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無能と捨てられた付与師、退職したら王宮が止まりました  作者: 九葉(くずは)


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3/12

第3話 残業しない練習

王宮厨房の湯沸かし器が全停止したという通信を聞いた翌日、私はヴァレンティン公爵領の北都工房にいた。


窓の外には、薄い雪が舞っている。


王都ではまだ秋の終わりだったのに、北の空気は一足早く冬の舌を出していた。吐く息は白く、工房の壁際には大小さまざまな温石が籠に積まれている。


石が、こんなに尊ばれている場所。


それだけで、少し胸が落ち着いた。


「寒いか」


隣で、セドリック公爵が尋ねた。


「いいえ。温石の配置がいいので」


「配置?」


「入口側は出入りで冷気が入りますから、高出力のものを低い位置に。作業台側は手元が冷えないよう、弱めのものを左右に分けています。とても丁寧です」


そう答えると、工房の奥から低い笑い声がした。


「ほう。初見でそこまで見るか」


振り向くと、白髪混じりの大柄な男性が、油の染みた前掛け姿で立っていた。


セドリック公爵が短く紹介する。


「工房主のオルドだ」


「オルドと呼べ。公爵様の肩書きより、壊れた保存箱のほうがここでは偉い」


「……リディア・エルンストです。本日よりお世話になります」


礼をすると、オルドさんは片眉を上げた。


「王宮から来た令嬢って聞いてたが、手袋が作業用だな」


「舞踏会用の手袋では、光核の溝に糸が引っかかりますので」


「気に入った」


気に入られたらしい。


少しだけ肩の力が抜ける。


オルドさんは作業台の上に、黒い温石を六個、銀縁の保存箱を三個並べた。


「今日見るのはこれだけだ。温石は出力むら、保存箱は結露。急ぎは左端の二つ」


「すべて本日中に確認します」


私が即答すると、工房の空気が一瞬止まった。


オルドさんがセドリック公爵を見る。


セドリック公爵は私を見る。


なぜ二人とも、故障品ではなく私を見るのだろう。


「リディア嬢」


「はい」


「今日見るのは、急ぎの二つだけでいい」


公爵の声は、契約書の文字と同じくらいまっすぐだった。


「ですが、残りも同じ棚にあります。状態確認だけなら」


「今日見るのは二つだ」


「出力むらが広がる前に」


「二つだ」


二度目で、私は口を閉じた。


王宮なら、ここで「使えない」と言われる。仕事が見えているのに手を出さないなど、怠慢だと叱られる。


けれど公爵は、叱るどころか作業台の端に小さな砂時計を置いた。


「二時間で休憩する」


「二時間で終わらなければ」


「休憩する」


「……はい」


オルドさんが喉の奥で笑った。


「公爵様がこんなにしつこいのは珍しい。嬢ちゃん、諦めろ」


諦める、という言葉は苦手だ。


けれど今は、少し違って聞こえた。


私は一つ目の温石を手に取った。


北都の温石は、王宮で使われる装飾用とは違う。見た目より持続と安定を重んじる、実用品だ。表面に刻まれた低温配列は古いが、よく磨かれている。


持ち主が毎朝、布で拭いているのだろう。


そういう魔導具は、直すときに少し緊張する。


使われているものは、使っている人の暮らしを連れてくるから。


「出力が右へ寄っています」


私は刻印針を取り、温石の側面に魔力を流した。


青い線が、石の内側で細く揺れる。


「中心溝に雪水が入っていますね。乾燥不足ではなく、外気温との温度差が原因です。溝を深くするより、逃げ道を増やしたほうがいい」


「わかるのか」


オルドさんが身を乗り出す。


「音が鈍いので」


「音?」


「はい。よく温まる石は、魔力を通すと低く鳴ります。これは少し喉が詰まった音です」


言ってから、妙な説明だったかもしれないと思った。


王宮では、こういう言い方をすると笑われた。


感覚頼りだ、令嬢のお遊びだ、と。


けれどオルドさんは、温石に耳を寄せた。


「……本当だ。苦そうな音がする」


「石は喉を持ちません」


セドリック公爵が真顔で言った。


オルドさんがにやりとする。


「持つんだよ、こういう石は。公爵様には聞こえんだけだ」


セドリック公爵は少し黙った。


それから、私へ向き直る。


「聞こえるものなのか」


「慣れれば、たぶん」


「なら、今度教えてほしい」


まじめな顔だった。


からかいではない。


私は刻印針を持つ手に、少し力を入れた。


「……はい。私でよければ」


温石の調整は、思ったより楽しかった。


王宮の魔導具は、いつも大きく、華やかで、失敗が許されないものばかりだった。けれど、この石は違う。


誰かの寝台を温めるため。


誰かの指先を、朝まで冷やさないため。


派手ではない。


でも、必要だ。


二つ目の保存箱に取りかかるころ、砂時計の砂は落ち切っていた。


私は気づかないふりをした。


あと少し。


結露の原因だけでも見たい。箱の内側に霜が出るなら、野菜が凍る。冬場の食料保存に関わる。


刻印針を入れようとした瞬間、手首が小さく跳ねた。


針先が、予定より半筋だけずれる。


「あ」


声が漏れた。


すぐに魔力を切る。傷は浅い。修正できる範囲だ。


けれど、見られていた。


セドリック公爵は、作業台の向こうから私の手を見ていた。


魔導具ではない。


私の指を。


「休憩です」


「今のは、姿勢が悪かっただけです」


「休憩です」


「修正してから」


公爵は私の手元から刻印針を取った。


取り上げる動きは乱暴ではなかった。むしろ、熱い鍋を幼子から遠ざけるような慎重さだった。


その扱いに、なぜか顔が熱くなる。


「公爵、作業途中で工具を」


「契約書の第三条」


「……連続付与作業は二時間ごとに休憩」


「覚えているなら、守ってください」


私は反射的に謝りそうになった。


でも、悪いことをしたのだろうか。


契約を破りかけたのは、確かに私だ。


けれど、怒られる理由が「仕事が遅い」ではなく「休んでいない」なのが、まだうまく飲み込めない。


作業台の横に座らされると、オルドさんが薬草の匂いがする小瓶を置いていった。


「手用の湿布だ。王都のお嬢様が逃げないよう、公爵様が見張っとけ」


「逃げません」


「作業台には逃げそうだ」


否定できなかった。


セドリック公爵は黙って私の右手を取った。


手袋を外されそうになり、私は少し身を引く。


公爵の手が止まった。


「嫌なら、布越しにする」


「いえ。付与師の手ですので、見苦しいかと」


「見苦しい?」


彼は初めて、はっきり眉をひそめた。


私は視線を逸らした。


指の腹には小さな傷がいくつもある。火傷の跡、刻印針の跡、古い腱の腫れ。令嬢の手としては、褒められたものではない。


公爵は、私の返事を待ってから手袋を外した。


そして何も言わず、湿布を薄く伸ばす。


薬草の冷たさが、じんと染みた。


包帯はきつすぎず、緩すぎず、利き手の曲げ伸ばしを邪魔しない巻き方だった。


この人は、誰かの手をよく見ている。


契約のためかもしれない。


領地経営のためかもしれない。


それでも、今この瞬間、私の手を雑に扱わない人がいる。


「痛むか」


「少し」


「少しは、痛むという意味です」


「……はい」


公爵の目元が、ほんのわずか緩んだ。


「正直でよろしい」


子ども扱いに近い言い方だったのに、不思議と腹は立たなかった。


そのとき、工房の通信水晶が赤く光った。


オルドさんが顔をしかめる。


「王宮印だ」


私の背筋が、勝手に伸びた。


セドリック公爵が水晶の前に立つ。


「つなげ」


光が揺れ、バスティアン様の顔が浮かび上がった。


昨夜より、頬がこけて見える。背後で誰かが慌ただしく動いている気配がした。


「リディア・エルンスト侯爵令嬢はそこにいるな」


私が答える前に、セドリック公爵が言った。


「職務契約中です。要件は付与師ギルドを通してください」


「通したとも。だが、ギルドは三日かかると言う。王宮厨房の湯沸かし器は、今朝からすべて低温停止した。王太子殿下の朝茶も、各部署の洗浄湯も足りん。今日中に直せ」


今日中。


その言葉で、私の体が作業台へ向かいかけた。


湯沸かし器の構造は頭に入っている。冷却弁を締め、光核を外し、低温安全装置を再調整すれば応急復旧はできる。


ただし、交換時期を過ぎた核をそのまま使うなら、過熱試験が必要だ。


最低でも一晩。


「リディア」


水晶越しのバスティアン様が、声を低くした。


「民が困っている。君の意地で湯を止める気か」


民。


便利な言葉だ。


王宮厨房の大型湯沸かし器を真っ先に使うのは、王太子殿下の朝茶と晩餐会の食器洗浄だ。もちろん、働く人たちも使う。困る人はいる。


だからこそ、危ない修理はできない。


私は椅子から立った。


湿布を巻かれた右手が、薬草の匂いを立てる。


「安全試験なしの即日修理はできません」


バスティアン様の目が細くなる。


「何?」


「交換時期を過ぎた光核を使用する場合、低温停止を解除する前に過熱試験が必要です。記録は三日前に提出済みです」


「緊急時だ」


「緊急時だからこそです」


言い切ると、喉が少し震えた。


怖くないわけではない。


今でも、あの作業室の冷たい床を思い出す。叱責の声も、積み上がった依頼書も、眠れない朝の青さも。


けれど私の後ろには、工房の温石がある。


手には湿布がある。


目の前には、契約書がある。


「本日は、私の勤務時間内に受けている公爵領工房の作業があります。王宮の修理依頼は、付与師ギルドの規定に従ってください」


「君は自分の立場が」


「明日、業務時間内に見積書を確認いたします」


声が、思ったよりきれいに出た。


工房の奥で、オルドさんが小さく口笛を吹く。


水晶の向こうで、バスティアン様の顔が赤くなった。


「明日だと?」


「はい。明日です」


私は一度だけ頭を下げた。


「本日の無償対応は、お受けできません」


セドリック公爵が水晶へ手を伸ばした。


「回答は以上です」


通信が切れる。


赤い光が消えた瞬間、膝から力が抜けそうになった。


公爵がすぐ横に立っていた。


支えられたわけではない。ただ、倒れても受け止められる距離にいた。


その距離が、妙に胸をざわつかせる。


「よく言いました」


短い言葉だった。


私は唇を噛んだ。


「声が震えました」


「最後まで言えた」


「明日と言っただけです」


「王宮に対して、それを言える者は多くありません」


褒められたのだと気づくまで、少し時間がかかった。


顔が熱くなる。


「……作業に戻っても?」


「駄目です」


即答だった。


公爵は作業台へ歩き、私の工具箱を閉じた。


かちり、と鍵がかかる音がする。


「まだ定時では」


ちょうどそのとき、工房の壁に掛けられた小さな鐘が鳴った。


一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。


夕方五つの鐘。


公爵は鍵を手の中に収めた。


「定時です」


私は鐘を見た。


次に工具箱を見た。


そして公爵を見た。


「本当に、ここで終わるのですか」


「終わります」


「保存箱の結露は」


「明日」


「温石の出力むらは」


「明日」


「王宮の湯沸かし器は」


「ギルド規定」


あまりに淀みない返答に、オルドさんが腹を抱えて笑った。


「嬢ちゃん、完敗だな。公爵様は融通が利かんぞ。特に休ませると決めた相手にはな」


「私は、休ませると決められた相手なのですか」


言ってから、しまったと思った。


公爵がこちらを見る。


工房の火の色が、灰色の瞳に映っている。


「契約相手です」


やはり、そうだ。


私はなぜか少しだけ肩を落としかけた。


でも、公爵は続けた。


「そして、手を傷めている付与師です」


その言い方が、胸に残った。


契約だけではない、と言われた気がした。


気のせいかもしれない。


そう思うには、手の湿布が丁寧すぎた。


夕食前、工房に二度目の通信が入った。


今度は付与師ギルドからだった。オルドさんが受け、途中で笑いをこらえきれなくなった顔でこちらへ振り返る。


「王宮の湯沸かし器な」


「はい」


「代替付与師が低温停止を解除しようとして、全部まとめて保温配列を書き換えたらしい」


嫌な予感がした。


「どうなりましたか」


オルドさんは咳払いした。


「全機、ぬるま湯専用になったそうだ。熱湯にも冷水にもならん。どの蛇口からも、風呂上がりの手桶くらいの湯が出る」


私は言葉を失った。


セドリック公爵も沈黙した。


工房の中で、温石がぱちりと鳴る。


「……安全ではあります」


私は、どうにかそれだけ言った。


オルドさんが今度こそ大笑いした。


「そりゃ安全だ。王太子殿下の朝茶も、幼子用の湯冷ましみたいになるがな」


笑ってはいけない。


たぶん、笑ってはいけない。


そう思ったのに、喉の奥から小さな音が漏れた。


王宮にいたら、私は今ごろ走り回っていただろう。


誰かの叱責を背に受け、朝までに直せと自分を追い込んでいただろう。


でも今、私は工房の椅子に座っている。


工具箱には鍵がかかっている。


右手には湿布。


目の前には、湯気の立つ夕食。


そして王宮の湯沸かし器は、私のいない場所で、勝手にぬるま湯になっている。


「リディア嬢」


公爵が静かに言った。


「明日、見積書を確認しますか」


私は少し考えた。


それから、首を横に振る。


「明日、まず保存箱を直します」


言うと、公爵の目元がまた少しだけ緩んだ。


「よろしい」


窓の外で雪が強くなる。


遠い王宮では、ぬるい茶を前に誰かが眉を吊り上げているかもしれない。


けれど北都工房の温石は、ちょうどよく温かかった。

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