19 紅葉と申します。よろしくお願いいたします。
暗闇の地下水路に、
ひんやりとした水の流れる音が
不気味に響いていた。
「早く……早く『水流の調律』
を成功させてくださいぃ……!
じゃないと、温泉に行けません!」
隣で目をうるうるとさせ、
半泣きで必死にすがりついてくる
小柄な少女・鈴ノ木 紅葉
ぶかぶかの黒服の袖をキュッと握りしめ、
すがるような視線を向けてくる
彼女からのプレッシャーを受け止めながら、
ニノは漆黒の地下水脈に向かって両手をかかげていた。
(まずは集中。ゲートランドの時と同じように
大地の波形を聞き取れば、必ず道は拓ける……!)
ニノは目を閉じ、深く息を吐き出した。
ゲートランドで感じた通りのやり方で、
意識を深く深く沈めていく。
大地の奥底を流れるエネルギーの波形を探り、
優しく自らの「春の魔力」を伸ばして
同期させようとした――その瞬間だった。
ズガァァァァンッッ!!!
(がはっ……!?)
同調を試みた瞬間、
京都水盆の膨大な濁流と周りの乱れた地脈が、
ニノの魔力を容赦なく打ち砕いた。
強烈な拒絶反応の衝撃が脳を直接揺さぶり、
ニノはその場で膝をつく。
(……っ!……全然向こうと違う…!)
一方その頃――。
ニノが地下水路で何度も地脈の衝撃に耐えていたその時、
師匠である照紅は、京都祇園の高級料亭の個室にいた。
「いやぁ〜、やっぱ京都の夏は
鱧に限るじゃんね〜w」
仲居さんが恭しく運んできた鱧の落としを
ぽん酢につけ、パクリと口に運ぶ。
口の中に広がる上品な脂と酸味に、
師匠は「ん〜! 最高☆」と目を細め、
キンキンに冷えた冷酒のグラスを煽った。
控えていた黒服の男が頭を下げる。
「姐さん、お車の準備が整いました。
また滋賀の温泉宿へ向かわれますか?」
「んー、行く行く! 鱧も食べたし、
次は雄琴温泉で極楽タイムじゃんw」
ニノが地下水路で地獄の苦しみを味わっていることなど、
このギャル師匠の頭には一微塵も存在していなかった。
一方、暗く冷たい地下水路。
「だめだ……っ! なんだこの重圧力は……!?
あっちの世界の清らかな地脈とは、
規模も密度も違いすぎる……!」
ニノは必死で立ち上がり、
何度も、何度も地脈へ手をかざしていた。
しかし、大地の濁流はニノの繊細で美しい波形を
「不純物」と言わんばかりに跳ね返していく。
一度弾かれるたびに
全身の血管が引きち切られるような激痛が走り、
毛穴から嫌な汗が吹き出していく。
「はぁ……はぁ……っ、
くそっ……! なんでだ……!」
あっちの世界では、
ある程度、地脈の流れを操れた。
だが、このバグまみれの世界では、
自分の技術が何ひとつ通用しない。
『お前は爪楊枝以下なの』
という師匠の冷酷な言葉が、
脳裏で何度もリフレインする。
追放された時の惨めさ、
無力感が津波のように押し寄せ、
ニノの心が折れかけた。
「何かが足りない……それはわかる。
けど、何が足りないんだ……!」
焦りで視界が滲み、
荒い息が暗い地下水路に虚しく響いていた。
一方その頃――滋賀県・雄琴温泉。
高級旅館の露天風呂に浸かった師匠は、
「ふぅ〜〜〜〜っ! 温泉最高じゃんね〜〜〜っ!」と、
露天風呂の縁に肘をついて夜空を見上げていた。
「姐さん、
お飲み物をお持ちしました」
「あ、サンキュ〜☆」
湯船に浮かべた桶の上には、
キンキンに冷えたビールジョッキと、極上の枝豆。
師匠は湯船に浸かったままジョッキを掲げ、
豪快にぐびぐびと喉を鳴らしてビールを煽った。
「ぷはぁぁぁぁっ! 湯上がりの(まだ上がってないけど)
ビールはマジで五臓六腑に染み渡るけんのー!
いや〜、苦労した後のビールは最高じゃわ☆」
最高の気分で思わず広島弁になる師匠。
『苦労の後』の意味はわからないが、
湯気の中で枝豆をつまみながら、
師匠は高笑いを決めていた。
「今頃ニノも紅葉も、暗い地下水路で
泣きながら震えてるんじゃない?w
ウケる~!w」
地下水路の暗闇の中。
膝をつき、
絶望に押し潰されそうになっていたニノの視界に、
すっと小さな影が割り込んできた。
「……ニノさん」
見上げると、そこにはさっきまでビビり散らかして
半泣きになっていた少女の姿はなかった。
そこに立っていたのは、
ぶかぶかの黒服に身を包みながらも、
『確かな調律師』としての真剣な眼光を宿した紅葉だった。
「諦ちゃダメです……!
落ち着いてください、ニノさん」
「紅葉さん……」
「今のニノさん、あっちの世界の調律の
『常識』に囚われすぎています。
既存の流れを探して、それに自分を
合わせようとしちゃダメなんです」
「合わせちゃ……ダメ……?」
ニノが呆然と呟くと、
紅葉は少し困ったように眉をひそめ、
人差し指を口元に当てた。
「えっと……うまく表現できないんですけど…
例えば……視力検査で、
ニノさんは2.0の『C』の穴が空いている向きを
必死に探しているような状態です!」
「視力検査……!?
穴の向き……?」
唐突すぎる例えに、
ニノは目を丸くした。
「そうです! 大地の既存の流れを探して
合わせようとしちゃダメなんです。
そうじゃなくて……
『「C」の穴の位置を自分で好きに開ける』という
意識が必要なんです!
『自分で変える』という強い意識です!」
「自分で……穴を開ける……!?」
ニノの頭の中で、
雷が落ちたような衝撃が走った。
教本に載っている「正しい正解」を探して
そこに自分を合わせるのではない。
自分が望む本来の正しい流れを、
自らの魔力で大地の仕様として「力ずくで刻み込む」。
それこそが、師匠の言っていた
「相手のルールに合わせるな」の本当の意味だったのだ。
「でも……この巨大な濁流に、
どうやって俺の意識を刻めばいいんだ……?」
戸惑うニノに対し、紅葉は静かに微笑むと、
膝を折ってニノの目線に合わせた。
「……いいですか?
感じてください」
言うや否や、紅葉はニノの大きな手を
自分の小さな両手でそっと包み込むように握りしめた。
「ひっ……!?」
触れ合う手の温もりに、
ニノの心臓が跳ね上がった。
紅葉は静かに目を閉じると、
自身の洗練された、あまりにも緻密な魔力を
ニノの手を通じて流し込んできた。
次の瞬間、ニノの脳裏に、京都水盆の
複雑に入り組んだ巨大な地下水脈の全体図が
鮮明に浮かび上がった。
紅葉の魔力が、
その無数にある環流の『ひとつ』を捉える。
――くるり。
まるで魔法のように、紅葉の強い意志ひとつで、
巨大な環流のひとつが鮮やかに逆方向へと反転した。
「……っ!!」
ニノの身体に激痛は走らなかった。
手を通じてダイレクトに伝わってきたのは、
「大地の波形を力ずくで自分に従わせる」という
調律の圧倒的な感触と、強い意志の奔流だった。
(これか……! 合わせるんじゃない、
大地の波形そのものを、俺の魔力で直接
『書き換えて調律する』んだ……!)
紅葉はそっと手を離すと、
ほんのり頬を赤くしながら、
ニノをまっすぐに見つめた。
「ニノさんなら、絶対にできます。
……だって、ニノさんの魔力は、
私よりずっと大きくて、
強くて……あったかいんですから」
紅葉の温もりと、手を通じて教わった
「調律の感触」が、ニノの全身の血を
熱く滾らせていた。
(……俺に足りなかったのは
『世界を自分の手で書き換える』
という感覚だ……!)
ゲートランドで追放された屈辱。
見返してやりたいという意地。
そして何より、自分を信じて手を握ってくれた少女の
期待に応えたいという強い想い――。
それらすべてを春の魔力に乗せ、
ニノは両手に圧倒的な圧力を込めた。
「自分で……
思い通り穴を開けるッ!!!
俺は視力2.0だぁぁぁ!!!」
ニノの両手から放たれた膨大な調律の波形が、
京都水盆の濁流へと一直線に突き刺さった!
同調などしない。
こちらが思い描く「本来の正しい逆回り」のイメージを、
大地のシステムへ力ずくで叩き込んでいく!
ガガガガガガッッッ!!!
地下水路全体が悲鳴のような摩擦音に包まれる。
ニノの波形が次々と巨大な環流を捉え、
ひとつ、またひとつと強引に反転・調律させていく。
(すごい……! どんどん水脈と地脈の
コードが書き換わっていく……!)
真横で見守る紅葉は、
息を呑んでその光景を見つめていた。
全身から汗を流し、血の滲むような気迫で
大地に立ち向かうニノの横顔。
泥臭く、不器用で、
けれど絶対に諦めない彼のまっすぐな佇まいに、
紅葉の胸の奥で、トクン……と熱い音が鳴った。
(かっこいい……)
半泣きの目をうるませながら、
紅葉は胸の前でぎゅっと手を握りしめた。
そして、ついに最後の瞬間が訪れる。
「よし……!! 最後の環流を
……逆流させるッッ!!!!」
ニノが血反吐を吐くような咆哮とともに、
両手を大きく右から左へと振り抜いた!
ゴゴゴゴゴゴゴゴオオオオオオ……!!!!
地鳴りのような凄みのある振動が
地下水路全体を揺らした。
京都水盆の最後の巨大な環流が、
ゴーッ!と音を立てて
――完全に逆方向へと反転を果たした。
「……できたッ!!
全部逆流に……調律したぞ!!」
「ひゃああっ!
や、やりましたぁぁ! 成功ですぅぅ!!」
感動のあまり、紅葉がパッと顔を輝かせて
ニノに飛びついてきた。
半泣きの笑顔のまま、
ジャージ姿のニノにガシッと抱きつき、
ぴょんぴょんと跳ねて喜ぶ。
「すごいですニノさん!
本当に全部ひっくり返しちゃいました!
これで温泉に行けますぅぅ!!」
「うわっ……あ、ありがとう、
紅葉さん……!」
抱きつかれたニノは顔を真っ赤にしながら、
達成感と安堵で「やった……できたよ……」と、
そのまま地下水路の床へ倒れ込んだ。
同じ瞬間――
滋賀県・雄琴温泉の露天風呂。
「ふぅ〜、極楽極楽☆」
5杯目のビールを口にし、
湯船でぷかぷかと浮かびながら
完全に油断しきっていた師匠。
「あの京都のバグった地脈なんて、
いくらあいつが天才だったとしても、
自力でコツを掴むまで
もう数日はかかるじゃんw」
その間、自分は温泉、観光三昧。
しかも『修行』という大義名分付き♪
最高すぎる♪
――その時だった。
ズズズズズズズズ……!!!!
露天風呂のすぐ目の前に広がる、
巨大な琵琶湖の湖面が、
あり得ない音を立てて激しく波打ち始めた。
「……え?なに???」
照紅がビールジョッキを止め、
不審そうに目を細めた瞬間。
ゴゴゴゴゴゴゴオオオオオオ……!!!!
琵琶湖の巨大な環流が、沖合から岸辺に至るまで、
ゴーッ!!と地鳴りを響かせながら、
――完全に逆方向へとうねり狂っていった。
京都水盆の全ての環流をひっくり返した
ニノの規格外の調律が、地脈を通じて繋がっている
「琵琶湖全体」の水脈にまで一気に波及し、
湖ごとその流れを書き換えてしまったのだ。
「……ブッ!?」
照紅は思わずビールを豪快に吐き出した。
手からビールジョッキが滑り落ちそうになり、
頭の上に乗せていたサングラスが、
ずるりと鼻先へ落ちる。
湖面の異常なうねりと、
地脈を通じてビンビンに伝わってくる
「ニノの春の魔力」の残響。
「こ、コレって……まさかニノがやったの!?
京都だけじゃなくて、琵琶湖の環流まで
全部ひっくり返ってるじゃん……!?」
あまりの光景に絶句していた照紅だったが、
やがてその表情が劇的に変化していく。
呆れと動揺は一瞬で消え去り、
その瞳に妖しく獰猛な光が灯った。
ずり落ちたサングラスをゆっくりと指で押し上げ、
溢れ出すニノの規格外な魔力の波形を全身で感じ取る。
「……ハッ、マジかよw」
照紅の口元が、ニタリと吊り上がった。
「――面白くなってきたじゃんね」
満月の夜空の下、
狂ったように逆流する琵琶湖を見つめながら、
師匠は不敵にほくそ笑むのであった。
照紅は何歳やねん?
って、20歳以上ですよ。大丈夫です。




