第2話 乾香庫の鍵は渡さない
監査室へ向かう廊下は、香房よりずっと無臭に近かった。
それがかえって落ち着かず、クラリスは何度も袖口を確かめた。白檀の粉がついていないか。強い花蜜香が残っていないか。届け出を出す者が相手の匂いを持ち込むのは、どこか負けたような気がした。
香礼監査室の扉には、薄い青石がはめ込まれている。強香が近づくと石が曇る仕組みだ。今朝はわずかに白く濁っていた。フィオナの香が、クラリスの外套にまで残っているのだろう。
「外套を脱いでもよろしいですか」
扉番の文官が驚いた顔をした。
「もちろんです。どうぞ、こちらへ」
クラリスは外套を預け、深く息を吐いた。自分が敏感すぎるのだと言われ続けてきたせいで、こういう小さな申告にも勇気が要る。けれど文官は嫌な顔をせず、青石の濁りを記録簿へ書きつけた。
それだけで、少し肩が下がった。
「リュンヌ調合師」
奥から低い声がした。
現れたのは、濃紺の監査官服を着た男性だった。黒髪を後ろで束ね、首元の飾り紐には香礼監査官の銀章が留められている。年は二十代後半だろう。鋭い顔立ちだが、近づく足取りはゆっくりだった。人の呼吸を乱さない距離を知っている歩き方だ。
「レオン・アスターです。本件を担当します」
「クラリス・リュンヌです。届け出をお願いいたします」
灰色紙を差し出すと、彼はまず紙を受け取らず、机の端を示した。
「そこへ置いてください。強い香が残っている可能性があるなら、直接受け渡しは避けましょう」
クラリスは瞬きをした。
「……分かりますか」
「扉の青石が曇りました。あなた自身の香ではないように見えます」
見えます、という言い方が不思議だった。匂います、ではない。断定しないための言葉だ。クラリスは灰色紙を机へ置いた。
レオンは薄い手袋をはめ、内容を読む。
「婚約解消。誓香流用指示。乾香庫の不正開庫要求。調合書引き渡し要求。相手はオルヴィン・ベイル卿、使用予定者はフィオナ・ラクト嬢」
「はい」
「あなたは調合を拒否した」
「拒否しました」
「理由は」
そこで一瞬、喉が縮んだ。
腹が立ったから。捨てられたから。自分の香を奪われたくなかったから。どれも本当だ。けれど、それだけでは監査書類にならない。
クラリスは机の上で指をそろえた。
「ラクト嬢の呼気合わせ、体質確認、本人同意、香材許諾がありません。ベイル卿用に調整した基礎香を流用すれば、誓香炉の煙紋が不成立になる可能性があります。また、ラクト嬢の現在の香水は濃度が高く、密閉した誓香殿では香害の危険があります」
レオンはうなずき、羽ペンを走らせた。
「私情ではなく、安全判断として拒否した。そう記録します」
私情ではない。
言われて、胸の奥が少しだけ熱くなった。私情もある。傷ついていないわけではない。けれど、傷ついたから間違った判断をしたのではないと、誰かが先に認めてくれた。
「乾香庫の鍵は」
「ここにあります」
クラリスは腰の鍵鎖を外さず、見えるように少し持ち上げた。
「香房長の封もありますか」
「はい。乾香庫は二名照合です。私の鍵だけでは開きません」
「では、今日中に封を確認します。調合書は」
「香房に保管しました。写しはありません」
レオンが顔を上げた。
「写しを作らなかった理由は」
「誓香調合書は、本人ごとの呼気紙と組み合わせて初めて意味があります。断片だけが外へ出ると、香師が真似をして事故を起こすので」
「正しい判断です」
その短い評価に、クラリスは視線を落とした。
褒められ慣れていないわけではない。香の仕上がりを褒める人はいる。よい香りだ、美しい煙だ、式典にふさわしい、と。けれど、渡さなかったこと、写しを作らなかったことを正しいと言われたのは初めてだった。
レオンは別の用紙を取り出した。
「本日午後、香房へ監査に入ります。あなたは立ち会えますか」
「立ち会います」
「無理なら別の調合師を」
「立ち会います」
思ったより強く言ってしまい、クラリスは慌てて口を押さえた。
レオンは責めなかった。
「では、立ち会い人をあなたに指定します。体調が悪くなったら申告してください。香の場では、我慢は美徳ではありません」
クラリスは返事に詰まった。
我慢は美徳ではない。
香房で育った彼女にとって、我慢は作業の一部だった。鼻が利きすぎる者は、まず自分を疑う。自分だけが苦しいのではないか。自分の感覚が細かすぎるのではないか。相手の好きな香を否定するのは失礼ではないか。
その我慢を、監査官は安全上の問題として扱った。
「アスター監査官は、香にお詳しいのですね」
彼の表情がほんの少しだけ動いた。
「詳しいというより、失敗した香を知っています」
「失敗した香、ですか」
「五年前、地方の叙任式で不正な強香が焚かれました。私は警備側にいて、数日間、匂いをほとんど感じなくなった」
クラリスは思わず息をのんだ。
嗅覚を失う。それは香房の人間にとって、声を失うのに近い。
「今は」
「戻りました。ただ、強すぎる甘香は苦手です」
彼は淡々と言った。けれど、扉の青石を見た時の距離の取り方も、直接紙を受け取らなかった理由も、すべてそこにつながった。
「申し訳ありません。私の外套に」
「あなたが謝ることではありません」
レオンは静かに遮った。
「香をまとう自由はあります。しかし、人が逃げられない場で焚くなら、責任が生じる。今回の争点はそこです」
クラリスは頷いた。
傷ついた心が、少し形を変えた。ただ捨てられた女ではなく、危険な香を止めた調合師として立てる。そう思うと、膝の頼りなさが薄くなる。
午後、レオンと二名の文官が香房へ来た。
オルヴィンたちはもういなかったが、強い花蜜香はまだ棚の布に残っていた。マルタ香房長が眉間に皺を寄せ、窓を開けている。
「よく残るねえ。良い香というより、しつこい香だ」
クラリスは布を持ち上げ、換気箱へ入れた。
「すみません、香房長。先に私が止めるべきでした」
「止めただろう。鍵を渡さなかった」
マルタは乾香庫の封をレオンへ見せる。封は無事だった。二名照合の印も欠けていない。クラリスは胸をなで下ろす。
だが、許諾札箱を開いた時、レオンの手が止まった。
「月桂灰の予備札が一枚、仮押さえになっています」
クラリスは箱を覗き込んだ。
月桂灰は誓香炉の煙紋を澄ませる希少香材で、王家式典用にしか使えない。札には、使用予定者と調合師の名を記す。そこに、見慣れない筆跡で `ベイル家誓香式用` とだけ書かれていた。
「私の字ではありません」
声が乾いた。
レオンは札に触れず、文官を呼んだ。
「保全します。リュンヌ調合師、これはあなたが仮押さえしたものではない」
「違います。使用者名も、呼気番号もありません。こんな札は通りません」
「分かりました」
レオンの声は穏やかなままだったが、目が冷えた。
「ベイル卿は、鍵を渡される前から香材を押さえようとしていた可能性があります」
クラリスは鍵鎖を握った。小さな銀の輪が、掌に食い込む。
渡さなくてよかった。
そう思った瞬間、婚約破棄の痛みとは別の震えが来た。自分が止めなければ、あの札は通ったことにされ、香は焚かれたかもしれない。
「アスター監査官」
「はい」
「私、予備誓香の場で説明します。誓香がなぜ誰でも同じではないのか」
レオンはクラリスを見た。
「あなたが望むなら、監査席を用意します。望まないなら、私が制度説明だけを行います」
「私が話します」
声はまだ少し震えていた。けれど、息はできた。
レオンは短く頷く。
「では、そのための場を整えます。あなたの言葉で、お願いします」
乾香庫の鍵は、まだクラリスの腰にある。
それは閉じるためだけの鍵ではない。正しく開く日まで、香と人の息を守るための鍵だった。




