第2話 売れない未来の値段
ノアの家は、街の端の小さな畑に面していた。土は乾き、葉物野菜は根元からしおれている。屋根の下に置かれた大桶には、昨夜の雨水がわずかに残るだけだった。
父親のエドは、俺を見るなり眉間にしわを寄せた。
「また水の話か。だから、俺には直せないって言ったろう」
「まだ何も言ってません」
「だったら何の用だ。畑を見れば分かるだろう。暇じゃないんだ」
男は鍬を立てかけ、指に巻いていた布をほどいた。親指の付け根が割れて血がにじんでいる。俺のきれいな爪を見て、ますます機嫌を悪くしたようだった。
「昔、技師になりたかったそうですね」
エドの表情が変わった。
「誰から聞いた」
「ノアから。水を使う機械を扱える人が必要なんです」
「昔の話だ。学校に通う金もなかった。父親が倒れて、畑を継いだ。それで終わりだ」
椅子の背には、修繕した古い作業服が掛かっていた。エドは俺の顔を見ず、糸のほつれを指でむしっている。余所者に蒸し返されたくない話だったのだろう。
視界に、また文字が現れる。
【商品候補:エドが選ばなかった未来】
【仮想進路:水利技師・中級】
【貸与範囲:水路構造の理解、機械診断、基礎設計】
【有効期限:翌朝の日の出まで】
【必要条件:当事者の明確な同意】
【対価:当事者間で決定してください】
最後の一行を二度読んだ。本人の同意。そこだけは、間違えてはいけない気がした。
「馬鹿げた話をします。嫌だったら、今すぐ帰ります」
「じゃあ帰ってくれ」
「……一分だけ。あなたが技師になっていたら身につけていたかもしれない知識を、俺が今日だけ使えるらしいんです」
言いながら、自分でも詐欺師じみていると思った。
「……帰れ」
当然の反応だった。
「待ってください。騙すつもりなら、もっと上手な話をします。試すだけでいい。駄目だったら謝って帰ります」
エドは俺の顔を見つめた。背後から、ノアが父親の袖をつかむ。
「父ちゃん。リサ、朝から水飲めてないんだ」
家の奥で、か細い咳がした。妹の名前らしい。
障子に似た薄い戸が少し開いた。出てきた女性は、ノアから桶を受け取ると、底に残った水を小さな杯へ移した。杯の半分にもならない。
「お客さん?」
「まだ客じゃない。妙な話をしに来た余所者だ」
エドがそう言うと、女性は俺に軽く会釈した。腕の内側に抱えている布巾が、何度も洗われて白く擦り切れていた。
「子供に飲ませていいでしょうか」
「もちろんです」
咄嗟に答えてから、俺の許可なんて必要ないのにと気づいた。エドに見られた気がして、靴先へ目を落とす。
しばらくしてエドは椅子に腰を下ろした。
「具体的には、どうしろって言うんだ」
「俺に、今日だけその知識を貸してほしいんです。勝手にあなたの人生を奪うわけじゃない。嫌なら断ってください」
「で、俺に何の得がある」
「正直、まだ代金を決められません。手持ちの金もない。俺にできるのは、契約の内容を紙に残して、あなたの家にも水が届くよう働くことだけです」
「息子から、うちの事情を聞いたんだろう」
「ええ。リサちゃんが熱を出していると。でも、それを取引の材料にはしません。病人に水を配るなら、どこの家でも同じ順番にします」
エドは腕を組んだまま、長いこと返事をしなかった。家の奥から、子供が咳き込む音が聞こえる。
エドは奥の部屋を一度だけ見た。返事の代わりに、椅子を引く音がした。
「お前、商人なのか?」
「昔、そうでした。上手くはありませんでしたけど」
沈黙のあと、エドは手を差し出した。
「いいだろう。今日一日、俺が技師になっていたかもしれない人生を、お前に貸す。だが勝手に他人へ又貸しするな。何が起きたか、俺にも全部話せ」
「約束します」
差し出された手を握った。土が爪の間に残っていた。
【契約意思を確認】
【貸与対象:選ばれなかった水利技師の技能】
【契約成立】
頭の奥で鐘が鳴った。
見慣れない断面図が、視界を満たす。川の流量、落差、歯車の伝達比。知らないはずの数字が、なぜか指先に収まるように理解できた。
「……分かる」
自分の声が震えていた。
エドが身を乗り出す。
「何がだ」
「水路の機械。多分、直せます。ただし、俺一人じゃ無理です」
腕時計を見る。針は午前十時を少し回っていた。日の出までには使い切る。逆に言えば、期限を過ぎればどんなに必要でも返さなければならない。
「まず、どこが壊れているか見てきます。結果は必ず話します」
「俺も行くに決まってるだろう」
エドは上着を羽織り、戸棚から古い筆記具を取った。学生のころ使っていたものらしい。
「エドさん。もし直ったら、俺のやったことじゃなくて、あなたの決断だったって、みんなに伝えます」
「好きにしろ。まずは直してからだ」
エドは古い筆記具を袖で拭き、服の内側にしまった。




