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無能と捨てられた付与師、退職したら王宮が止まりました  作者: 九葉(くずは)


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2/12

第2話 辺境公爵の定時契約

王宮大広間の灯りが消えてから、半刻ほど後。


私はヴァレンティン公爵家の馬車に乗っていた。


窓の外では、夜の王都が静かに流れていく。舞踏会帰りの馬車が石畳を鳴らし、遠くの宮殿だけが、まだ白く浮かんで見えた。


私が十年通った場所。


私が十年、帰る場所だと思い込もうとしていた場所。


そこが小さくなっていくのを、私は膝の上の工具箱を抱えたまま見ていた。


「寒くありませんか」


向かいの席から、セドリック公爵が尋ねた。


「いただいた温石がありますので」


私は手袋越しに、黒い温石を握り直した。


まだ、あたたかい。


魔力の流れが穏やかで、指の芯に染み込むようだった。王宮の備品にはない丁寧な付与だ。高出力ではなく、使う人間の体温を邪魔しないよう調整されている。


いい仕事だと思った。


そんなことを考えられるくらいには、私の頭は逃げ場を探している。


「今夜は、公爵家の王都邸に部屋を用意しています。明朝、体調を見てから出立するか決めましょう」


「明朝には出られます」


反射で答えてしまった。


公爵の灰色の目が、私を見た。


怒ってはいない。


けれど、契約書の誤字を見つけた人の目だった。


「決めるのは体調を見てからです」


「……はい」


言い返す言葉が見つからず、私は工具箱の金具を親指でなぞった。


王宮では、体調は仕事のあとに確認するものだった。高熱でも、手が震えても、光核が不安定なら先に光核を見る。私が倒れたら、少し休んでからまた戻る。


それが当然だった。


当然ではない場所に、今、自分が運ばれている。


馬車が角を曲がった。


揺れで肩が傾く。


次に気づいたとき、私は柔らかな布の重みの中にいた。


膝の工具箱はそのまま。温石も手の中にある。けれど、肩には公爵の外套がかけられていた。


眠っていたらしい。


喉の奥が熱くなり、私は慌てて背筋を伸ばした。


「失礼いたしました」


「眠れるなら、眠ったほうがいい」


「ですが」


「今、あなたに求めている仕事はありません」


短い言葉だった。


それなのに、胸の奥で何かがほどけかけた。


仕事がない。


だから眠っていい。


そんな単純なことを、私はずいぶん長く忘れていた気がする。


公爵家の王都邸は、王宮から少し離れた静かな通りにあった。


白い門灯がふたつ、夜露に濡れて光っている。使用人たちは深夜にもかかわらず整然と動き、私を見る目に好奇心はあっても、露骨な侮りはなかった。


客間に通されるのかと思ったが、案内されたのは小さな応接室だった。


暖炉には火が入っている。


テーブルの上には、湯気の立つ薬草茶と、厚めの羊皮紙の束。


セドリック公爵は私の正面に座り、束の一番上をこちらへ向けた。


「職務契約書です。今夜、署名を急がせるつもりはありません。目を通すだけでも構わない」


「拝見します」


そう言った私の声は、自分でも少し早かった。


公爵の眉が、かすかに動く。


私は茶にも手をつけず、契約書を読み始めた。


職務名。


寒冷地用生活魔導具の安定付与師。


勤務場所。


ヴァレンティン公爵領、北都工房。


業務範囲。


温石、保存箱、結界灯、農具補助具、低出力暖房具の付与設計、安定化、保守指導。


報酬。


私はそこで、指を止めた。


数字を二度見する。


さらに、もう一度見る。


「多すぎます」


「相場より少し上です」


「少しではありません」


「王宮魔導具局の臨時付与師補佐の報酬と比較しているなら、あちらが低すぎる」


公爵は淡々と言った。


私は反射的に否定しようとして、できなかった。


低いとは思っていた。


けれど王宮で働ける名誉があるから、婚約者として支える務めだから、侯爵家の令嬢が金銭にこだわるべきではないから。


そう言われ続けると、安すぎる数字も、やがてただの数字に見えなくなる。


私は次の項目へ目を移した。


作業時間。


一日八時間以内。


連続付与作業は二時間ごとに休憩。


週一日の完全休養。


夜間緊急対応は本人同意と追加報酬を必要とする。


「ここですが」


私は指で条項を示した。


「寒冷地の生活魔導具なら、冬期に故障が集中するはずです。緊急時は作業時間の上限を外したほうが」


「外しません」


早かった。


あまりに早かった。


「ですが、使用者の生活に関わります」


「だからこそ、疲労した付与師に触らせない。判断を誤れば、温石は火傷石になる」


「私は、その程度の判断は」


「できる人ほど、限界を越えてからも『まだできます』と言う」


公爵の声は、少しだけ低くなった。


私は口を閉じた。


暖炉の中で薪が爆ぜる。


視線を落とすと、自分の右手が紙の端を握っていた。指先が白い。


「……王宮では、そうしなければ間に合いませんでした」


「ここは王宮ではありません」


静かな言葉だった。


叱責ではない。


でも、逃げ道もない。


胸の奥が、また軋む。


王宮ではない。


婚約者でもない。


臨時補佐でもない。


では、私は何なのだろう。


その問いが喉元まで上がったとき、扉が控えめに叩かれた。


入ってきたのは、公爵家の法務官らしい中年の男性だった。銀縁の眼鏡をかけ、封書を三通持っている。


「セドリック公爵。王宮より一通、エルンスト侯爵家より一通、王宮魔導具局より一通です。いずれも至急とのことです」


胃のあたりが、きゅっと縮んだ。


早い。


あまりにも早い。


私は立ち上がろうとして、セドリック公爵に手で制された。


「座ったままで」


「私宛でしたら」


「あなた宛のものは、あなたが読む。公爵家へ届いた圧力文は、こちらの法務が読む」


圧力文。


法務官は少しも驚かなかった。封の印を確認し、公爵の許可を得てから、王宮の封書を開く。


「王宮より。リディア・エルンスト侯爵令嬢は、王宮魔導具改革に関わる重要情報を保持しているため、速やかに王宮へ戻り、関係者の指示を受けること」


関係者の指示。


私は指先を握った。


婚約を破棄された直後でも、名前ではなく役割で呼ばれる。


法務官は次を開いた。


「エルンスト侯爵家より。リディア嬢は家名を傷つけた件について、夜明けまでに帰邸し、父君の沙汰を待つこと」


父の字ではなかった。


家令の筆跡だ。


それがかえって、いつもの家の空気を思い出させた。父は直接叱る前に、まず帰らせる。帰ったら、逃げ場のない書斎で長く話す。


お前のためだ。


家のためだ。


王家のためだ。


その三つは、いつも私のためより強かった。


「最後は魔導具局です」


法務官が三通目を開く。


「本日停止した王宮大広間シャンデリアについて、元担当者として無償の緊急復旧を命じる。拒否した場合、職務放棄として記録する」


私は、思わず笑いそうになった。


笑えなかったけれど、息だけが漏れた。


「退職届を出した、その夜に」


「よくあることですか」


公爵が尋ねる。


「はい」


答えてから、違うと思った。


よくあってはいけない。


「いえ。よく、ありました」


公爵は法務官へ視線を向けた。


「王宮には、公爵家法務部名義で返答を。リディア嬢の身柄拘束権限は王宮にもエルンスト侯爵家にもない。魔導具局には、付与師ギルドを通すよう通知してください」


「承知しました」


「リディア嬢」


突然呼ばれ、私は肩を揺らした。


「はい」


「あなた自身の返答は、あなたが決める。公爵家が代筆することはない」


その言葉に、私は目を瞬いた。


守る、と言って勝手に決める人は多かった。


お前のためだと言いながら、私の口を閉じさせる人も。


けれど公爵は、法務で壁を作ってから、私の返事だけは私の手元に残した。


私は薬草茶に手を伸ばした。


冷めかけていたはずなのに、カップはまだ温かい。保温の皿が敷かれている。


「……王宮へは、戻りません」


声にすると、心臓が強く打った。


「エルンスト侯爵家へも、今夜は戻りません。魔導具局の依頼は、付与師ギルドを通してください。料金と納期は、規定通りに」


法務官がさらさらと書き取る。


公爵は一度だけ頷いた。


「そのように」


それだけだった。


褒めもしない。


驚きもしない。


まるで、私が自分の意思で選ぶことを、最初から当然だと扱っている。


その当然が、妙に眩しい。


法務官が退室したあと、応接室には薪の音だけが残った。


私は契約書へ視線を戻す。


人格印の使用条件。


本人の明示同意なく複製、転写、代筆を禁ずる。


作業記録の控えは本人が保持する。


保守責任は契約範囲に限定される。


どの条項も、喉が痛くなるほど丁寧だった。


「公爵」


「セドリックで構いません。仕事中は、公爵でも」


その分け方が、真面目で少しおかしかった。


笑ってはいけないと思ったのに、口元が緩む。


「では、公爵。ひとつ伺ってもよろしいですか」


「どうぞ」


「なぜ、ここまで条件を整えてくださるのですか。私の付与が必要なら、もっと簡単な契約でも雇えるはずです」


公爵はすぐには答えなかった。


暖炉の火が、灰色の瞳に揺れる。


「簡単な契約で雇える人材なら、簡単に潰されます」


私は息を止めた。


「北では、一人の判断ミスで集落が凍る。だから、働く者を守る条項は、領民を守る条項でもある」


やはり、公爵家の利益の話だ。


そう思ったのに、落胆はしなかった。


むしろ、信じやすかった。


甘い言葉より、ずっと。


「それに」


公爵は私の手元を見た。


「あなたは、契約書を読む目を持っている。ならば、雑な紙を出すのは失礼です」


今度こそ、私は少し笑ってしまった。


「契約書で口説かれたのは初めてです」


言ってから、頬が熱くなる。


口説かれた。


今、私は何を言ったのだろう。


公爵も一瞬だけ動きを止めた。


「その意図は」


「ありませんね。失礼しました」


「……いえ」


公爵は咳払いをした。


「必要であれば、次回から表現を改めます」


「次回があるのですか」


「契約の更新時に」


真面目な顔で返されて、私はとうとう小さく吹き出した。


王宮を出てから初めて、喉が痛くない笑いだった。


そのとき、廊下の向こうから早足の気配が近づいた。


先ほどの法務官が、珍しく少しだけ息を乱して戻ってくる。


「セドリック公爵。付与師ギルドから通信水晶です。王宮魔導具局が、緊急修理依頼を正式に出しました」


「早いな」


公爵が言う。


法務官は眼鏡を押し上げた。


「大広間シャンデリアに加え、王宮厨房の湯沸かし器が全停止したそうです。低温安全装置が作動し、現在、すべてぬるま湯しか出ないと」


私は瞬きした。


湯沸かし器。


王太子殿下の朝茶に使う、あの銀色の大型魔導具。


三日前、交換時期ですと報告書に書いた。


赤字で。


二重線で。


余白に「本当に交換」とは書かなかったけれど。


「依頼条件は」


公爵が淡々と尋ねる。


法務官は紙を確認した。


「夜間緊急、王宮内、保守記録不備あり。ギルド規定では基本料金の四倍。安全試験を含め、最短三日です」


応接室が静かになった。


私はカップを両手で包んだ。


薬草茶の湯気が、ふわりと頬を撫でる。


王宮にいたころなら、今すぐ工具箱を抱えて走っていた。


朝までに直さなければと、胃を痛くしていた。


でも、今夜の私は椅子に座っている。


温石は手の中。


契約書は目の前。


そして、王宮からの依頼は、初めて正しい値段をつけられていた。


「リディア嬢」


公爵が言った。


「受けるかどうかは、明朝決めればいい」


私は窓の外を見た。


東の空は、まだ暗い。


けれど、宮殿のほうだけが慌ただしく明滅している。通信水晶の光だろうか。


「明朝で、よろしいのですか」


「業務時間外です」


その一言で、胸の奥の何かがころんと転がった。


私は契約書の休息条項を見下ろした。


一日八時間以内。


週一日の完全休養。


夜間緊急対応は本人同意と追加報酬を必要とする。


何度読んでも、文字は消えない。


「では」


私はカップを置き、初めて自分から薬草茶を一口飲んだ。


少し苦くて、温かかった。


「明朝、業務時間内に検討いたします」


法務官が、こらえきれないように眼鏡の奥で笑った。


セドリック公爵は表情を変えなかった。


ただ、ほんのわずかに目元を緩めた気がした。


その夜、王宮では王太子殿下の朝茶がぬるくなると、通信水晶が淡々と告げ続けていた。

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