表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/10

第7話 予備誓香の黒い煙

 予備誓香の間には、甘い匂いがなかった。


 監査室からの通知が効いたのだろう。フィオナは香玉を外し、淡い石鹸の匂いだけをまとって来た。顔色は少し悪い。隣のオルヴィンは不機嫌を隠そうともせず、ダリム香舗の主人はやたらと汗を拭いていた。


 クラリスは監査席の横に立った。


 机には三つの小さな香炉がある。正規の試験香、ダリム香舗の予備香、白灰だけを入れた比較香。青石は四隅に置き、窓は半分開けた。レオンは入口近くに立ち、全員の位置を確認している。


「予備誓香審理を始めます」


 香房長マルタの声が響いた。


 最初に、レオンが照会結果を読み上げた。ベイル家推薦状の調合師欄にクラリスの名が使われたこと。本人確認が取れていないこと。月桂灰の仮押さえ札が偽造紙であること。ダリム香舗に誓香資格がないこと。


 オルヴィンはすぐ反論した。


「誤解だ。急いでいただけで、後からリュンヌ調合師に整えてもらう予定だった」


 クラリスは自分の名が他人の口から出るのを、じっと聞いた。


「クラリスは婚約者だった。家の式典に協力するのは当然だ」


 レオンは彼を見た。


「婚約は解消されたと、あなた自身が届け出ています」


「一時的な感情だ。彼女も意地を張っているだけだ」


 来た。


 クラリスは息を吸った。鼻に入るのは、無香に近い空気。自分の息。


「ベイル卿」


 オルヴィンがこちらを見た。昔はその目を見ると、言うべきことが半分になった。怒らせたくない、面倒な女だと思われたくない、婚約者なら支えるべきだ。そんな考えが、香煙のように喉を塞いだ。


 今日は違う。


「私は婚約へ戻りません。あなたの推薦状へ後から同意もしません」


 間が落ちた。


 オルヴィンの頬が赤くなる。


「君は自分の立場を分かっていない。ベイル家との縁を失えば、香房の中で年を取るだけだぞ」


「香房の中で年を取ることは、脅しになりません」


 マルタが奥でにやりとした。


「私はここで息ができます」


 その一言を言えた時、胸が少し軽くなった。


 フィオナが小さく視線を伏せる。彼女は何も言わない。扇も持っていないため、手の置き場に困っているようだった。


 レオンが審理を進めた。


「では、ダリム香舗提出の予備香を試験します。安全のため少量のみ。異変があれば即時停止します」


 クラリスは試験香炉へ火を入れた。


 まず正規の試験香。白い煙が細く上がり、小さな輪を作る。これは比較用だ。


 次に、ダリム香舗の予備香。


 火を入れた瞬間、甘さが立った。すぐに焦げた匂いが混じる。クラリスは蓋へ手を添え、いつでも止められるようにした。


 煙は最初、白かった。


 ダリム香舗の主人が安堵の息を漏らす。


 だが、白さは薄い膜のようなものだった。煙が輪を作る直前、中心に黒い筋が入り、ふっと裂ける。青石が曇った。フィオナが咳を一つこぼす。


「停止」


 クラリスとレオンの声が重なった。


 マルタが窓を開け、文官が香炉に蓋をする。黒い煙はすぐ消えたが、焦げ蜜の匂いが残った。


 フィオナは口元を押さえている。


「大丈夫ですか」


 クラリスが尋ねると、彼女は悔しそうに頷いた。


「少し、喉が」


「水を。息を深く吸わないで、浅く」


 フィオナは素直に従った。


 オルヴィンは彼女ではなく、香炉を睨んでいた。


「たまたまだ。火加減が悪い」


「では、比較香を焚きます」


 クラリスは白灰だけの香炉へ火を入れた。煙は弱く、輪を作らずに沈む。


「白く見える灰だけでは、誓香炉の煙紋は澄みません。月桂灰に似せた灰でも同じです。さらに、濃縮花蜜と焦がし蜜蝋は密閉殿で喉に残ります。ラクト嬢の体質確認がないまま焚けば危険です」


 クラリスはダリム香舗の主人を見た。


「あなたは、これを王家誓香殿で焚くつもりでしたか」


 主人は汗を拭きながら、オルヴィンを見た。


「ベイル卿が、白い煙が出ればよいと。調合書は後から正規のものが来るから、と」


「余計なことを言うな!」


 オルヴィンが叫んだ。


 その声に、フィオナがびくりとした。クラリスは彼女の指が震えているのを見た。


 レオンが一歩前へ出る。


「ベイル卿。推薦状偽署名、許諾札偽装、資格外香師への依頼、香害防止規定違反の疑いで、王家誓香式への出席推薦を一時停止します」


「そんな権限が」


「あります」


 レオンの声は静かだった。大きな声より、よほど強い。


 オルヴィンはクラリスを睨んだ。


「満足か。君のせいで、ベイル家は」


「私のせいではありません」


 クラリスは言った。


「あなたが、香を軽んじた結果です」


 言い切った後、少しだけ手が震えた。怒鳴られ慣れていない。人を断つ言葉にも慣れていない。けれど、言葉は空気に残り、消えなかった。


 フィオナがか細く言った。


「オルヴィン様。クラリス様は、最初から危ないとおっしゃっていましたわ」


 彼女自身も驚いたような顔をしていた。


 オルヴィンは信じられないものを見るように彼女を見た。


「君まで」


「喉が痛いのです」


 それは小さな反論だった。だが、クラリスには大きく聞こえた。誰かが自分の苦しさを口にする。それだけで、香の場は少し安全になる。


 審理は一時停止となり、正式処分は公開誓香式の日に王家典礼局が判断することになった。式典自体は中止されない。王家側の同盟更新誓香があるためだ。ベイル家の出席推薦だけが審査に回る。


 部屋を出る時、オルヴィンはクラリスの横で低く言った。


「君は後悔する」


 クラリスは立ち止まった。


「後悔はしています」


 彼の目に一瞬、勝ち誇った色が浮かぶ。


「もっと早く、苦しいと言えばよかった」


 その色はすぐ消えた。


 クラリスは彼を残し、白煙廊へ出た。


 廊下の空気は、換気の後で冷たかった。レオンが少し離れて歩いている。近づきすぎず、置いていかず。その距離が、今のクラリスにはありがたかった。


「よく話しました」


「少し、きつく言いすぎたかもしれません」


「必要な強さでした」


 クラリスは窓の外を見た。王宮の庭で、月桂樹の葉が夕方の光に揺れている。


 黒い煙は、もう残っていない。


 けれど、あの濁りを見た者は忘れないだろう。香りが甘くても、嘘は煙に出る。


 その夜、香房へ戻ると、ニナが机に温い茶を置いてくれていた。香りのない、ただ温かいだけの茶だった。


「何を入れればいいか分からなくて」


「何も入れないのが、今は助かります」


 クラリスがそう言うと、ニナはほっとした顔をした。人を気遣うことは、何かを足すことばかりではない。余計な香を引くことも、十分に優しさなのだと、クラリスは湯気の向こうで思った。


 茶を飲み終える頃、マルタが審理記録の写しを持ってきた。黒い煙が出た時刻、蓋をした時刻、フィオナが咳をした時刻まで、文官の細い字で残されている。


「記録は冷たいね」とマルタは言った。


「でも、冷たいから助かります」


 熱い怒りだけなら、明日には形を変えてしまう。かわいそうだ、やりすぎだ、婚約のもつれだと、誰かが香を薄めるように話を変えるかもしれない。けれど冷たい記録は、黒い煙が出たことをそのまま残す。


 クラリスは写しに目を通し、最後に自分の名を書いた。今日は勝ったのではない。止めたのだ。その違いを、紙の上でも間違えたくなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ