第1話 滅亡予定都市フィオル
鼻の奥がむずむずした。くしゃみを一つして顔を上げると、天井板の隙間から空が見えた。背中の下は板張りの床。近くに倒れた椅子があり、空っぽの棚には蜘蛛の巣が張っている。あの雨はどこへ行った。
「……生きてるのか、俺」
立ち上がると、腰が痛んだ。夢にしては感触がはっきりしすぎている。ポケットを探る。スマートフォンがない。財布もない。持っているのは、会社帰りの薄い上着と、使い古した腕時計だけだった。
店の入り口に、木の札が掛かっている。読めない文字なのに、意味だけが頭に入ってきた。
《空き店舗・使用希望者は評議所へ》
「外国……じゃないよな」
外へ出ると、灰色の石畳が真っすぐ伸びていた。左右に商店が並び、洗濯物のない窓が続く。遠くの屋根は赤く、空には見たことのない大きな白い鳥が浮かんでいる。異国情緒というには、廃墟の気配が濃かった。
広場にだけ人だかりがあった。十数人が、時計塔の下を見上げている。
塔の文字は、青空よりもはっきりと見えた。
【都市名:フィオル】
【存続判定:不適格】
【未来消滅まで:90日】
数字は、俺が目をそらしても消えなかった。塔の下では、白髪の女性が指折り何かを数えている。荷造りの日数か、家族が出発する順番か。若い男が彼女に声をかけたが、返事はなかった。
「お兄さんも、逃げに来たの?」
振り返ると、茶色い髪の少年がいた。十歳くらいだろう。小さな水桶を抱えている。
「逃げに? ここへ?」
「向こうの街道、通れなくなっちゃったから。戻ってきた人がいっぱいなの」
少年の桶には、底を濡らすほどの水しかない。
「水を汲みに行ったのか」
「うん。でも今日は一杯まで。妹が熱を出しててさ」
少年は桶を持ち直した。細い腕が震えている。
「井戸は?」
「もう出ないよ。水路の機械が壊れたんだって。みんな怒ってるけど、直せる人はいないって」
桶の底に残った水が、ノアの歩くたび小さく揺れる。俺は喉が渇いていたが、水を分けてくれとは言えなかった。
「君、名前は」
「ノア。ノア・ベルク」
「俺は透。牧瀬透」
「トール?」
「そう呼んでくれ」
ノアは俺をじっと見た。
「トール兄ちゃん、ここに住むの?」
答える言葉を探して、口を閉じる。帰り道すら分からない男に、そんなことを聞くなよ。
そのとき、視界の右端に、小さな光がまたたいた。
【未選択の未来:近傍に存在】
【対象:ノア・ベルクの父】
【選ばれなかった進路:水利技師】
【技能を一時貸与できます】
俺は思わず後ずさった。文字は移動しても離れない。目を閉じても、瞼の裏に残っていた。
「どうしたの?」
「ノア。君のお父さんは……農家か?」
「そうだよ。前は大きな街で勉強したかったんだって。でも、おばあちゃんの畑があるから残ったんだ」
一語一句、文字の内容と一致していた。
「そのお父さんに会わせてくれないか」
「いいけど。なんで?」
俺は時計塔を見た。九十日。俺が前の会社なら、長期の配送契約にすらしない日数だ。だが、ここでは人の暮らしが丸ごと懸かっている。
「……ちょっと、商売の話をしようと思って」
自分で口にして驚いた。三年前、あれほど後悔した言葉なのに。
ノアは首を傾げ、それから桶を抱えたまま走り出した。
「こっち! うち、そんなに遠くないよ!」
桶の水をこぼさないよう、ノアは小走りになったり、立ち止まったりした。そのたびに俺も歩幅を変えた。手を貸そうとしたら、「これ、僕の仕事だから」と断られた。




