心溝に雪水が入っていますね。乾燥不足ではなく、外気温との温度差が原因です。溝を深くするより、逃げ道を増やしたほうがいい」
「わかるのか」
オルドさんが身を乗り出す。
「音が鈍いので」
「音?」
「はい。よく温まる石は、魔力を通すと低く鳴ります。これは少し喉が詰まった音です」
言ってから、妙な説明だったかもしれないと思った。
王宮では、こういう言い方をすると笑われた。
感覚頼りだ、令嬢のお遊びだ、と。
けれどオルドさんは、温石に耳を寄せた。
「……本当だ。苦そうな音がする」
「石は喉を持ちません」
セドリック公爵が真顔で言った。
オルドさんがにやりとする。
「持つんだよ、こういう石は。公爵様には聞こえんだけだ」
セドリック公爵は少し黙った。
それから、私へ向き直る。
「聞こえるものなのか」
「慣れれば、たぶん」
「なら、今度教えてほしい」
まじめな顔だった。
からかいではない。
私は刻印針を持つ手に、少し力を入れた。
「……はい。私でよければ」
温石の調整は、思ったより楽しかった。
王宮の魔導具は、いつも大きく、華やかで、失敗が許されないものばかりだった。けれど、この石は違う。
誰かの寝台を温めるため。
誰かの指先を、朝まで冷やさないため。
派手ではない。
でも、必要だ。
二つ目の保存箱に取りかかるころ、砂時計の砂は落ち切っていた。
私は気づかないふりをした。
あと少し。
結露の原因だけでも見たい。箱の内側に霜が出るなら、野菜が凍る。冬場の食料保存に関わる。
刻印針を入れようとした瞬間、手首が小さく跳ねた。
針先が、予定より半筋だけずれる。
「あ」
声が漏れた。
すぐに魔力を切る。傷は浅い。修正できる範囲だ。
けれど、見られていた。
セドリック公爵は、作業台の向こうから私の手を見ていた。
魔導具ではない。
私の指を。
「休憩です」
「今のは、姿勢が悪かっただけです」
「休憩です」
「修正してから」
公爵は私の手元から刻印針を取った。
取り上げる動きは乱暴ではなかった。むしろ、熱い鍋を幼子から遠ざけるような慎重さだった。
その扱いに、なぜか顔が熱くなる。
「公爵、作業途中で工具を」
「契約書の第三条」
「……連続付与作業は二時間ごとに休憩」
「覚えているなら、守ってください」
私は反射的に謝りそうになった。
でも、悪いことをしたのだろうか。
契約を破りかけたのは、確かに私だ。
けれど、怒られる理由が「仕事が遅い」ではなく「休んでいない」なのが、まだうまく飲み込めない。
作業台の横に座らされると、オルドさんが薬草の匂いがする小瓶を置いていった。
「手用の湿布だ。王都のお嬢様が逃げないよう、公爵様が見張っとけ」
「逃げません」
「作業台には逃げそうだ」
否定できなかった。
セドリック公爵は黙って私の右手を取った。
手袋を外されそうになり、私は少し身を引く。
公爵の手が止まった。
「嫌なら、布越しにする」
「いえ。付与師の手ですので、見苦しいかと」
「見苦しい?」
彼は初めて、はっきり眉をひそめた。
私は視線を逸らした。
指の腹には小さな傷がいくつもある。火傷の跡、刻印針の跡、古い腱の腫れ。令嬢の手としては、褒められたものではない。
公爵は、私の返事を待ってから手袋を外した。
そして何も言わず、湿布を薄く伸ばす。
薬草の冷たさが、じんと染みた。
包帯はきつすぎず、緩すぎず、利き手の曲げ伸ばしを邪魔しない巻き方だった。
この人は、誰かの手をよく見ている。
契約のためかもしれない。
領地経営のためかもしれない。
それでも、今この瞬間、私の手を雑に扱わない人がいる。
「痛むか」
「少し」
「少しは、痛むという意味です」
「……はい」
公爵の目元が、ほんのわずか緩んだ。
「正直でよろしい」
子ども扱いに近い言い方だったのに、不思議と腹は立たなかった。
そのとき、工房の通信水晶が赤く光った。
オルドさんが顔をしかめる。
「王宮印だ」
私の背筋が、勝手に伸びた。
セドリック公爵が水晶の前に立つ。
「つなげ」
光が揺れ、バスティアン様の顔が浮かび上がった。
昨夜より、頬がこけて見える。背後で誰かが慌ただしく動いている気配がした。
「リディア・エルンスト侯爵令嬢はそこにいるな」
私が答える前に、セドリック公爵が言った。
「職務契約中です。要件は付与師ギルドを通してください」
「通したとも。だが、ギルドは三日かかると言う。王宮厨房の湯沸かし器は、今朝からすべて低温停止した。王太子殿下の朝茶も、各部署の洗浄湯も足りん。今日中に直せ」
今日中。
その言葉で、私の体が作業台へ向かいかけた。
湯沸かし器の構造は頭に入っている。冷却弁を締め、光核を外し、低温安全装置を再調整すれば応急復旧はできる。
ただし、交換時期を過ぎた核をそのまま使うなら、過熱試験が必要だ。
最低でも一晩。
「リディア」
水晶越しのバスティアン様が、声を低くした。
「民が困っている。君の意地で湯を止める気か」
民。
便利な言葉だ。
王宮厨房の大型湯沸かし器を真っ先に使うのは、王太子殿下の朝茶と晩餐会の食器洗浄だ。もちろん、働く人たちも使う。困る人はいる。
だからこそ、危ない修理はできない。
私は椅子から立った。
湿布を巻かれた右手が、薬草の匂いを立てる。
「安全試験なしの即日修理はできません」
バスティアン様の目が細くなる。
「何?」
「交換時期を過ぎた光核を使用する場合、低温停止を解除する前に過熱試験が必要です。記録は三日前に提出済みです」
「緊急時だ」
「緊急時だからこそです」
言い切ると、喉が少し震えた。
怖くないわけではない。
今でも、あの作業室の冷たい床を思い出す。叱責の声も、積み上がった依頼書も、眠れない朝の青さも。
けれど私の後ろには、工房の温石がある。
手には湿布がある。
目の前には、契約書がある。
「本日は、私の勤務時間内に受けている公爵領工房の作業があります。王宮の修理依頼は、付与師ギルドの規定に従ってください」
「君は自分の立場が」
「明日、業務時間内に見積書を確認いたします」
声が、思ったよりきれいに出た。
工房の奥で、オルドさんが小さく口笛を吹く。
水晶の向こうで、バスティアン様の顔が赤くなった。
「明日だと?」
「はい。明日です」
私は一度だけ頭を下げた。
「本日の無償対応は、お受けできません」
セドリック公爵が水晶へ手を伸ばした。
「回答は以上です」
通信が切れる。
赤い光が消えた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
公爵がすぐ横に立っていた。
支えられたわけではない。ただ、倒れても受け止められる距離にいた。
その距離が、妙に胸をざわつかせる。
「よく言いました」
短い言葉だった。
私は唇を噛んだ。
「声が震えました」
「最後まで言えた」
「明日と言っただけです」
「王宮に対して、それを言える者は多くありません」
褒められたのだと気づくまで、少し時間がかかった。
顔が熱くなる。
「……作業に戻っても?」
「駄目です」
即答だった。
公爵は作業台へ歩き、私の工具箱を閉じた。
かちり、と鍵がかかる音がする。
「まだ定時では」
ちょうどそのとき、工房の壁に掛けられた小さな鐘が鳴った。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。
夕方五つの鐘。
公爵は鍵を手の中に収めた。
「定時です」
私は鐘を見た。
次に工具箱を見た。
そして公爵を見た。
「本当に、ここで終わるのですか」
「終わります」
「保存箱の結露は」
「明日」
「温石の出力むらは」
「明日」
「王宮の湯沸かし器は」
「ギルド規定」
あまりに淀みない返答に、オルドさんが腹を抱えて笑った。
「嬢ちゃん、完敗だな。公爵様は融通が利かんぞ。特に休ませると決めた相手にはな」
「私は、休ませると決められた相手なのですか」
言ってから、しまったと思った。
公爵がこちらを見る。
工房の火の色が、灰色の瞳に映っている。
「契約相手です」
やはり、そうだ。
私はなぜか少しだけ肩を落としかけた。
でも、公爵は続けた。
「そして、手を傷めている付与師です」
その言い方が、胸に残った。
契約だけではない、と言われた気がした。
気のせいかもしれない。
そう思うには、手の湿布が丁寧すぎた。
夕食前、工房に二度目の通信が入った。
今度は付与師ギルドからだった。オルドさんが受け、途中で笑いをこらえきれなくなった顔でこちらへ振り返る。
「王宮の湯沸かし器な」
「はい」
「代替付与師が低温停止を解除しようとして、全部まとめて保温配列を書き換えたらしい」
嫌な予感がした。
「どうなりましたか」
オルドさんは咳払いした。
「全機、ぬるま湯専用になったそうだ。熱湯にも冷水にもならん。どの蛇口からも、風呂上がりの手桶くらいの湯が出る」
私は言葉を失った。
セドリック公爵も沈黙した。
工房の中で、温石がぱちりと鳴る。
「……安全ではあります」
私は、どうにかそれだけ言った。
オルドさんが今度こそ大笑いした。
「そりゃ安全だ。王太子殿下の朝茶も、幼子用の湯冷ましみたいになるがな」
笑ってはいけない。
たぶん、笑ってはいけない。
そう思ったのに、喉の奥から小さな音が漏れた。
王宮にいたら、私は今ごろ走り回っていただろう。
誰かの叱責を背に受け、朝までに直せと自分を追い込んでいただろう。
でも今、私は工房の椅子に座っている。
工具箱には鍵がかかっている。
右手には湿布。
目の前には、湯気の立つ夕食。
そして王宮の湯沸かし器は、私のいない場所で、勝手にぬるま湯になっている。
「リディア嬢」
公爵が静かに言った。
「明日、見積書を確認しますか」
私は少し考えた。
それから、首を横に振る。
「明日、まず保存箱を直します」
言うと、公爵の目元がまた少しだけ緩んだ。
「よろしい」
窓の外で雪が強くなる。
遠い王宮では、ぬるい茶を前に誰かが眉を吊り上げているかもしれない。
けれど北都工房の温石は、ちょうどよく温かかった。




