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第3話 白煙廊の監査官

 白煙廊は、王宮でいちばん静かに嘘を嫌う場所だった。


 長い廊下の左右には小さな香炉が並び、試験用の煙が細く上がっている。正しい誓香なら、煙は白く、途中で折れずに輪を作る。香材の許諾が欠けていたり、本人の呼気と合わなかったりすれば、煙は薄灰に濁り、輪の端がほどける。


 クラリスはその廊下で、朝から試験香を整えていた。


 昨日見つかった月桂灰の仮押さえ札は、監査室の封箱に保全された。今日は、誓香制度の予備説明として、香房内で小規模な煙紋実演を行う。立ち会うのはマルタ香房長、レオン、文官二名、そして希望した見習い数名だけだ。


 本当なら、外部の者を入れる前に自分たちで確かめる。クラリスはそう決めた。


「顔色が悪い」


 背後から声がして、彼女は香匙を落としかけた。


 レオンが入口に立っていた。今日は監査官服の上に、香避けの薄布を首元へ巻いている。布に香りはない。洗いたての麻の、ほとんど匂わない清潔さだけがあった。


「眠れませんでしたか」


「少し」


 嘘をついても仕方がなかった。


 昨夜、クラリスは自室で何度も目を覚ました。オルヴィンが調合書を奪う夢を見た。鍵鎖が首に絡まる夢も見た。目覚めるたび、枕元に置いた香水瓶が気になって蓋を確かめた。


「実演は延期できます」


「いえ。香は置きすぎると湿気を吸います」


「あなたの体調も、調合の条件です」


 そう言われて、クラリスは言葉に詰まった。


 香材の湿気、火加減、灰の粒度。そういうものならいくらでも気にしてきた。けれど自分の体調を条件に入れることは、いつも後回しだった。


「座って調合します。それなら大丈夫です」


 レオンは頷いた。


「では、椅子を」


「自分で」


「運ぶのは私でも、調合はあなたです」


 返す言葉がなく、クラリスは小さく礼をした。


 椅子を置かれ、腰を下ろすと、膝の強張りに気づいた。立っている間は、強く見せるために力を入れていたのだろう。


 見習いのニナが、白い小皿を持って近づいた。


「リュンヌさん、白檀を篩いました」


「ありがとう。粒がそろっていますね」


 ニナは嬉しそうに笑い、すぐに表情を曇らせた。


「昨日、わたし、咳をしてしまって」


「咳は悪いことではありません。身体が危ないと知らせてくれたのです」


 クラリスは言いながら、自分にも聞かせている気がした。


 実演には三つの香を用意した。


 一つ目は、正規手順を踏んだ試験香。見習いニナの呼気紙と体質札を使い、刺激の少ない白檀を中心にしたもの。


 二つ目は、呼気紙を入れ替えた香。同じ材料でも、本人が違えば煙紋が乱れる。


 三つ目は、フィオナの香玉に近い濃度へ調整した強香。誓香ではなく、危険の説明用に少量だけ焚く。


 マルタが腕を組んだ。


「三つ目は、ほんの一瞬だよ。見習いを倒したら承知しない」


「はい。扉を開け、青石を置きます」


 レオンが青石を三つ、廊下の端に配置した。彼の動きは慣れていたが、三つ目の皿を見た時だけ、指がわずかに止まった。


 クラリスはそれを見逃さなかった。


「アスター監査官、三つ目は外しますか」


「必要な実演なら、行ってください」


「必要ではあります。でも、あなたが苦しいなら、別の監査官を」


 彼は驚いたようにこちらを見た。


 クラリスも自分の言葉に少し驚いた。昨日までなら、監査官に意見するなど考えなかった。けれど強香の怖さを知る人を、説明のために無理に立たせるのは違う。


 レオンは短く息を吐いた。


「白煙廊の端に立ちます。苦しくなれば申告します」


「必ずです」


「約束します」


 そのやり取りを、マルタが面白そうに見ていた。


 実演が始まった。


 ニナ用の試験香は、淡く白い煙を上げた。輪は小さいが、きれいに閉じている。ニナが目を輝かせる。


「わたしの息でも、煙紋になるんですね」


「なります。誓香は身分ではなく、本人に合わせるものです」


 クラリスは二つ目の香を焚いた。同じ材料、同じ火加減。違うのは呼気紙だけ。煙は最初こそ白かったが、途中で端がほどけ、薄灰の筋が入った。


 見習いたちがざわめく。


「香りは似ているのに」


「香りが似ていても、誓いは別の人のものです」


 クラリスは自分の声が廊下へ広がるのを聞いた。


「他人の呼気で合わせた香を流用すれば、誓香炉はそれを不一致として示します。炉が心を読むわけではありません。材料と呼気と灰の反応が、合っていないことを見せるのです」


 レオンが文官へ記録を促す。彼は一言も口を挟まない。説明を奪わず、必要な場所だけ支える。その距離がありがたかった。


 三つ目の強香を焚く前に、クラリスは全員へ下がるよう告げた。


「これは誓香ではありません。濃度の危険を見るため、一息分だけ焚きます」


 火を入れると、甘い匂いが瞬時に広がった。花蜜、熟れた果実、砂糖漬けの花弁。それだけなら華やかだ。けれど白煙廊の閉じた空気では、喉の奥へ重く貼りつく。


 青石が白く曇った。


 ニナが袖で口を押さえ、マルタがすぐに蓋をした。


 レオンは廊下の端で、目を細めていた。咳はしていない。だが、手袋の指が強く握られている。


「換気します」


 クラリスは窓を開け、香避け扇で空気を流した。レオンの方へ近づきかけ、途中で止まる。自分の袖にも強香がついているかもしれない。


「アスター監査官、こちらへは近づかない方が」


「大丈夫です」


「大丈夫ではなく、状態を教えてください」


 言ってから、また驚いた。


 レオンはほんの少し笑った。


「鼻の奥が痛い。匂いは分かります。目眩はありません」


「水を」


 ニナが急いで水差しを持ってきた。レオンは礼を言って受け取る。


「五年前も、こういう香でしたか」


「もっと雑でした。甘さの下に、焦げた獣脂の匂いがあった」


 クラリスは眉をひそめた。


「香材を早く燃やしすぎています。鼻を傷めます」


「当時、誰も止めなかった」


「止められなかったのでは」


「止める役が、香を飾りだと思っていました」


 その言葉は、オルヴィンの声と重なった。


 香りなど誰が焚いても同じ。


 違う。同じではない。香は人を落ち着かせることもあれば、逃げられない場所で人を傷つけることもある。


 クラリスは実演記録に署名した。


「予備誓香の場では、これを示します。香りの美しさではなく、合うかどうか、安全かどうかを」


 マルタが頷いた。


「よく言った」


 レオンも記録へ署名した。


「監査室として、実演の場を承認します。ただし、強香の再現は最小限。あなたの安全も含めて」


「はい」


 クラリスは椅子から立ち上がった。少し膝が震えたが、倒れるほどではない。


 白煙廊には、換気後の薄い白檀だけが残っている。華やかではない。けれど、息ができる匂いだった。


 クラリスはその空気を吸った。


 自分が苦しいと言うことは、誰かを責めるだけではない。誰かが倒れる前に扉を開けることでもある。


 その当たり前を、ようやく自分の声で言えた気がした。


 片づけの終わり、レオンは強香に触れた青石を別箱へ移した。証拠としてではなく、次に同じ匂いを入れないための処置だという。壊れたものを責めるより、次の空気を守る。その考え方は、クラリスの胸に静かに残った。

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