第二話 家庭の事情で。複雑です
「オリビア」
ある放課後、図書室で本を読んでいると、レインがそっと呼んだ。
顔を上げると、彼は少し迷うような表情で、でもまっすぐにこちらを見ていた。
「来月、王宮で夜会がある。一緒に……いや、あなたは当然招待されているでしょうし、そこで、もう少しちゃんとした場で話したいことがあって」
「話したいこと?」
「ええ。きちんと、正式に」
オリビアの心臓が跳ねた。
(これはもしかして、告白の前触れでは?!でも身分差が……壁が……!)
「分かったわ。夜会で待っているわね」
レインは少し安堵したような、でもどこかまた複雑な顔で「よかった」と言った。
(よかったって……。きっと、言い出すだけで勇気が要ったのね……!)
その『複雑な顔』は、たぶん、別の意味だったのだろう。
今なら分かる。今なら。
夜会当日。
オリビアは三時間かけて準備した。ドレスは深い紺碧に金の刺繍。髪は侍女に丁寧に結い上げてもらい、最後に真珠を一粒。
侍女たちに「どうかしら」と問うと、「とても素敵でございます」と言いながら、なぜか目を合わせなかった。
(みんな心配してるのね。公爵令嬢が平民に告白される夜だもの……)
王宮の大広間は、まばゆい光に満ちていた。
オリビアは人混みの中でレインを探しながら、ゆっくりと歩いた――そして、止まった。
広間の中央。周囲にひときわ広い空間を持って、一人の青年が立っていた。
銀髪。青灰色の瞳。凛と伸びた背筋。
いつもの学園の制服ではなく、金と白の礼装をまとったその姿は、オリビアの知っているレインで、しかしオリビアの知らないレインだった。
胸に輝く、王家の紋章。
周囲の人々が彼に向かって深々と頭を下げるのが見えた。
「……えっ」
オリビアの思考が止まった。
「あら、オリビア。殿下とお知り合いだったの?」
通りかかった知人の令嬢が、にこやかに声をかけてきた。
「……でん、か?」
「王太子殿下よ。ご存知でしょう?今年から学園に通われているという」
オリビアの脳内で、何かがガラガラと崩れる音がした。
(……複雑な家庭……)
たしかに複雑だ。王家というのは大変に複雑な家庭だろう。
何でもできるのも、王太子教育なら納得だ。
クラスメートの、あの“なんとも言えない顔”も――。
(……私、ずっと)
自分の三ヶ月を一枚一枚めくるたびに、恥が増えていく。
身分差ロマンスのフィルターで、勝手に切なくなり、勝手に陶酔し、勝手に『壁』を立てていたのは自分だ。
(最悪だわ……!)
その『最悪』の中心が、こちらへ歩いてくる。
「オリビア」
低く、静かな声。
レイン――いや、レイナート王太子殿下が目の前に立っていた。
「知ったのですね」
「知ったわ」
オリビアは努めて平静を装ったが、声が微妙に震えた。
「私を、からかってらしたのね」
「申し訳ありません。伝えるべきでした。ただ……」
彼は少し間を置き、視線を逃がさずに言った。
「あなたが、私を私として扱ってくださった。王太子としてではなく、ただのクラスメートとして。それが、思いのほか……心地よかったのです」
オリビアは黙った。
たしかに、自分は彼を殿下扱いしなかった。
遠慮なく質問し、課題の答えを写させてもらい、平民向け弁当まで渡した。
(平民向け弁当……)
今さら胃がひゅっと縮んだ。
「それにしたって……言ってくれれば良かったのに」
「言ったら変わりましたか。あなたの接し方が」
「……変わったと思うわ」
「でしょう」
彼は静かに微笑んだ。その笑い方は、いつものレインのそれで――オリビアはなんだか悔しくなった。
「ずるいわね」
「否定はしません」
その正直さが、さらにずるい。
「私、あなたのことを平民だと思って……色々と」
「あなたが私に直接失礼なことをしたことは一度もないですよ」
「そういう問題じゃなくて!」
言い返そうとして、でも言葉が追いつかない。
三ヶ月間積み重ねてきた『レインとの記憶』は、王太子の肩書きで上書きできるほど薄くない。
サンドウィッチを半分分けてもらったこと。
難しい数式を一緒に唸りながら解いたこと。
つまらない授業中に、こっそりメモで会話したこと。
全部、同じ『レイン』との記憶だった。
「……好きだったのよ」
オリビアはぽつりと言った。
「勘違いだらけで、一人で盛り上がって、恥ずかしいことこの上ないけれど。あなたのことが好きだったわ。今も、嫌いになれていないし」
沈黙。
それから、レイナートは小さく息を吐いた。どこか張り詰めていたものが緩んだような息だった。
「夜会で正式に話したいと申しました。改めて、申し上げます」
彼が右手を差し出す。
「オリビア・フォン・ヴェルンハルト嬢。レイナート・フォン・アルヴィス王太子として、ファーストダンスをお願いしたい。そして――できれば、この先も、隣に」
オリビアは彼の顔を見た。
しっかりと、正面から。
(身分差ロマンスじゃないわね。これは。完全に違う)
でも、胸の鼓動は、あの三ヶ月と同じ速さで鳴っている。
「……一曲だけね」
オリビアはその手を取った。
「今夜は一曲。あとのことは、また明日から考えるわ」
「十分です」
彼が笑った。いつものレインの笑顔で。
二人がフロアへ向かうと、壁際のクラスメートたちが一斉に息を吐くのが見えた。
「やっとだ……」
「三ヶ月、長かった……」
「オリビア様、顔が赤い」
「殿下も赤い」
オリビアは聞こえないふりをした。
聞こえたとしても、今夜はもう、都合よく翻訳したくなかった。
後日。
クラスメートの女子に「三ヶ月間、ずっと応援してたんですよ」と告げられたとき、オリビアは全力で頭を抱えた。
「あなたたち、なぜ一言言ってくれなかったの!」
「だって……止められる雰囲気じゃなかったので……」
「どんな雰囲気よ!」
「殿下のこと、すごく楽しそうに『平民の彼』って言うから、水を差したら可哀想かなって……」
オリビアは天を仰いだ。
向かいの席では、レイナートが「この話は一生のネタですね」と微笑んでいる。
「笑わないで!」
「笑っていません。ただ……嬉しいのです」
「……この、ずるい人」
オリビアは頬を染めながら、教科書で顔を隠した。
身分差ロマンスの夢は、盛大に砕け散った。
でも砕けた欠片の向こうに、思いがけずずっと素敵なものが転がっていたのだから――人生というのは、案外悪くないのかもしれない。
少なくとも彼は、今日も当然の顔で言うのだ。
「家庭の事情で。複雑です」
それを聞くたび、オリビアは少しだけ睨んで、それから、少しだけ笑ってしまうのだった。
最後までお付き合いありがとうございました。
ロミジュリはディカプリ版しか履修してないないのですが…ブックマーク、★★★★★、リアクションいただけると、嬉しいです( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




