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第6話 見えない妨害者

第6話 見えない妨害者


 九月の風は少しだけ秋の匂いを含んでいた。


 神楽坂恵流沙は出勤すると、まず窓を開けた。


 古い雑居ビルの三階。


 朝の空気が流れ込む。


 遠くで工事の音が響き、駅へ向かう人々の足音が聞こえる。


 会社は少しずつ軌道に乗り始めていた。


 最初の一万円の売上から二か月。


 契約先は五社まで増えている。


 地方の味噌。


 漬物。


 干物。


 小規模事業者の商品をネットで販売する事業は、ゆっくりだが確実に広がっていた。


「社長!」


 真奈が飛び込んできた。


 顔色が悪い。


「どうしたの?」


「契約解除です」


 嫌な予感がした。


「どこが?」


「三社同時です」


 空気が変わった。


 恵流沙は資料を受け取る。


 昨日まで順調だった取引先。


 その三社が一斉に契約終了を通知してきていた。


「理由は?」


「経営判断上の都合としか……」


 相沢もパソコンから顔を上げる。


「変だな」


「ええ」


 恵流沙は頷いた。


 あまりにも不自然だった。


 一社なら分かる。


 二社でも分かる。


 だが三社同時。


 しかも同じ週。


「森川」


「はい」


「取引履歴を確認して」


「了解」


 森川の指がキーボードを叩き始める。


 カタカタという音がオフィスに響く。


 恵流沙は窓の外を見た。


 胸の奥がざわつく。


 何かがおかしい。


 経験がそう告げていた。


 その日の午後。


 恵流沙は契約解除した会社の一つを訪問した。


 古い食品メーカーだった。


 応接室に通される。


 社長は終始落ち着かない様子だった。


「申し訳ありません」


「いえ」


 恵流沙は微笑む。


「理由だけ教えてください」


「それは……」


 社長は視線を逸らした。


「契約内容に問題が?」


「ありません」


「売上が悪かった?」


「むしろ好調でした」


「ならなぜです?」


 沈黙。


 壁掛け時計の音だけが聞こえる。


 社長は額の汗を拭った。


「言えないんです」


「言えない?」


「本当に申し訳ない」


 その顔を見て確信した。


 脅されている。


 帰り道。


 空は曇っていた。


 灰色の雲が低く垂れ込めている。


 恵流沙は駅のホームで立ち尽くした。


 冷たい風が吹く。


 その時だった。


 スマートフォンが鳴る。


 知らない番号だった。


「はい」


『神楽坂さんですか』


 男の声。


 小さな声だった。


『すぐ切ります』


「どちら様ですか?」


『名乗れません』


 さらに声が小さくなる。


『御子柴です』


 恵流沙の表情が凍った。


『御子柴竜臣が動いています』


 周囲の音が遠くなる。


『あなたと取引するなと圧力をかけています』


「証拠は?」


『メールがあります』


 沈黙。


『でも私の名前は出さないでください』


 通話が切れた。


 ホームに電車が滑り込む。


 だが恵流沙は動けなかった。


 胸の奥が冷えていく。


「やっぱり」


 小さく呟く。


 オフィスへ戻る。


 夜だった。


 窓の外にはネオンが輝いている。


 真奈が心配そうに顔を上げた。


「社長?」


「当たりだった」


「え?」


「御子柴よ」


 静寂。


 相沢が椅子から立ち上がる。


「本当に?」


「圧力をかけてる」


 森川が顔をしかめる。


「最低ですね」


「ええ」


 恵流沙は静かに言った。


「最低だわ」


 だが不思議だった。


 怒りはある。


 しかし取り乱してはいない。


 むしろ頭が冴えていた。


 MBA時代の教授が言っていた。


 

「危機が来たら感情より事実を集めろ」


 今まさにその時だった。


「戦いますか?」


 真奈が尋ねる。


 恵流沙は首を横に振る。


「まだ」


「でも」


「証拠が足りない」


 ホワイトボードの前へ立つ。


 黒いマーカーを手に取る。


 大きく書く。


 事実。


 仮説。


 証拠。


 そして矢印を引く。


「まず確認」


 さらに書き込む。


「誰が圧力をかけた」


「いつ」


「どの会社へ」


「どんな内容で」


 相沢が笑った。


「始まったな」


「何が?」


「神楽坂恵流沙の調査モード」


 真奈が頷く。


「怖いんですよね、これ」


「そうなの?」


「めちゃくちゃ怖いです」


 恵流沙は思わず笑った。


 少しだけ肩の力が抜ける。


 翌日から調査が始まった。


 電話。


 訪問。


 ヒアリング。


 メールの収集。


 森川はシステムログを解析する。


 真奈は取引先を回る。


 相沢は人脈を使う。


 そして少しずつ見えてきた。


 共通点。


 同じ人物。


 同じ指示。


 同じ会社。


 御子柴竜臣。


 その名前だった。


 深夜。


 オフィスには四人だけ。


 コンビニのカレーの匂いが漂う。


 紙コップのコーヒーはすっかり冷えていた。


 森川が叫ぶ。


「出ました!」


「何?」


「メールです!」


 全員が集まる。


 画面には転送されたメール。


 そこには明確な文章があった。


『神楽坂社との取引継続は推奨しない』


『今後の取引関係を考慮して判断していただきたい』


 送り主。


 御子柴グループ関係者。


 証拠だった。


 確かな証拠だった。


 オフィスが静まり返る。


 真奈が呟く。


「本当にやってたんだ……」


 相沢が腕を組む。


「予想以上に露骨だな」


 恵流沙は画面を見つめた。


 かつて婚約者だった男。


 全てを失った彼女をさらに潰そうとしている。


 だが。


 なぜだろう。


 恐怖はなかった。


 むしろ静かな闘志が燃えていた。


 ホワイトボードへ歩く。


 新しい文字を書く。


 証拠確保。


 その下にもう一行。


 反撃準備。


 マーカーの音が静かなオフィスに響いた。


「社長」


 真奈が言う。


「怒ってます?」


 恵流沙は振り返った。


 そして静かに微笑む。


「いいえ」


「本当に?」


「ええ」


 窓の外には東京の夜景が広がっていた。


 数え切れない灯り。


 その光を見ながら彼女は言う。


「経営は感情でやらないの」


 そして画面の証拠を見つめる。


「だからこそ」


 その声は静かだった。


 だが誰よりも冷たかった。


「御子柴さんには、数字と事実でお返ししましょう」


 その夜。


 反撃の準備が始まった。



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