第7話 予備誓香の黒い煙
予備誓香の間には、甘い匂いがなかった。
監査室からの通知が効いたのだろう。フィオナは香玉を外し、淡い石鹸の匂いだけをまとって来た。顔色は少し悪い。隣のオルヴィンは不機嫌を隠そうともせず、ダリム香舗の主人はやたらと汗を拭いていた。
クラリスは監査席の横に立った。
机には三つの小さな香炉がある。正規の試験香、ダリム香舗の予備香、白灰だけを入れた比較香。青石は四隅に置き、窓は半分開けた。レオンは入口近くに立ち、全員の位置を確認している。
「予備誓香審理を始めます」
香房長マルタの声が響いた。
最初に、レオンが照会結果を読み上げた。ベイル家推薦状の調合師欄にクラリスの名が使われたこと。本人確認が取れていないこと。月桂灰の仮押さえ札が偽造紙であること。ダリム香舗に誓香資格がないこと。
オルヴィンはすぐ反論した。
「誤解だ。急いでいただけで、後からリュンヌ調合師に整えてもらう予定だった」
クラリスは自分の名が他人の口から出るのを、じっと聞いた。
「クラリスは婚約者だった。家の式典に協力するのは当然だ」
レオンは彼を見た。
「婚約は解消されたと、あなた自身が届け出ています」
「一時的な感情だ。彼女も意地を張っているだけだ」
来た。
クラリスは息を吸った。鼻に入るのは、無香に近い空気。自分の息。
「ベイル卿」
オルヴィンがこちらを見た。昔はその目を見ると、言うべきことが半分になった。怒らせたくない、面倒な女だと思われたくない、婚約者なら支えるべきだ。そんな考えが、香煙のように喉を塞いだ。
今日は違う。
「私は婚約へ戻りません。あなたの推薦状へ後から同意もしません」
間が落ちた。
オルヴィンの頬が赤くなる。
「君は自分の立場を分かっていない。ベイル家との縁を失えば、香房の中で年を取るだけだぞ」
「香房の中で年を取ることは、脅しになりません」
マルタが奥でにやりとした。
「私はここで息ができます」
その一言を言えた時、胸が少し軽くなった。
フィオナが小さく視線を伏せる。彼女は何も言わない。扇も持っていないため、手の置き場に困っているようだった。
レオンが審理を進めた。
「では、ダリム香舗提出の予備香を試験します。安全のため少量のみ。異変があれば即時停止します」
クラリスは試験香炉へ火を入れた。
まず正規の試験香。白い煙が細く上がり、小さな輪を作る。これは比較用だ。
次に、ダリム香舗の予備香。
火を入れた瞬間、甘さが立った。すぐに焦げた匂いが混じる。クラリスは蓋へ手を添え、いつでも止められるようにした。
煙は最初、白かった。
ダリム香舗の主人が安堵の息を漏らす。
だが、白さは薄い膜のようなものだった。煙が輪を作る直前、中心に黒い筋が入り、ふっと裂ける。青石が曇った。フィオナが咳を一つこぼす。
「停止」
クラリスとレオンの声が重なった。
マルタが窓を開け、文官が香炉に蓋をする。黒い煙はすぐ消えたが、焦げ蜜の匂いが残った。
フィオナは口元を押さえている。
「大丈夫ですか」
クラリスが尋ねると、彼女は悔しそうに頷いた。
「少し、喉が」
「水を。息を深く吸わないで、浅く」
フィオナは素直に従った。
オルヴィンは彼女ではなく、香炉を睨んでいた。
「たまたまだ。火加減が悪い」
「では、比較香を焚きます」
クラリスは白灰だけの香炉へ火を入れた。煙は弱く、輪を作らずに沈む。
「白く見える灰だけでは、誓香炉の煙紋は澄みません。月桂灰に似せた灰でも同じです。さらに、濃縮花蜜と焦がし蜜蝋は密閉殿で喉に残ります。ラクト嬢の体質確認がないまま焚けば危険です」
クラリスはダリム香舗の主人を見た。
「あなたは、これを王家誓香殿で焚くつもりでしたか」
主人は汗を拭きながら、オルヴィンを見た。
「ベイル卿が、白い煙が出ればよいと。調合書は後から正規のものが来るから、と」
「余計なことを言うな!」
オルヴィンが叫んだ。
その声に、フィオナがびくりとした。クラリスは彼女の指が震えているのを見た。
レオンが一歩前へ出る。
「ベイル卿。推薦状偽署名、許諾札偽装、資格外香師への依頼、香害防止規定違反の疑いで、王家誓香式への出席推薦を一時停止します」
「そんな権限が」
「あります」
レオンの声は静かだった。大きな声より、よほど強い。
オルヴィンはクラリスを睨んだ。
「満足か。君のせいで、ベイル家は」
「私のせいではありません」
クラリスは言った。
「あなたが、香を軽んじた結果です」
言い切った後、少しだけ手が震えた。怒鳴られ慣れていない。人を断つ言葉にも慣れていない。けれど、言葉は空気に残り、消えなかった。
フィオナがか細く言った。
「オルヴィン様。クラリス様は、最初から危ないとおっしゃっていましたわ」
彼女自身も驚いたような顔をしていた。
オルヴィンは信じられないものを見るように彼女を見た。
「君まで」
「喉が痛いのです」
それは小さな反論だった。だが、クラリスには大きく聞こえた。誰かが自分の苦しさを口にする。それだけで、香の場は少し安全になる。
審理は一時停止となり、正式処分は公開誓香式の日に王家典礼局が判断することになった。式典自体は中止されない。王家側の同盟更新誓香があるためだ。ベイル家の出席推薦だけが審査に回る。
部屋を出る時、オルヴィンはクラリスの横で低く言った。
「君は後悔する」
クラリスは立ち止まった。
「後悔はしています」
彼の目に一瞬、勝ち誇った色が浮かぶ。
「もっと早く、苦しいと言えばよかった」
その色はすぐ消えた。
クラリスは彼を残し、白煙廊へ出た。
廊下の空気は、換気の後で冷たかった。レオンが少し離れて歩いている。近づきすぎず、置いていかず。その距離が、今のクラリスにはありがたかった。
「よく話しました」
「少し、きつく言いすぎたかもしれません」
「必要な強さでした」
クラリスは窓の外を見た。王宮の庭で、月桂樹の葉が夕方の光に揺れている。
黒い煙は、もう残っていない。
けれど、あの濁りを見た者は忘れないだろう。香りが甘くても、嘘は煙に出る。
その夜、香房へ戻ると、ニナが机に温い茶を置いてくれていた。香りのない、ただ温かいだけの茶だった。
「何を入れればいいか分からなくて」
「何も入れないのが、今は助かります」
クラリスがそう言うと、ニナはほっとした顔をした。人を気遣うことは、何かを足すことばかりではない。余計な香を引くことも、十分に優しさなのだと、クラリスは湯気の向こうで思った。
茶を飲み終える頃、マルタが審理記録の写しを持ってきた。黒い煙が出た時刻、蓋をした時刻、フィオナが咳をした時刻まで、文官の細い字で残されている。
「記録は冷たいね」とマルタは言った。
「でも、冷たいから助かります」
熱い怒りだけなら、明日には形を変えてしまう。かわいそうだ、やりすぎだ、婚約のもつれだと、誰かが香を薄めるように話を変えるかもしれない。けれど冷たい記録は、黒い煙が出たことをそのまま残す。
クラリスは写しに目を通し、最後に自分の名を書いた。今日は勝ったのではない。止めたのだ。その違いを、紙の上でも間違えたくなかった。




