第4話 二十回目の門前払い
第4話 二十回目の門前払い
七月の東京は朝から蒸し暑かった。
神楽坂恵流沙は満員電車に揺られながら吊革を握っていた。
かつて運転手付きの車で移動していた令嬢とは思えない姿だったが、不思議と惨めな気持ちはなかった。
その代わり、額にはうっすら汗が滲んでいる。
紺色のスーツは丁寧に手入れされているものの、毎日のように着ているため少しだけくたびれてきていた。
バッグの中には事業計画書。
何度も修正した分厚い資料。
数字と市場分析と戦略が詰まっている。
恵流沙は窓に映る自分の顔を見た。
「今日で十五社目」
小さく呟く。
「そろそろ運命の投資家が現れてもいい頃よね」
だが運命は優しくなかった。
十五社目。
「申し訳ありませんが、今回はご縁がなかったということで」
断られた。
十六社目。
「神楽坂家の件でイメージが悪いんですよ」
断られた。
十七社目。
「事業内容は面白い。でもリスクが高い」
断られた。
十八社目。
「起業経験は?」
「ありません」
「では難しいですね」
断られた。
十九社目。
若い投資家は資料をめくりながら鼻で笑った。
「MBA取得者って最近多いですよね」
「そうですね」
「でも学位と経営は別ですよ」
「その通りです」
「あなたに一億円投資する理由がありません」
資料が机の上に置かれる。
面談終了。
わずか七分だった。
ビルを出る。
夕立が降り始めていた。
熱気を含んだ雨がアスファルトを叩く。
恵流沙は軒下に立った。
スーツの肩が少し濡れる。
スマートフォンを見る。
残高。
交通費。
家賃。
食費。
現実は厳しかった。
胃の奥がきりきりと痛む。
ふと隣のガラスに映った自分を見る。
疲れている。
笑顔もない。
目の下に薄い隈。
その時だった。
スマートフォンが鳴る。
相沢蓮だった。
「もしもし」
『また断られたな』
「どうして分かるのよ」
『声』
即答だった。
恵流沙は苦笑する。
『何社目だ』
「十九」
『まだ十九か』
「まだ?」
『お前が諦める数字じゃない』
恵流沙は少し黙った。
雨音が聞こえる。
車のタイヤが水を跳ねる音もする。
『泣いてるか?』
「まさか」
『じゃあ大丈夫だ』
「何それ」
『お前は泣きながらでも前進するタイプだからな』
電話が切れる。
その言葉が妙に胸に残った。
翌朝。
二十社目。
都心の高層ビルだった。
受付はホテルのように豪華で、大理石が光を反射している。
案内された会議室からは東京の街並みが一望できた。
恵流沙は深呼吸する。
これで駄目ならどうする。
考えない。
考えても意味がない。
扉が開いた。
男が入ってくる。
四十五歳前後。
鋭い目。
黒いスーツ。
無駄な動きが一切ない。
黒崎誠司。
業界で「冷徹な虎」と呼ばれるベンチャーキャピタリストだった。
「神楽坂さん」
「本日はお時間をいただきありがとうございます」
「五分で終わらせてください」
いきなりだった。
普通の人なら動揺する。
だが恵流沙は笑った。
「十分です」
「ほう」
黒崎が椅子に座る。
「では始めてください」
恵流沙は立ち上がる。
ノートパソコンを開く。
スクリーンに資料が映る。
「まず結論から申し上げます」
黒崎は腕を組んだ。
「聞きましょう」
「私は物流業界の無駄を減らします」
「具体的に」
「地方の小規模事業者と消費者を直接つなぐ新しい物流プラットフォームです」
説明を続ける。
市場規模。
競合分析。
収益構造。
数字。
数字。
数字。
MBAで叩き込まれた知識が口から自然に出てくる。
だが黒崎の表情は変わらない。
途中で言った。
「その程度の資料なら毎日見ています」
普通なら心が折れる。
だが恵流沙は止まらなかった。
「承知しています」
「ならなぜ続ける?」
「私は資料を売りに来たのではありません」
「何を売りに来た?」
「私自身です」
初めて黒崎の眉が動いた。
会議室が静かになる。
エアコンの音だけが聞こえる。
「続けてください」
恵流沙は頷いた。
「この事業は真似できます」
「そうでしょうね」
「戦略も真似できます」
「そうでしょう」
「ですが、私の執念だけは真似できません」
黒崎の目が細くなる。
「執念?」
「私は全て失いました」
恵流沙は正面から見据えた。
「家も会社も婚約者も失いました」
自分でも驚くほど声は落ち着いていた。
「だからもう失うものがありません」
「なるほど」
「失敗したら終わりです」
「皆そうです」
「いいえ」
恵流沙は首を振る。
「私は本当に終わります」
沈黙。
長い沈黙。
黒崎はじっと彼女を見ていた。
獲物を観察する猛獣のような目だった。
やがて言う。
「神楽坂さん」
「はい」
「二十社目ですか?」
恵流沙は驚いた。
「なぜそれを」
「目を見れば分かる」
黒崎は立ち上がる。
窓の外を見る。
夏の青空が広がっていた。
「普通は十社で諦める」
「そうですか」
「十五社で心が折れる」
「かもしれません」
「二十社まで来る人間は少ない」
黒崎が振り返る。
「面白い」
その一言だった。
恵流沙の心臓が大きく跳ねる。
「神楽坂さん」
「はい」
「追加資料を持ってきてください」
「それは……」
「次の面談を設定します」
恵流沙は息を呑んだ。
初めてだった。
二十社目にして初めて。
門前払いではない。
可能性だった。
黒崎は薄く笑う。
「投資するとは言っていませんよ」
「十分です」
「なぜ?」
恵流沙も笑った。
久しぶりに心から笑えた。
「ようやくスタートラインに立てたからです」
会議室を出る。
エレベーターに乗る。
一階へ降りる。
ビルの外へ出る。
真夏の日差しが眩しかった。
空を見上げる。
青い。
どこまでも青い。
胸の奥で何かが動き始めていた。
二十回断られた。
二十回笑われた。
それでも諦めなかった。
だから今、この景色がある。
恵流沙は空に向かって小さく呟く。
「まだ終わってない」
そして歩き出した。
今度は敗者としてではなく。
未来の経営者として。




