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第4話 花嫁香は飾りではない

 フィオナ・ラクトは、白煙廊へ入った瞬間に顔をしかめた。


「思ったより地味な場所ですのね」


 彼女の香玉は、今日は三つから一つに減っていた。それでも甘い。先日の花蜜香よりは薄いが、白煙廊の清浄な空気にはよく目立つ。クラリスは窓の位置を確かめ、青石を二つ追加した。


 オルヴィンがその動きを鼻で笑った。


「また大げさな準備だ」


「予備誓香の前説明です。安全確認を行います」


 クラリスは公的な声で答えた。胸は落ち着いていない。婚約者だった男が、別の女性の手を取って自分の仕事場に立っている。その絵が何も痛くないわけではない。


 けれど今朝の痛みは、彼を取り戻したい痛みではなかった。


 この人はまだ、香を飾りだと思っている。そのことが怖かった。


 レオンは監査席の端に立っていた。口を挟まず、記録員と青石を確認している。マルタ香房長は奥で腕を組み、フィオナの香玉をじっと見ていた。


「本日は、花嫁香と誓香の違いを確認します」


 クラリスは三つの小皿を机へ置いた。


「第一に、社交用の香水。第二に、衣へ移す花嫁香。第三に、王家誓香式で焚く誓香です。似ていても役割が違います」


 フィオナが扇を開く。


「どれも良い香りならよろしいのではなくて?」


「よい香りの基準が違います。社交用は短時間で印象を残すもの。花嫁香は衣や髪に移し、近くにいる方へ柔らかく届くもの。誓香は、閉じた殿で当事者と証人が吸うものです。強すぎれば危険です」


「わたくしの香が危険だと?」


 声が尖った。


 クラリスは一度だけ息を整えた。


「ラクト嬢の香水が悪いと言っているのではありません。場所と目的に合わない可能性があるという話です」


 オルヴィンが机を指で叩く。


「結局、フィオナを貶めたいだけだ」


「では、ベイル卿。あなたが先にお試しになりますか」


 自分でも、少し意地悪な言い方だったと思う。


 オルヴィンは一瞬詰まり、それから顎を上げた。


「もちろんだ」


 クラリスは香水をほんの一滴、試験布へ落とした。火にはかけない。布から立つ香だけを、試験用の小さな覆いの中で確かめる。オルヴィンは最初、余裕の顔で近づいた。


 三息目で、眉を寄せた。


「少し、甘いな」


「密閉した誓香殿では、この数倍長く吸います」


「薄めればいい」


「薄め方にも手順があります。香水を水で薄めるだけでは、香材が分離して煙が濁ります」


 次に、クラリスは衣用の花嫁香を示した。淡い白い香。髪飾りや袖口に移すものだ。火を入れず、体温で開く。


 フィオナは少し身を乗り出した。


「これは素敵ですわ。これならわたくしにも」


「衣には使えます。ただし、これもラクト嬢の体質確認後です」


「本当に細かいのね」


「細かいから、事故が少ないのです」


 マルタが小さく笑った。クラリスは聞こえないふりをした。


 最後に誓香を焚く。


 これはニナの呼気紙で合わせた試験香だ。煙は白く上がり、輪を作る。フィオナが目を丸くした。


「きれい……」


 その声に、クラリスの胸の硬さが少し緩んだ。


 フィオナは本当に、何も知らなかったのかもしれない。香で人を飾ることは知っていても、香が人を守るものだとは教わらなかったのかもしれない。


 だが、オルヴィンは違った。


「つまり、こういう白い煙が出ればいいのだろう」


「違います」


 クラリスはすぐに答えた。


「この煙は、ニナの呼気紙に合わせたから澄んでいます。ラクト嬢で同じ煙が出るとは限りません」


「なら、フィオナの呼気紙を使えばいい」


「それには本人同意、体質確認、香材許諾、調合期間が必要です。王家式典まで三日では足りません」


 オルヴィンは舌打ちした。


「君が協力すれば足りる」


「足りません」


「まだ意地を張るのか」


「意地ではなく、乾燥日数です」


 あまりに実務的な返答だったせいか、見習いの誰かが小さく吹き出した。オルヴィンの顔が赤くなる。


「クラリス、君は本当に場をわきまえない」


「香は、場をわきまえる仕事です」


 言ってから、少しだけ胸がすいた。


 レオンが記録員へ頷き、実演結果を読み上げさせた。社交香は誓香殿で使用不可。花嫁香は体質確認後に衣用として限定可。誓香は本人呼気紙と同意が必要。


 フィオナは扇を閉じ、机の誓香を見つめていた。


「わたくし、誓香式に立てないのですか」


 声は、初めて少し不安そうだった。


 クラリスは彼女を責める言葉を探さなかった。


「正規の手順なら、立てます。ただ、三日後の王家式典には間に合いません」


「でも、オルヴィン様は、もう推薦状を」


 オルヴィンが鋭く彼女を見た。


「フィオナ」


 その一瞬で、クラリスは気づいた。


 彼は、間に合わないことを知っていたのだ。知っていて、クラリスの花嫁香を流用しようとした。外部香師を呼ぶという話も、おそらく正規手順ではない。


 レオンも同じことを読んだのだろう。監査席から一歩だけ前へ出た。


「ベイル卿。推薦状には、使用予定誓香の調合師名が必要です。どなたの名で提出されましたか」


「それは、家の書記が」


「どなたの名で」


 オルヴィンは答えなかった。


 沈黙の中、クラリスの袖口が風で揺れた。香房の窓から入った空気が、白い煙を少しだけ傾ける。煙紋はそれでも輪を保っていた。


 レオンは文官へ指示を出した。


「推薦状写しを照会します」


 オルヴィンの顔色が変わった。


「そこまでする必要があるのか」


「あります。誓香調合師の名が無断で使われた可能性があります」


 クラリスは自分の名を思った。


 香房の記録に書く、何度も見慣れた名前。婚約すればベイル姓になるはずだった名前。今朝まで、その未来が消えたことを少しだけ寂しく思っていた。


 けれど、無断で使われるくらいなら、消えた方がましだ。


「アスター監査官」


「はい」


「照会結果が出るまで、私の名による誓香申請をすべて停止してください」


 レオンは一瞬、目を細めた。


「あなたの業務に影響が出ます」


「構いません。勝手に使われるよりは」


 彼は頷いた。


「受理します」


 オルヴィンが何かを言おうとしたが、マルタが先に口を開いた。


「香房長としても同意するよ。リュンヌ調合師の名は、本人が使うものだ」


 白煙廊に、静かな重さが満ちた。


 フィオナは初めて、オルヴィンの手を少しだけ離した。


 その小さな動きを、クラリスは見た。相手を憎むには、彼女はまだ何も知らなすぎる。だが、知らなかったからといって、香を焚いてよい理由にはならない。


 実演の後、クラリスは試験香を片づけた。


 白い煙の輪はもう消えている。けれど、空気は澄んでいた。


 花嫁香は飾りではない。


 誰かの名をまとわせるための匂いではなく、その人が息をして立つための香なのだ。


 調合台を拭く布に、ほんのわずかフィオナの花蜜香が移っていた。クラリスはそれを責めるように洗わず、換気箱へ入れて時間を置いた。強すぎる香も、正しく薄めれば害だけではなくなる。人もそうならよいのに、と考えてから、彼女は首を振った。薄めるかどうかを決めるのは、本人でなければならない。

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