第23話 酒の名前
八日目の朝。
神谷透は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
部屋は暗い。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が入っている。
喉が渇いていた。
ベッド脇の水を取る。
しかし、飲む直前に手が止まった。
昨日の出来事を思い出したからだ。
水まで酒の味がした。
恐る恐る口をつける。
――水だった。
透は安堵した。
「……今日は大丈夫か。」
その直後。
スマートフォンが震える。
画面には一件の通知。
«100日限界チャレンジ 参加者20万人突破»
たった一晩で、二万人近く増えていた。
透は数字を見つめる。
自分が始めたわけではない。
それでも、自分の名前がこの騒ぎの中心にある。
そして、その数字を見た瞬間――
なぜか少しだけ嬉しいと感じてしまった。
透は自分に嫌悪した。
「……何考えてるんだ。」
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午前十時。
ミオが新しい資料を持ってきた。
「昨日の酒瓶について調べました。」
テーブルの上に瓶を置く。
古い茶色の瓶。
ラベルにはかすれた文字。
«神酒»
「これは日本酒の銘柄じゃありません。」
ミオが説明する。
「神様に供える酒を、一般的に御神酒と呼びます。」
「神社の祭礼などで使われるものです。」
蓮が瓶を眺める。
「普通の日本酒とは違うんですか?」
「酒そのものが特殊とは限りません。」
ミオは答えた。
「重要なのは、誰のために、どのように使われた酒なのかです。」
「酒は飲むだけじゃない。」
「捧げるものでもある。」
透は古い酒蔵を思い出した。
百個の酒樽。
亡霊たち。
そして、酒を飲み続ける自分。
「じゃあ……。」
透が言う。
「俺たちは毎日、酒を飲んでるんじゃなくて。」
「何かに捧げている?」
ミオはすぐには答えなかった。
「まだ分かりません。」
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午後。
三人は、古い酒造家の資料館を訪れた。
そこには明治から昭和までの酒造りに関する資料が残されていた。
ミオは展示資料を見ながら説明する。
「日本酒は、米をそのまま発酵させるだけじゃありません。」
「麹が米のでんぷんを糖に変えて、酵母がその糖をアルコールに変える。」
蓮が感心する。
「一つの発酵の中に、いろんな生き物の働きがあるんですね。」
「そうです。」
ミオは笑った。
「昔の人が酒を『生きたもの』のように扱った理由の一つでもあります。」
透は酒瓶を見る。
「生きたもの……。」
その言葉が妙に引っかかった。
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資料館の奥。
古い酒造帳が展示されていた。
ミオがページをめくる。
すると、ある記録で手が止まった。
«明治三十八年
奉納酒 百樽
酒見村へ搬送»
「……百樽。」
透の顔が変わる。
「酒蔵で見た数と同じだ。」
ミオはさらにページをめくる。
次の記録。
«奉納後、記録なし。»
その下に、後世の研究者が鉛筆で書き込んだ文字があった。
«「百樽は酒ではなく、人のために用意されたのではないか。」»
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突然。
展示室の照明が消えた。
真っ暗になる。
蓮が声を上げる。
「停電?」
違う。
非常灯も点かない。
暗闇の中で、
どこからか酒の匂いが漂ってくる。
透の耳に、声が届いた。
«「一つ。」»
また声。
«「二つ。」»
さらに。
«「三つ。」»
誰かが数えている。
暗闇の奥から、
カンッ。
酒杯の音。
そして、
«「百。」»
照明が戻る。
展示室には三人しかいない。
しかし、
展示ケースの中に変化があった。
さっきまで空だった古い酒杯。
その中に、
透明な液体が一杯だけ入っている。
ミオが青ざめる。
「触らないで。」
透は頷いた。
酒杯の横に、小さな説明札がある。
そこには、
「奉納酒用 明治期」
と書かれていた。
しかしその下に、
見覚えのない文字が浮かんでいた。
«八日目の一杯。»
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その夜。
透は自宅で配信を始めた。
八日目。
机。
模様。
酒。
カメラ。
しかし、今日は違った。
透は酒を飲む前に視聴者へ話した。
「このチャレンジには、昔から続いている何かがある。」
コメントが一気に流れる。
«「怖い」»
«「設定?」»
«「続き気になる」»
«「飲め!」»
その最後の言葉が大量に増える。
飲め。
飲め。
飲め。
透は画面を見つめる。
その瞬間。
コメント欄に、知らないアカウントが現れた。
百升ノ音
«「酒の名前を知りたい?」»
透の指が止まる。
続けて表示された。
«「名前は、まだない。」»
«「だから人間が名前をつけた。」»
«「神酒。」»
«「御神酒。」»
«「奉納酒。」»
そして最後に――
«「百日目には、別の名前になる。」»
配信画面が突然暗転する。
しかし音声だけは残っていた。
透の声ではない。
子どもの声。
«「僕たちは、それを知ってる。」»
画面が復旧する。
机の上の酒瓶を見る。
ラベルが変わっていた。
そこには今まで存在しなかった文字が浮かんでいる。
«「生贄酒」»
透は、初めて酒そのものに恐怖を感じた。
そしてその夜から、
彼の身体にも、少しずつ変化が始まった。




