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第1話 香りなど誰が焚いても同じ

 乾香庫の鍵を渡せ、と言われた瞬間、クラリス・リュンヌは息を止めた。


 王宮香房の朝は、まだ火を入れる前でも静かに匂う。干した白檀、砕いた月桂灰、雨の前だけ甘くなる青樹脂。香りは目に見えないくせに、扉の隙間や袖口から勝手に入り込み、人の機嫌まで変えてしまう。だからこそ扱いを間違えてはいけない。


 作業台の向こうで、婚約者だったオルヴィン・ベイルは、その全部を退屈そうに見下ろしていた。


「聞こえなかったのか。乾香庫の鍵だ。フィオナに花嫁香を焚かせる。君は調合書を渡してくれればいい」


 彼の隣で、薄紫のドレスをまとったフィオナ・ラクトが微笑んだ。髪に挿した香玉から甘い花蜜の匂いが濃く立つ。美しい。けれど強すぎた。香房の見習いが奥で小さく咳をした。


「ラクト嬢は、呼気合わせを受けていらっしゃいますか」


「またそれか」


 オルヴィンは笑った。あまりに軽い笑いだったので、クラリスは手元の乳鉢をそっと押さえた。陶器に入っているのは、彼との婚姻誓香のために試作した基礎香である。彼の呼気紙と、クラリス自身の体質札に合わせて、三月かけて調整したものだった。


「香りなど、誰が焚いても同じだろう。甘くて、上品で、煙が立てばいい」


「同じではありません」


「君は昔から大げさだ。火をつけるだけの仕事に、いくつ規則を並べるつもりだ」


 火をつけるだけ。


 その言葉は、強い香より喉に刺さった。クラリスは鼻の奥が痛むのを隠すため、静かに息を吐いた。


 誓香は、王家の婚姻、叙任、同盟に使う。本人の呼気を染み込ませた紙、体質確認、香材の許諾、同意署名。すべてがそろって初めて、誓香炉は澄んだ煙紋を上げる。香りが良いかどうかではない。人の息と、意思と、安全を確かめるための香だ。


 オルヴィンは机に置かれた調合書へ手を伸ばした。


 クラリスはその前に掌を置く。


「これは渡せません」


「クラリス」


「ラクト嬢用に調合していない香を焚けば、誓香炉は濁ります。体質に合わなければ、咳や目眩も起こります」


 フィオナが扇で口元を隠した。


「わたくし、香には慣れておりますの。舞踏会では、いつも皆様に褒められますわ」


「香水と誓香は違います。誓香は、閉じた殿で長く吸うものです。濃い香に慣れていることと、安全であることは同じではありません」


 その言い方が少し硬かったのは自分でも分かった。けれど、見習いの咳を聞いた後で柔らかく言い換える余裕はなかった。


 オルヴィンの顔から笑みが消えた。


「君は、フィオナが王家の誓香式に立つのが気に入らないだけだろう」


「気に入るかどうかではありません」


「なら話を簡単にしよう。婚約は解消する。ベイル家には、香房に閉じこもって人の匂いに文句ばかり言う妻はいらない。私の隣に立つのはフィオナだ」


 乳鉢の中で、砕きかけの白檀が乾いた音を立てた。クラリスの指が、乳棒を握りすぎていた。


 婚約が決まった日、オルヴィンは香房を見て「君の作る香は落ち着く」と言った。その一言が嬉しくて、彼のためなら少し強い社交香も我慢できると思った。香に無頓着な彼へ、疲れない濃度を教え、衣に残りにくい配合を作り、夜会のたびに目立たない支度をしてきた。


 彼が欲しかったのは、落ち着く香ではなかったのだろう。いつでも都合よく焚ける、目に見えない飾りだった。


「承知しました」


 クラリスの声は、自分が思ったより冷えていた。


「では、なおさら鍵は渡せません。婚約者ではない方のために、私が管理する乾香庫を開く理由はありません」


 フィオナの扇が止まる。


「でも、オルヴィン様はベイル家の方ですわ。王家誓香式の推薦を受けていらっしゃるのでしょう」


「推薦は、正しい誓香を焚く資格ではありません」


「君の許可などなくても、外の香師に頼めばいい」


 オルヴィンは吐き捨てるように言った。


「そうなさるなら、正規の申請をしてください。呼気紙、体質札、香材許諾札、本人同意。すべて最初からです」


「間に合うわけがないだろう!」


「だから、流用してはいけないのです」


 香房の空気がぴんと張った。奥の見習いが、今度は咳をこらえた。クラリスは見習いへ目だけで窓を開けるよう合図した。フィオナの香玉の匂いが、炉を焚く前の部屋には濃すぎる。


 オルヴィンはその動きも気に障ったらしい。


「人前でフィオナを悪者にするつもりか」


「悪者にしたいのではありません。息が苦いのです」


 言った後で、クラリスは自分で驚いた。


 いつも飲み込んできた一言だった。夜会で頭痛がしても、香りに酔って食事ができなくても、相手の好みを否定するのは失礼だと思って黙ってきた。けれど誓香殿で黙れば、人が倒れる。


「あなたは本当に面倒な女だ」


 オルヴィンの声が低くなった。


「鍵を渡せ。調合書もだ。最後くらい、役に立て」


 クラリスは腰の鍵鎖へ手を置いた。銀の鍵は三つ。乾香庫、呼気紙棚、許諾札箱。どれも軽いが、渡せば戻らないものがある。


「渡しません」


「クラリス!」


「香礼監査室へ届け出ます。婚約解消、誓香流用指示、乾香庫の不正開庫要求。私の名で」


 その言葉に、オルヴィンが初めて目を見開いた。


「監査を入れる気か。ベイル家に恥をかかせるつもりか」


「恥になる行いを止めるためです」


 クラリスは調合書を閉じ、革紐で結んだ。試作香の乳鉢には布をかける。誰かに奪われるのを恐れての動作ではない。香は、急に空気へさらすだけで変わる。怒鳴り声の中でも、手順は守る。


 フィオナが小さく笑った。


「そんな地味な香房の規則で、式典を止められると思いますの?」


 クラリスは彼女を見た。きれいな人だ。自分の香で人が咳き込むことに、本当に気づいていない顔をしている。


「止めたいのは式典ではありません。間違った香です」


 香房長のマルタが奥から出てきた。白髪をきちんと結い、手には監査届けの灰色紙を持っている。


「リュンヌ調合師」


「はい」


「書きな。香房の鍵は、香房が守る」


 短い言葉に、クラリスの喉が詰まった。味方をしてくれたからではない。規則を正しく言ってくれたから、泣かずにいられた。


 クラリスは灰色紙へ署名した。


 婚約を失った実感は遅れて来るだろう。今はただ、鼻の奥が痛く、指先が冷たく、けれど鍵は腰にある。


 オルヴィンたちが香房を出ていく。フィオナの強い花蜜香が、扉の閉まった後もしばらく残った。


 クラリスは窓を大きく開けた。


 初夏の風が入り、干した白檀の匂いを薄くほどく。胸いっぱいに吸うと、まだ少し苦かった。それでも、自分の息だった。


「監査室へ行ってまいります」


 マルタは頷いた。


「息を詰めるんじゃないよ」


 クラリスは鍵鎖を握り、香房の白い廊下へ出た。


 今日、婚約者を失った。けれど、自分の息まで誰かに焚かせるつもりはなかった。


 廊下の角で、一度だけ足が止まった。泣きたいのか、怒りたいのか、自分でも分からない。ただ、香房の扉の向こうでマルタが窓を開ける音がした。強い花蜜香を追い出す、実務的で確かな音。


 クラリスはその音に背中を押され、監査室へ向かって歩き出した。恋は終わった。だが、仕事は終わっていない。

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