第2話 辺境公爵の定時契約
王宮大広間の灯りが消えてから、半刻ほど後。
私はヴァレンティン公爵家の馬車に乗っていた。
窓の外では、夜の王都が静かに流れていく。舞踏会帰りの馬車が石畳を鳴らし、遠くの宮殿だけが、まだ白く浮かんで見えた。
私が十年通った場所。
私が十年、帰る場所だと思い込もうとしていた場所。
そこが小さくなっていくのを、私は膝の上の工具箱を抱えたまま見ていた。
「寒くありませんか」
向かいの席から、セドリック公爵が尋ねた。
「いただいた温石がありますので」
私は手袋越しに、黒い温石を握り直した。
まだ、あたたかい。
魔力の流れが穏やかで、指の芯に染み込むようだった。王宮の備品にはない丁寧な付与だ。高出力ではなく、使う人間の体温を邪魔しないよう調整されている。
いい仕事だと思った。
そんなことを考えられるくらいには、私の頭は逃げ場を探している。
「今夜は、公爵家の王都邸に部屋を用意しています。明朝、体調を見てから出立するか決めましょう」
「明朝には出られます」
反射で答えてしまった。
公爵の灰色の目が、私を見た。
怒ってはいない。
けれど、契約書の誤字を見つけた人の目だった。
「決めるのは体調を見てからです」
「……はい」
言い返す言葉が見つからず、私は工具箱の金具を親指でなぞった。
王宮では、体調は仕事のあとに確認するものだった。高熱でも、手が震えても、光核が不安定なら先に光核を見る。私が倒れたら、少し休んでからまた戻る。
それが当然だった。
当然ではない場所に、今、自分が運ばれている。
馬車が角を曲がった。
揺れで肩が傾く。
次に気づいたとき、私は柔らかな布の重みの中にいた。
膝の工具箱はそのまま。温石も手の中にある。けれど、肩には公爵の外套がかけられていた。
眠っていたらしい。
喉の奥が熱くなり、私は慌てて背筋を伸ばした。
「失礼いたしました」
「眠れるなら、眠ったほうがいい」
「ですが」
「今、あなたに求めている仕事はありません」
短い言葉だった。
それなのに、胸の奥で何かがほどけかけた。
仕事がない。
だから眠っていい。
そんな単純なことを、私はずいぶん長く忘れていた気がする。
公爵家の王都邸は、王宮から少し離れた静かな通りにあった。
白い門灯がふたつ、夜露に濡れて光っている。使用人たちは深夜にもかかわらず整然と動き、私を見る目に好奇心はあっても、露骨な侮りはなかった。
客間に通されるのかと思ったが、案内されたのは小さな応接室だった。
暖炉には火が入っている。
テーブルの上には、湯気の立つ薬草茶と、厚めの羊皮紙の束。
セドリック公爵は私の正面に座り、束の一番上をこちらへ向けた。
「職務契約書です。今夜、署名を急がせるつもりはありません。目を通すだけでも構わない」
「拝見します」
そう言った私の声は、自分でも少し早かった。
公爵の眉が、かすかに動く。
私は茶にも手をつけず、契約書を読み始めた。
職務名。
寒冷地用生活魔導具の安定付与師。
勤務場所。
ヴァレンティン公爵領、北都工房。
業務範囲。
温石、保存箱、結界灯、農具補助具、低出力暖房具の付与設計、安定化、保守指導。
報酬。
私はそこで、指を止めた。
数字を二度見する。
さらに、もう一度見る。
「多すぎます」
「相場より少し上です」
「少しではありません」
「王宮魔導具局の臨時付与師補佐の報酬と比較しているなら、あちらが低すぎる」
公爵は淡々と言った。
私は反射的に否定しようとして、できなかった。
低いとは思っていた。
けれど王宮で働ける名誉があるから、婚約者として支える務めだから、侯爵家の令嬢が金銭にこだわるべきではないから。
そう言われ続けると、安すぎる数字も、やがてただの数字に見えなくなる。
私は次の項目へ目を移した。
作業時間。
一日八時間以内。
連続付与作業は二時間ごとに休憩。
週一日の完全休養。
夜間緊急対応は本人同意と追加報酬を必要とする。
「ここですが」
私は指で条項を示した。
「寒冷地の生活魔導具なら、冬期に故障が集中するはずです。緊急時は作業時間の上限を外したほうが」
「外しません」
早かった。
あまりに早かった。
「ですが、使用者の生活に関わります」
「だからこそ、疲労した付与師に触らせない。判断を誤れば、温石は火傷石になる」
「私は、その程度の判断は」
「できる人ほど、限界を越えてからも『まだできます』と言う」
公爵の声は、少しだけ低くなった。
私は口を閉じた。
暖炉の中で薪が爆ぜる。
視線を落とすと、自分の右手が紙の端を握っていた。指先が白い。
「……王宮では、そうしなければ間に合いませんでした」
「ここは王宮ではありません」
静かな言葉だった。
叱責ではない。
でも、逃げ道もない。
胸の奥が、また軋む。
王宮ではない。
婚約者でもない。
臨時補佐でもない。
では、私は何なのだろう。
その問いが喉元まで上がったとき、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは、公爵家の法務官らしい中年の男性だった。銀縁の眼鏡をかけ、封書を三通持っている。
「セドリック公爵。王宮より一通、エルンスト侯爵家より一通、王宮魔導具局より一通です。いずれも至急とのことです」
胃のあたりが、きゅっと縮んだ。
早い。
あまりにも早い。
私は立ち上がろうとして、セドリック公爵に手で制された。
「座ったままで」
「私宛でしたら」
「あなた宛のものは、あなたが読む。公爵家へ届いた圧力文は、こちらの法務が読む」
圧力文。
法務官は少しも驚かなかった。封の印を確認し、公爵の許可を得てから、王宮の封書を開く。
「王宮より。リディア・エルンスト侯爵令嬢は、王宮魔導具改革に関わる重要情報を保持しているため、速やかに王宮へ戻り、関係者の指示を受けること」
関係者の指示。
私は指先を握った。
婚約を破棄された直後でも、名前ではなく役割で呼ばれる。
法務官は次を開いた。
「エルンスト侯爵家より。リディア嬢は家名を傷つけた件について、夜明けまでに帰邸し、父君の沙汰を待つこと」
父の字ではなかった。
家令の筆跡だ。
それがかえって、いつもの家の空気を思い出させた。父は直接叱る前に、まず帰らせる。帰ったら、逃げ場のない書斎で長く話す。
お前のためだ。
家のためだ。
王家のためだ。
その三つは、いつも私のためより強かった。
「最後は魔導具局です」
法務官が三通目を開く。
「本日停止した王宮大広間シャンデリアについて、元担当者として無償の緊急復旧を命じる。拒否した場合、職務放棄として記録する」
私は、思わず笑いそうになった。
笑えなかったけれど、息だけが漏れた。
「退職届を出した、その夜に」
「よくあることですか」
公爵が尋ねる。
「はい」
答えてから、違うと思った。
よくあってはいけない。
「いえ。よく、ありました」
公爵は法務官へ視線を向けた。
「王宮には、公爵家法務部名義で返答を。リディア嬢の身柄拘束権限は王宮にもエルンスト侯爵家にもない。魔導具局には、付与師ギルドを通すよう通知してください」
「承知しました」
「リディア嬢」
突然呼ばれ、私は肩を揺らした。
「はい」
「あなた自身の返答は、あなたが決める。公爵家が代筆することはない」
その言葉に、私は目を瞬いた。
守る、と言って勝手に決める人は多かった。
お前のためだと言いながら、私の口を閉じさせる人も。
けれど公爵は、法務で壁を作ってから、私の返事だけは私の手元に残した。
私は薬草茶に手を伸ばした。
冷めかけていたはずなのに、カップはまだ温かい。保温の皿が敷かれている。
「……王宮へは、戻りません」
声にすると、心臓が強く打った。
「エルンスト侯爵家へも、今夜は戻りません。魔導具局の依頼は、付与師ギルドを通してください。料金と納期は、規定通りに」
法務官がさらさらと書き取る。
公爵は一度だけ頷いた。
「そのように」
それだけだった。
褒めもしない。
驚きもしない。
まるで、私が自分の意思で選ぶことを、最初から当然だと扱っている。
その当然が、妙に眩しい。
法務官が退室したあと、応接室には薪の音だけが残った。
私は契約書へ視線を戻す。
人格印の使用条件。
本人の明示同意なく複製、転写、代筆を禁ずる。
作業記録の控えは本人が保持する。
保守責任は契約範囲に限定される。
どの条項も、喉が痛くなるほど丁寧だった。
「公爵」
「セドリックで構いません。仕事中は、公爵でも」
その分け方が、真面目で少しおかしかった。
笑ってはいけないと思ったのに、口元が緩む。
「では、公爵。ひとつ伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「なぜ、ここまで条件を整えてくださるのですか。私の付与が必要なら、もっと簡単な契約でも雇えるはずです」
公爵はすぐには答えなかった。
暖炉の火が、灰色の瞳に揺れる。
「簡単な契約で雇える人材なら、簡単に潰されます」
私は息を止めた。
「北では、一人の判断ミスで集落が凍る。だから、働く者を守る条項は、領民を守る条項でもある」
やはり、公爵家の利益の話だ。
そう思ったのに、落胆はしなかった。
むしろ、信じやすかった。
甘い言葉より、ずっと。
「それに」
公爵は私の手元を見た。
「あなたは、契約書を読む目を持っている。ならば、雑な紙を出すのは失礼です」
今度こそ、私は少し笑ってしまった。
「契約書で口説かれたのは初めてです」
言ってから、頬が熱くなる。
口説かれた。
今、私は何を言ったのだろう。
公爵も一瞬だけ動きを止めた。
「その意図は」
「ありませんね。失礼しました」
「……いえ」
公爵は咳払いをした。
「必要であれば、次回から表現を改めます」
「次回があるのですか」
「契約の更新時に」
真面目な顔で返されて、私はとうとう小さく吹き出した。
王宮を出てから初めて、喉が痛くない笑いだった。
そのとき、廊下の向こうから早足の気配が近づいた。
先ほどの法務官が、珍しく少しだけ息を乱して戻ってくる。
「セドリック公爵。付与師ギルドから通信水晶です。王宮魔導具局が、緊急修理依頼を正式に出しました」
「早いな」
公爵が言う。
法務官は眼鏡を押し上げた。
「大広間シャンデリアに加え、王宮厨房の湯沸かし器が全停止したそうです。低温安全装置が作動し、現在、すべてぬるま湯しか出ないと」
私は瞬きした。
湯沸かし器。
王太子殿下の朝茶に使う、あの銀色の大型魔導具。
三日前、交換時期ですと報告書に書いた。
赤字で。
二重線で。
余白に「本当に交換」とは書かなかったけれど。
「依頼条件は」
公爵が淡々と尋ねる。
法務官は紙を確認した。
「夜間緊急、王宮内、保守記録不備あり。ギルド規定では基本料金の四倍。安全試験を含め、最短三日です」
応接室が静かになった。
私はカップを両手で包んだ。
薬草茶の湯気が、ふわりと頬を撫でる。
王宮にいたころなら、今すぐ工具箱を抱えて走っていた。
朝までに直さなければと、胃を痛くしていた。
でも、今夜の私は椅子に座っている。
温石は手の中。
契約書は目の前。
そして、王宮からの依頼は、初めて正しい値段をつけられていた。
「リディア嬢」
公爵が言った。
「受けるかどうかは、明朝決めればいい」
私は窓の外を見た。
東の空は、まだ暗い。
けれど、宮殿のほうだけが慌ただしく明滅している。通信水晶の光だろうか。
「明朝で、よろしいのですか」
「業務時間外です」
その一言で、胸の奥の何かがころんと転がった。
私は契約書の休息条項を見下ろした。
一日八時間以内。
週一日の完全休養。
夜間緊急対応は本人同意と追加報酬を必要とする。
何度読んでも、文字は消えない。
「では」
私はカップを置き、初めて自分から薬草茶を一口飲んだ。
少し苦くて、温かかった。
「明朝、業務時間内に検討いたします」
法務官が、こらえきれないように眼鏡の奥で笑った。
セドリック公爵は表情を変えなかった。
ただ、ほんのわずかに目元を緩めた気がした。
その夜、王宮では王太子殿下の朝茶がぬるくなると、通信水晶が淡々と告げ続けていた。




