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第5話 最初の一万円

第5話 最初の一万円


 八月の朝だった。


 都内の古い雑居ビル三階。


 エレベーターのない建物の階段には、夏の熱気がこもっている。


 神楽坂恵流沙は汗を拭いながらドアを開けた。


 そこが新しい会社だった。


 広さはわずか十二坪。


 以前なら応接室にもならない広さである。


 しかし今の恵流沙には十分だった。


 窓際に中古机が三台。


 リサイクルショップで買った事務椅子が三脚。


 壁際には古いスチール棚。


 エアコンは時々変な音を出す。


 それでも立派なオフィスだった。


「おはようございます!」


 元気な声が響いた。


 社員第一号の佐伯真奈だった。


 二十五歳。


 大学卒業後、大手通販会社で働いていたが、恵流沙の話に惚れ込んで転職してきた。


「おはよう」


「社長、今日も暑いですね!」


「エアコンが生きてれば勝ちよ」


「基準低くないですか?」


 二人は笑った。


 その時、後ろから眠そうな声が聞こえる。


「おはようございます……」


 相沢蓮だった。


 MBA時代の同期であり、共同創業メンバー。


 寝癖のまま出社している。


「蓮」


「はい」


「髪」


「後で直します」


「今直しなさい」


 さらに奥から眼鏡の青年が顔を出した。


「おはようございます」


 三人目の社員。


 システム担当の森川優斗だった。


 二十三歳。


 まだ社会人経験は浅いが技術力は高い。


 社員は三人。


 社長を入れて四人。


 これが恵流沙の会社の全戦力だった。


 午前九時。


 朝礼が始まる。


 中古机を囲みながら、紙コップのコーヒーを飲む。


 香りは安物だ。


 だが悪くない。


「現在の口座残高」


 恵流沙が言う。


「三百二十一万八千円」


 三人が真顔になる。


「家賃と人件費を払うと?」


 真奈が聞く。


「四か月」


「うわ」


「だから売上が必要です」


 静寂。


 現実は厳しかった。


 黒崎からの追加面談は続いている。


 しかし出資はまだ決まっていない。


 つまり会社は自力で生き残らなければならない。


「営業行ってきます」


 真奈が立ち上がる。


「私も同行する」


 恵流沙は資料を持った。


 外は灼熱だった。


 アスファルトが陽炎のように揺れている。


 スーツの中に汗が流れる。


 駅前。


 商店街。


 地方産品を扱う小売店。


 配送業者。


 食品メーカー。


 何件も回る。


 断られる。


 また断られる。


「実績は?」


「ありません」


「取引先は?」


「これからです」


「では無理ですね」


 何度も聞いた言葉だった。


 だが恵流沙は諦めない。


 夕方。


 空が茜色に染まり始めた頃だった。


 一軒の小さな味噌製造会社を訪ねる。


 創業百年。


 社員十人。


 地方で細々と営業している老舗だった。


 社長は七十代の男性だった。


「ネット販売?」


「はい」


 恵流沙は説明する。


「御社の商品を全国へ届けたいんです」


「うちは大企業じゃない」


「知っています」


「広告費もない」


「知っています」


「若い人は味噌なんか買わん」


 恵流沙は笑った。


「それは違います」


「何?」


「知らないだけです」


 社長が眉を上げる。


 恵流沙は資料を広げた。


「若い世代は本物を求めています」


「本物?」


「ええ」


「なぜそう言える」


「データがあります」


 説明を続ける。


 市場調査。


 購買傾向。


 SNS分析。


 社長は黙って聞いていた。


 十分。


 二十分。


 三十分。


 やがて言った。


「面白いな」


 恵流沙の心臓が跳ねる。


「本当ですか?」


「やってみるか」


「え?」


「まず一万円分」


 時間が止まったように感じた。


「一万円でいい」


 老人が笑う。


「売れたら次を考える」


 帰り道。


 恵流沙は何度も契約書を見た。


 夕焼けの光が紙を赤く染める。


 一万円。


 たった一万円。


 だが。


 その一万円は誰かが価値を認めて払うお金だった。


 会社に戻る。


 ドアを開ける。


「ただいま」


「おかえりなさい」


 真奈が振り向く。


「どうでした?」


 恵流沙は契約書を机に置いた。


 全員が見る。


 沈黙。


 そして。


「売上だ」


 ぽつりと相沢が言った。


 森川が目を見開く。


「え?」


「売上ですか?」


 真奈が叫ぶ。


「本当に?」


 恵流沙は頷いた。


「一万円」


 一瞬静まり返る。


 次の瞬間。


「やったあああ!」


 真奈が飛び上がった。


「売れた!」


「売れました!」


「初売上だ!」


 森川まで立ち上がる。


 相沢も珍しく笑っていた。


 オフィスはお祭り騒ぎになった。


 その様子を見ながら、恵流沙は椅子に腰を下ろした。


 窓の外では夜が始まっている。


 ビルの灯りが一つ、また一つと点灯していく。


 ふいに視界が滲んだ。


「あれ……」


 頬が濡れている。


 涙だった。


 慌てて拭う。


 しかし止まらない。


 神楽坂グループの売上は何千億円だった。


 かつてなら一万円など誤差にもならない。


 それなのに。


 今は違う。


 この一万円は誰かから与えられた金ではない。


 自分たちで稼いだ金だった。


 ゼロから生み出した金だった。


「社長?」


 真奈が心配そうに近づく。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫」


 恵流沙は笑った。


 涙を流しながら笑った。


「嬉しいだけ」


 相沢が静かに言う。


「おめでとう」


 恵流沙は窓の外を見る。


 あの日。


 高級ホテルで婚約破棄された夜。


 全てを失ったと思った。


 だが違った。


 本当に大切なものは残っていた。


 知識。


 経験。


 仲間。


 そして諦めない心。


 恵流沙は契約書を胸に抱いた。


 一万円。


 たった一万円。


 しかしそれは。


 未来へ続く最初の一歩だった。


「次は十万円」


 恵流沙が言う。


 真奈が笑う。


「その次は百万円ですね」


 森川が言う。


「その次は一千万円です」


 相沢が頷く。


「その次は一億」


 四人は顔を見合わせた。


 そして同時に笑った。


 狭いオフィスの窓から、東京の夜景が輝いていた。


 その光は、彼らの未来のように眩しかった。



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