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第6話 月桂灰の許諾札

 月桂灰は、白いだけでは足りない。


 王宮の北庭にある古い月桂樹から落ちた枝を、三日干し、七日寝かせ、香房の低火でゆっくり灰にする。灰は指の腹でつぶすと雪のように細かく、けれど湿気を吸うとすぐ重くなる。誓香炉の煙紋を澄ませるための香材だが、使えるのは許諾札のある式典だけだった。


 クラリスは許諾札箱の前で、札を一枚ずつ確認していた。


 王家叙任式、同盟更新式、成年誓約式。どの札にも使用者名、調合師、香房長封、監査印がある。問題の仮押さえ札だけが、どれも欠けていた。


 ベイル家誓香式用。


 たったそれだけ。


「雑だね」


 マルタが横から覗き込んだ。


「雑です。でも、雑だから通らないとは限りません。急ぎの式典では、誰かが後で整えるだろうと思ってしまうことがあります」


「あんたは思わない」


「思わないようにしています」


 クラリスは札の端を見た。紙質が違う。王宮香房の許諾札は、湿気を吸いにくい薄青紙を使う。この札は白い。上から香粉をはたいて、古く見せている。


「外から持ち込まれた札です」


 レオンが記録台の向こうで頷いた。


「紙商へ照会します。ダリム香舗とベイル家の購入記録も」


 その冷静な声が、今は頼もしい。初めて会った時は、監査官というだけで身構えた。自分の判断が疑われるのだと思っていた。けれどレオンは疑うためでなく、事実を分けるために問いを置く。


 クラリスは札を封袋へ入れた。


「予備誓香審理は明日ですね」


「はい。ベイル卿、ラクト嬢、ダリム香舗の主人が出頭します」


「ラクト嬢も」


「使用予定者ですから。ただし、体調が悪ければ別室聴取にします」


 クラリスは迷った末に言った。


「ラクト嬢には、強香を外して来るよう事前に伝えられますか」


 マルタが片眉を上げた。


「親切だね」


「親切ではありません。審理で倒れられると、香の確認ができません」


 半分は本音だった。もう半分は、自分でもよく分からない。


 フィオナを許したわけではない。彼女はクラリスの花嫁香を奪う話に乗った。知らなかったとしても、知ろうとしなかった。けれど、強香で苦しむところを見たいわけでもなかった。


 レオンはその迷いごと受け取るように頷いた。


「監査室から通知します。使用予定者の安全確保として」


「ありがとうございます」


 彼はそこで少しだけ表情を和らげた。


「あなたは、相手を罰したい時でも、空気を悪くしない方法を探すのですね」


「空気が悪いと、私も苦しいので」


 冗談のつもりで言ったが、レオンは真面目に頷いた。


「それは十分な理由です」


 その返事に、クラリスは小さく笑った。


 夕方、紙商から回答が来た。


 問題の白紙は、ダリム香舗が一週間前に購入したものだった。さらに、ベイル家の書記が香粉付きの偽古紙を注文していた記録もある。月桂灰の本物は乾香庫から出ていない。だが、偽札で押さえたように見せ、式典当日に混乱させるつもりだった可能性が高い。


「本物の月桂灰を盗んだわけではないのですね」


 クラリスは少し息を吐いた。


 レオンは首を横に振った。


「盗んでいないことは軽くなります。しかし、許諾を偽装して王家式典へ出ようとしたことは重い」


「はい」


 オルヴィンは、たぶんこう言うだろう。実際には使っていない。誰も倒れていない。形式だけの問題だ、と。


 けれど香の形式は、人の息を守るためにある。


 翌日の予備誓香審理に向けて、クラリスは説明用の香材を準備した。正規の月桂灰、偽の白灰、月桂を使わない安全な代替香。三つを並べると、見た目だけならよく似ている。


 ニナが覗き込み、首を傾げた。


「わたしには全部白く見えます」


「私にも、遠目では同じに見えます」


「リュンヌさんでも?」


「だから、札と手順が要ります。人の目や鼻だけに頼ると、疲れている時に間違えます」


 クラリスはそう言って、自分の鼻先を軽く押さえた。


 自分の感覚を信じることと、感覚だけに頼らないことは、矛盾しない。昔の彼女は、鼻が利くのだから一人で何とかしなければと思っていた。今は違う。鍵、札、同意、監査、見習いの咳。全部が合わせて危険を教えてくれる。


 審理前夜、レオンが香房へ最後の確認に来た。


「明日、ベイル卿が婚約復帰を持ち出す可能性があります」


 クラリスは香匙を止めた。


「なぜですか」


「あなたの名を使えれば、推薦状の瑕疵を補えると考えるかもしれない。あなたが同意したと言わせるために」


 想像しただけで、鼻の奥が冷えた。


 婚約を戻せば、なかったことになる。彼なら言いかねない。家のためだ、式典のためだ、君なら分かってくれるだろう、と。


「戻りません」


 声はすぐ出た。


 レオンはうなずいた。


「分かっています。ですが、場で言われると負担になる。先に想定しておきたかった」


「ありがとうございます」


 クラリスは正規の月桂灰の瓶へ封をした。


「アスター監査官。もし明日、私が一瞬黙ったら」


「はい」


「答えられないのではなく、息を整えているだけです。待っていただけますか」


 レオンの目が、少し柔らかくなった。


「もちろん。あなたの答えを急がせません」


 その言葉は、どんな香より静かに胸へ残った。


 夜、クラリスは自室で自分用の香棚を開けた。そこには空の小瓶が一つある。いつか自分のための香を作ろうと思いながら、ずっと後回しにしてきた瓶だ。


 婚約式が終わったら。仕事が落ち着いたら。ベイル家へ移ったら。


 そう思っているうちに、作らない理由だけが増えた。


 クラリスは小瓶を手に取り、机へ置いた。


 まだ調合はしない。今は明日の審理が先だ。


 けれど、空の瓶を棚へ戻さなかった。


 自分の息に合う香を、いつか他人のためではなく自分のために焚く。その小さな予定が、明日の場へ立つための支えになった。


 机の灯を消す前に、クラリスは月桂葉を一枚だけ紙に包んだ。式典用の灰には使えない、落ち葉に近い小さな葉だ。それでも指で折ると、青く苦い匂いがした。


 苦い香も、悪い香ではない。甘くないからこそ、息をまっすぐにするものがある。


 彼女はその包みを空瓶の隣に置いた。明日の審理で誰かに何を言われても、この苦さを忘れないように。自分が不快だと感じることを、もう気のせいにしないように。


 寝台へ入っても、眠りはすぐには来なかった。オルヴィンに言われた面倒な女という言葉が、時々、耳の奥で乾いた音を立てる。昔のクラリスなら、その言葉を消すために相手へ合わせる香を探しただろう。


 今は違う。面倒でもよい、と小さく思った。月桂灰の粒度を確かめることも、許諾札の紙質を疑うことも、喉が痛いと申告することも、面倒だから人を守れる。


 枕元の空瓶が、月明かりを受けて淡く光っていた。まだ何も入っていない。けれど空であることが、今夜は寂しくなかった。明日の自分が、何を入れるか選べる場所だからだ。


 クラリスは目を閉じた。眠りの直前、青く苦い月桂の匂いがかすかに残った。それは不安を消してはくれない。けれど、不安の中で立つ場所を教えてくれた。

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