第一話 あなたは……平民の方?
人生には、取り返しのつかない勘違いというものが存在する。
オリビア・フォン・ヴェルンハルト公爵令嬢、十六歳。
彼女はいま、王都随一の夜会会場の隅で、シャンパングラスを傾けながら、静かに自分の人生を振り返っていた。
走馬灯というものは死ぬときに見るものだと思っていたけれど。どうやら盛大に恥をかいた瞬間にも見えるらしい。
(……最悪だわ)
そもそも、オリビアが『身分差ロマンス』に憧れるようになったのは、十歳のときに読んだ一冊の本がきっかけだった。
タイトルは『深紅のロミール』。
貧しい花売りの少女と、彼女の正体を知らずに恋に落ちた伯爵家の嫡男が、家同士の対立を乗り越えて結ばれる――王道中の王道の恋愛小説だ。
オリビアは一晩で読み終え、翌朝、目を真っ赤に腫らして朝食の席に現れた。
父である公爵は新聞から目を離さずに「また泣いたのか」と言い、母である公爵夫人は「あの本は私も五回泣いたわ」と微笑んだ。
そのときからだ。オリビアの夢は『身分差の壁に立ち向かう恋愛』をすること、になった。
もちろん頭の片隅では分かっていた。現実の貴族社会において、身分差恋愛は茨の道だ。
家同士の同意が必要で、相手が平民であれば婚姻はほぼ不可能で、強行しようものなら家を捨てることになる。
でも。
でもでもでも。
それがいいのだ。
壁があるから美しい。障害があるから輝く。
誰もが『無理だ』と言う恋だからこそ、それを成し遂げたときに甘い果実が実る。
――そして、運命はやって来た。
たぶん、オリビアの望んだ形とは少し違う方法で。
王立ヴァリアン学園は、貴族と平民が共に学ぶ、この国では珍しい進歩的な学校だ。
十六歳になった春。制服に袖を通したオリビアは、心の中でスキップを踏んでいた。
(ついに来た。ついに来たわ、この日が!)
平民と交流できる学び舎。身分の垣根を越えた出会いの場。
ここで素敵な彼を見つけて、家柄の差に苦しみながらも、純粋な愛の力で――
「そんなに顔がにやけていると、初日から変人認定されますよ」
隣に並んだクラスメートに指摘されて、オリビアはハッと我に返った。
振り向いた先にいたのは、さらりとした銀髪と、静かな湖を思わせる青灰色の瞳を持つ少年だった。
制服の着こなしは自然で、貴族のような気取りもなく、かといって萎縮した様子もない。
胸の名札には『レイン』とだけ書かれていた。苗字がない。
「あなたは……平民の方?」
思わず尋ねると、彼は少し目を細めた。
「ええ、まあ。そういうことになります」
曖昧な言い方が、ほんの少しひっかかった。
だが、オリビアの脳内ではすでにファンファーレが鳴っている。
(平民の男子!しかも顔がいい!これは運命の予感がする!!)
背後で、どこかの男子が小声で言った。
「……あ、やっぱり気づいてない」
「初日でそれは、逆にすごいな……」
オリビアはもちろん聞いていない。
聞こえたとしても『周囲の嫉妬』へ翻訳されたはずだ。
レインという少年は、不思議な人物だった。
勉強はできる。いや、できすぎる。
どんな授業でも的確な答えを出し、教師たちは彼を指名するとき、どこか嬉しそうな顔をした。
剣術の授業では一年生とは思えない洗練された動きを見せ、体育教師が「王都でどこかに師事していたのか」と目を丸くした。
礼儀作法は完璧で、作法の女教師が「素晴らしい」と珍しく褒めた。
なのに、彼は平民クラスに在籍していた。
「レイン、あなたって不思議ね。平民なのにどうしてそんなに何でもできるの?」
昼食中に尋ねると、彼は少し間を置いてから言った。
「……家庭の事情で、色々と叩き込まれまして」
「どんな家庭よ、それ」
「複雑な家庭です」
その答えに、オリビアの涙腺がなぜか刺激された。
(複雑な家庭……!苦労してきたのね……!それでも前を向いて学園に通って……なんて健気な……!)
隣でサンドウィッチをかじっていた男子生徒が、耐えきれずに言った。
「複雑って、そっちの意味じゃなく――」
「黙ってあげなよ」
「いや、だって……」
レインは小さく咳払いをして、話題を変えるように紅茶を口に運んだ。
その仕草が無駄に優雅で、オリビアは胸を押さえた。
(切ない……。育ちの良さが漏れ出してるのに、平民として生きなきゃいけないのね……)
レインの『複雑な家庭です』は、それから何度も出てきた。
数学の宿題を一瞬で解いたときも。
「家庭の事情で。複雑です」
剣術で上級生を軽くいなしたときも。
「家庭の事情で。複雑です」
礼装の着こなしの話になったときも。
「家庭の事情で。複雑です」
オリビアはそのたびに『苦労』『孤独』『逆境』という三つの単語を、頭の中で宝石みたいに磨き上げていった。
三ヶ月が経つ頃には、二人はすっかり仲良くなっていた。
授業では隣の席で教え合い、昼食はいつも同じテーブル。放課後は図書室で一緒に課題をこなした。
気づけばどこへ行くにも一緒で、クラスメートたちは二人を見ると、なんとも言えない顔をした。
オリビアはそれを『身分差カップルへの複雑な視線』だと解釈した。
(そうよね。公爵令嬢が平民と仲良くしているのを、みんな複雑に思っているのよね。でも、そんな目を物ともしないのが本物の愛よ)
ある日、レインが昼食を取りに来なかった。
オリビアはそわそわし、結局パンを一口しか食べられなかった。
放課後、図書室でようやく見つけて、思わず言う。
「今日、どうしたの?体調でも悪いの?」
「……少し、用事が」
「用事って、何?」
「家庭の事情で。複雑です」
オリビアは胸を両手で押さえた。
(また……複雑な家庭……!ああ、私の知らない暗い影……!)
そのまま勢いで、彼の前に包みを置いた。
中身は、自分の部屋の台所でこっそり作らせた『平民向け弁当』だった。
公爵家の料理人が、平民の食事を再現しようとして大真面目に研究した結果、逆に上品すぎる『質素』が完成している。
黒パン、素朴なスープ、塩気の強い肉の燻製。あと、なぜか小さな可愛いリンゴの砂糖煮。
「これ……」
「今日、食べてなかったでしょう?ほら、平民の方って、食事を抜きがちだって本で――」
レインが一瞬、固まった。
「……あなたは、私を……」
「大丈夫よ。身分差のことは気にしないで。私はあなたの味方だわ」
レインは、言葉を探す顔をした後、観念したように弁当を開けた。
そして一口食べて、なぜか妙に真剣な目になった。
「……これは」
「どう?平民の味って……」
「……非常に、丁寧ですね」
丁寧。
オリビアはその一言を『涙をこらえた称賛』として脳内で字幕にした。
(泣かないでレイン……。貧しさはあなたの罪じゃない……!)
背後で、クラスメートがひそひそ話す。
「平民向け弁当って何……」
「しかも殿下が普通に食べてる」
「殿下、嬉しそうじゃない?」
「やめて、笑いそう」
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




