表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/10

第8話 誓香殿の朝

 誓香殿の朝は、何も焚いていないのに少し冷たい匂いがした。


 白い石床、銀の香炉、天井まで伸びる換気孔。王家の同盟更新式に使われる大殿は、香房の作業台よりずっと広い。けれど、逃げ道が少ないという意味では同じだった。ひとたび強い香を焚けば、式典の参列者は礼儀のためにすぐ席を立てない。


 クラリスはそれが怖かった。


 だから、日の出前から安全香を準備している。


 王家同盟用の正規誓香とは別に、万が一の濁りを抑えるための薄い清め香。喉に残らず、煙を重くしない配合だ。誓香炉へ直接混ぜるものではない。事故が起きた時、換気孔へ流して空気を戻すための香である。


 ニナが小瓶を並べながら尋ねた。


「リュンヌさん、今日は怖くないですか」


「怖いです」


 クラリスは正直に答えた。


 ニナが目を丸くする。


「怖くても、やるんですか」


「怖いから準備します」


 そう言えるようになった自分に、少し驚いた。


 以前なら、怖くないふりをした。香房の調合師は落ち着いていなければならない。人の式典に不安を持ち込んではいけない。そう思っていた。けれど不安は、瓶の蓋を締め直す手にも、換気孔の位置を確かめる足にもなる。


 レオンが殿の入口から入ってきた。


「換気孔の確認が終わりました。西側が少し重い」


「昨日の雨の湿気ですね。清め香を西へ多めに置きます」


「人員配置は」


「ニナは東扉。マルタ香房長は香炉。私は中央。監査室は」


「私が中央後方、文官が左右。体調不良者が出た場合は、あなたの合図で式を止めます」


 式を止める。


 その言葉に、クラリスは息を飲んだ。王家の式典を止めることは重い。だが、止めるべき時に止めなければ、香房の存在意味がない。


「合図は、青扇を上げます」


「確認しました」


 レオンは少し間を置いた。


「昨夜は眠れましたか」


「前よりは」


「前より、というのは」


「二度しか起きませんでした」


 レオンが真面目な顔で考え込んだので、クラリスは思わず笑った。


「香房基準では、まあまあです」


「その基準は改めた方がいい」


「香礼監査官らしいご意見です」


「本気です」


 彼の声が少し低くなった。クラリスは笑いを引っ込める。


「はい。式が終わったら、休みます」


「約束です」


 誰かとそんな約束をする日が来るとは思わなかった。休むことを、怠けではなく必要な手順として言われる。胸の奥に、薄い白煙のような温かさが広がる。


 式典の刻限が近づき、参列者が入り始めた。


 王家の使者、同盟相手の公使、典礼局の役人。最後に、処分審理のためにベイル家の席が設けられ、オルヴィンとフィオナが入ってきた。


 フィオナは今日は無香だった。顔色はまだ悪いが、目は昨日よりはっきりしている。オルヴィンは唇を結び、誰とも目を合わせない。


 クラリスは彼らを見ても、胸が昔のようには痛まなかった。


 代わりに、式場全体の匂いを確認する。濡れた外套、緊張した人の汗、銀器の冷たい匂い、石床の湿り。異常はない。


 典礼官が開式を告げた。


 まず王家同盟の正規誓香が焚かれる。これは別の誓香師が調合したものだが、クラリスも補助確認に入っている。煙は白く上がり、天井近くで大きな輪を作った。参列者から小さな安堵が漏れる。


 次に、ベイル家推薦問題の公開確認が行われる。


 本来なら王家式典の場で個別家の不備を扱うことはない。だが、推薦状が王家誓香式へ紛れ込んだ以上、典礼局は公開の訂正を選んだ。曖昧にすれば、香房の名も、王家の式典も傷つく。


 レオンが前へ出た。


「ベイル家提出の推薦状に、調合師クラリス・リュンヌの本人確認なき署名が確認されました。また、使用予定香に資格外香師の調合及び許諾札偽装の疑いがあります。本日、比較確認を行います」


 ざわめきが走る。


 オルヴィンが立ち上がった。


「疑いでしかない。正式な誓香を焚けば、煙は白く上がる」


 レオンは彼を見た。


「では、提出香を試験します。ただし安全のため、少量、換気準備下で行います」


 クラリスは青扇を手に取った。掌が汗ばむ。ニナが東扉でこちらを見ている。マルタが香炉の蓋へ手を置く。


 提出香の小皿が中央へ置かれた。


 フィオナが小さく唇を噛むのが見えた。


 クラリスは彼女へ近づきすぎない距離で声をかけた。


「喉に違和感が出たら、すぐ手を上げてください」


 フィオナは驚いた顔をした。


「わたくしに、言うのですか」


「使用予定者です。あなたの申告が必要です」


 彼女は目を伏せ、かすかに頷いた。


「……分かりました」


 火が入る。


 煙は白く上がった。昨日と同じ、薄い膜のような白さ。


 参列者の何人かが安堵したように息を吐く。オルヴィンの顔にも勝ち色が浮かんだ。


 だが、クラリスは青扇を握ったまま動かなかった。


 煙の中心が、重い。


 白い輪ができる直前、内側から黒い筋が走った。花蜜の甘さが焦げ、石床近くへ沈む。青石が曇る。フィオナが咳をした。


 クラリスは青扇を上げた。


「停止」


 マルタが蓋をし、レオンが手を上げ、換気扇が開く。クラリスは西側の換気孔へ清め香を流した。薄い白檀と青樹脂が、重い甘さを押し上げる。殿の空気が少しずつ戻った。


 参列者は静まり返っている。


 クラリスは心臓の音を聞きながら、中央へ立った。


 ここから先は、彼女が説明しなければならない。


 レオンは何も言わず、一歩下がった。


 クラリスはその沈黙を受け取り、口を開いた。


「今の煙は、白く見せるために調整されています。ですが、呼気紙、体質札、香材許諾の反応がそろっていないため、中心が黒く濁りました。これは美しさの問題ではありません。密閉した誓香殿で焚けば、使用者と参列者に害を及ぼす香です」


 声は震えなかった。


 誓香殿の朝の冷たい匂いは、もうない。代わりに、清め香の薄い青さが空気を支えている。


 クラリスは、自分が今、恐怖の中で息をしていることを知っていた。


 恐怖が消えるまで待っていたら、きっと青扇は上げられなかった。手が汗ばんでいても、膝が頼りなくても、止めるべき香は止められる。そう知った時、クラリスはようやく、強い人になったのではなく、怖いまま働く方法を覚えたのだと思った。


 レオンはまだ一歩下がった場所にいた。彼が説明を奪わないことが、今は何より心強い。クラリスは参列者の視線を受け、次の言葉を自分で選んだ。


「香房の仕事は、よい香りで場を飾ることだけではありません」


 自分の声が、白い壁に返る。


「合わない香を焚かないこと。苦しい人の申告を聞くこと。必要なら、式を止めること。それらも同じ仕事です」


 典礼官の一人が、ゆっくりと頷いた。参列者の視線はまだ重い。けれど、その中に嘲りはなかった。誰もが黒い筋を見たからだ。甘い香が、礼儀正しい沈黙の中でどれほど危険になるかを見たからだ。


 クラリスは青扇を胸の前で閉じた。手はまだ震えていたが、扇の骨は折れなかった。


 次に開く時も、きっと怖い。それでも、この扇は飾りではない。息を守るための合図なのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ