プロローグ 閉店の日
祖父の店を閉めた日、最後まで外せなかったものがある。
入り口の上に掛かった、幅一メートルほどの木の看板だ。『まきせ雑貨店』の「ま」の字だけが、雨に削られて妙に薄い。子供のころ、脚立に乗って塗り直す祖父を下から見上げていたことを思い出す。
駄菓子を二個だけ買う子供。乾電池を一本ずつ買いにくるばあさん。何も買わずに、雨がやむまで居座るおっさん。そういう客ばかりで、儲かる店ではなかった。
祖父が亡くなって三年。俺が店を引き継いで一年。売上は落ち続け、修理費の払えない冷蔵庫は止まり、最後には仕入れ先への支払いさえ遅れた。もう無理だ、と家族を説得したのは俺だった。
閉店作業の最中、小学生の女の子が店に来た。
「お兄さん、鉛筆ありますか」
「ごめんね。もう売ってないんだ」
「そっか。また開いたら教えてね」
何も知らない笑顔を見送ったあと、俺はシャッターの前で長いこと立ち尽くした。
あの日、別の方法はなかったのか。もっと早く誰かに相談していれば。値段の付け方を変えていれば。店を継ぐのを諦めていれば。
女の子が欲しがっていた鉛筆は、奥の段ボールに何本も残っていた。閉店の前に数えたくなくて、値札ごと箱へ放り込んだのだ。
あの一本を渡していたところで、店の赤字は一円も減らなかっただろう。それでも、ときどき思い出す。最後に来た客に、俺は「ない」と答えた。
三年後の夜、俺は物流会社の事務所で、配送予定を何度目かの組み直しにかかっていた。集荷先の担当者は電話に出ない。画面の右上では、二十三時を過ぎた時計が点滅している。二十八歳。店を畳んでからは、毎月の給料日が少し待ち遠しくなった。それが嫌だった。祖父の店にいたころは、月末が怖くてたまらなかったくせに。
帰り道、閉店した店の前を通った。今は空き店舗のままだ。雨粒のついたシャッターに、街灯がぼんやり映っている。
「もし、もう一度店を開けるなら」
口にしてから、自分で苦笑した。何を売るつもりなんだ。金も、人脈も、特別な才能もないのに。
そのとき、暗いガラスに白い文字が浮かんだ。
【未選択の未来を検知しました】
疲れている。そう思って目をこすった。
【あなたが捨てた未来を、誰かに渡しますか】
「……なんだ、それ」
返事をした途端、足元から道路が消えた。
落下する感覚は、一瞬だった。
次に目を開けたとき、鼻に入ってきたのは濡れたアスファルトではなく、乾いた土と古い木の匂いだった。




