第五話 やめられない
神谷透は、その場から動けなかった。
目の前では、誰も触れていない酒瓶がゆっくりと傾き、透明な酒がグラスへ注がれ続けている。
コポ……コポ……。
やがて酒は八分目で止まった。
酒瓶は独りでに元の位置へ戻る。
静まり返った部屋。
透は震える手でスマートフォンを構えた。
「……撮らなきゃ。」
その言葉を口にした瞬間、自分で息を呑んだ。
違う。
撮りたいのではない。
撮らなければならない。
胸の奥から湧き上がる、説明のできない義務感。
「やめろ……。」
「今日は配信しない。」
そう何度も呟く。
しかし体は机へ近づいていく。
椅子を引く。
座る。
スマートフォンを三脚へ固定する。
録画ボタンを押す。
まるで昨日と同じ動きを、誰かに操られるように繰り返していた。
「……違う!」
透は立ち上がり、スマートフォンの電源を切る。
「もう終わりだ!」
その瞬間。
真っ暗になったはずの画面が、ひとりでに点灯した。
映っていたのはカメラではない。
ライブ配信画面だった。
視聴者数――12,847人。
「な……。」
コメント欄が勢いよく流れていく。
> 「今日は飲まないの?」
> 「早く乾杯して。」
> 「待ってるよ。」
> 「あと九十六日。」
最後の一文だけ、他のコメントよりゆっくりと流れた。
透は慌ててアプリを閉じようとする。
閉じられない。
電源ボタンを長押しする。
切れない。
スマートフォンは勝手に配信を続けていた。
「ふざけるな!」
怒鳴り声が部屋に響く。
その瞬間、机の黒い模様がわずかに脈打った。
ドクン。
心臓の鼓動のような音。
そして黒い線が、昨日より少しだけ伸びる。
「模様が……動いた?」
恐る恐る指先で触れる。
冷たい。
まるで濡れた肌に触れたような感触だった。
慌てて手を引く。
指先には、黒い染みが付いていた。
洗面所へ駆け込み、水で洗う。
何度洗っても落ちない。
鏡を見る。
自分の後ろ。
一瞬だけ、着物姿の幼い男の子が立っていた。
透は振り返る。
誰もいない。
もう一度鏡を見る。
そこにも何も映っていない。
「……疲れてるだけだ。」
そう言い聞かせても、声は震えていた。
その夜。
都市伝説を扱う配信者・佐伯ミオから突然連絡が入る。
> 「神谷さん、話があります。」
指定されたビデオ通話に出ると、ミオは開口一番、こう言った。
「あなたの動画、全部見ました。」
「……どう思った?」
透が尋ねると、ミオは机に一枚の古びた写真を置いた。
白黒写真。
明治時代のものらしい。
酒蔵の前で並ぶ村人たち。
その中央には、一家五人が座っている。
そして、その机には――
透が毎日描いているものと、まったく同じ黒い模様が刻まれていた。
ミオは静かに言った。
「この模様……百年以上前から存在します。」
「しかも、この写真に写っている人たちは……」
一拍置き、声を落とす。
「全員、その年に行方不明になっています。」
透は息をのんだ。
画面越しに見える写真の隅。
幼い男の子がこちらを見て、ゆっくりと笑ったような気がした。




