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第3話 年収一〇四三万円の価値

第3話 年収一〇四三万円の価値


 六月の朝日が六畳一間の部屋に差し込んでいた。


 神楽坂恵流沙は床に座り込み、コンビニで買った百円のコーヒーをすすっていた。


 徹夜明けだった。


 ホワイトボードは数字と矢印で埋め尽くされている。


 窓の外では小学生たちが登校している。


 ランドセルが朝日に光り、元気な笑い声が聞こえてきた。


 その平和な光景とは対照的に、恵流沙の銀行口座残高は恐ろしく平和ではなかった。


「七十三万四千八百円……」


 スマートフォンの画面を見ながら呟く。


 これが現在の全財産だった。


 屋敷はない。


 高級車もない。


 株もない。


 父が築き上げた神楽坂グループもない。


 あるのは六畳一間とノートパソコンだけ。


「ふふ」


 なぜか笑ってしまった。


「人生って面白いわね」


 その時だった。


 スマートフォンに通知が届く。


 MBA関連の情報サイトだった。


 何気なく開く。


『日本のMBA取得者の平均年収は約一〇四三万円』


 恵流沙は画面を見つめた。


 もう一度読む。


 一〇四三万円。


 平均。


 決して保証ではない。


 だが一つの指標ではある。


 彼女はゆっくり立ち上がった。


「そういうことね」


 ホワイトボードに近づく。


 黒いマーカーを手に取った。


 大きく数字を書く。


 一〇四三万円。


 その下に別の数字を書く。


 四三三万円。


 日本人の平均年収だった。


 しばらく見つめる。


 そして笑った。


「なるほど」


 誰もいない部屋で言う。


「私は破産したけど、価値まで消えたわけじゃない」


 その瞬間、玄関のチャイムが鳴った。


 ピンポーン。


「はい?」


 ドアを開ける。


 立っていたのは隣の部屋のおばあさんだった。


 白髪交じりの髪。


 花柄のエプロン。


 両手に野菜を抱えている。


「あのねえ」


「はい」


「昨日引っ越してきたお嬢さんでしょ?」


「そうです」


「じゃがいも余ってるから食べる?」


 恵流沙は思わず瞬きをした。


「え?」


「一人暮らしでしょ?」


 おばあさんは笑った。


「顔色悪いわよ」


 数分後。


 恵流沙の部屋にはじゃがいもと玉ねぎが置かれていた。


 味噌汁までついてきた。


 湯気の向こうに味噌の香りが立ち上る。


「ありがとうございます」


「若いんだからちゃんと食べなさい」


「はい」


「仕事は?」


「求職中です」


 少し考えてから答えた。


 おばあさんが頷く。


「頑張りなさいね」


 去っていく後ろ姿を見送りながら、恵流沙は妙な気持ちになった。


 昨日まで会ったこともない人間。


 しかし婚約者より優しかった。


 味噌汁を一口飲む。


 温かい。


 胸の奥まで温かかった。


「……負けてられないわね」


 午後。


 恵流沙はスーツに着替えた。


 紺色のパンツスーツ。


 大学院時代に着ていたものだ。


 鏡を見る。


 目の下には薄い隈。


 だが目の輝きは失われていない。


「さて」


 バッグを持つ。


「市場へ出ましょうか」


 向かった先は都内のコワーキングスペースだった。


 起業家やフリーランスが集まる場所。


 コーヒーの香り。


 キーボードの音。


 低い話し声。


 活気があった。


 恵流沙は空席に座る。


 周囲を観察する。


 二十代。


 三十代。


 皆、何かに挑戦している。


 神楽坂家の令嬢だった頃には見えなかった世界だった。


 そこで偶然、懐かしい顔を見つける。


「相沢?」


 ノートパソコンから顔を上げた男が目を丸くした。


「神楽坂?」


「久しぶり」


「お前、何してる」


「倒産した」


「知ってる」


 即答だった。


 恵流沙は吹き出した。


「遠慮ないわね」


「今さらだろ」


 相沢蓮は椅子を回転させる。


 相変わらず無愛想だった。


「で?」


「で?」


「何する気だ」


 恵流沙は笑った。


「起業」


 相沢が額を押さえる。


「だと思った」


「何よ」


「普通の人間は就職先探す」


「普通じゃないもの」


「知ってる」


 再び即答だった。


 二人とも笑う。


 MBA時代を思い出した。


 ケーススタディで夜明けまで議論した日々。


 誰より厳しい意見をぶつけてきた同期。


 だが誰より実力を認めてくれた男でもある。


「資金は?」


「ない」


「顧客は?」


「ない」


「社員は?」


「いない」


「なるほど」


 相沢は頷く。


「いつも通り無茶だな」


「褒め言葉として受け取るわ」


「勝手にしろ」


 そう言いながら名刺を差し出してきた。


「困ったら連絡しろ」


 恵流沙は受け取る。


 少しだけ胸が熱くなった。


 人脈は失ったと思っていた。


 だが全部ではなかった。


 夜。


 アパートへ戻る。


 窓から夕焼けが見えた。


 オレンジ色の光がホワイトボードを照らしている。


 恵流沙はマーカーを手に取った。


 一〇四三万円。


 その数字の横に新しく書く。


『目標ではない』


 さらに続ける。


『通過点』


 MBA取得者の平均年収。


 確かに魅力的だ。


 だがそれは彼女のゴールではない。


 神楽坂グループを失ったあの日から。


 婚約破棄されたあの日から。


 彼女の戦いは始まっている。


 窓の外で夜風が揺れた。


 遠くに見えるビル群の灯りが星のように輝いている。


 恵流沙は微笑んだ。


「平均で満足するつもりはないわ」


 静かな部屋に声が響く。


「だって私は」


 ホワイトボードを見上げる。


「神楽坂恵流沙なんだから」


 その目にはもう敗者の影はなかった。


 そこにいたのは、次の戦略を考える経営者だった。



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